呉木マンプ

 東平には、採鉱本部のあった山の南側に東平社宅がありました。
山の麓の、端出場(ハデバ)から、索道によって、生活物資が、運ばれ、
東平からは、銅鉱石が降ろされていました。

 小学校は、山の上に有りましたが、その山を越えるには、50−100mの標高差が有ります。
たまの登山ならば、どおってことない、高度差ですが毎日の生活で何度も通るのは大変なことです。
で、明治40年に、山の南と北を結ぶマンプ(トンネル)が出来ました。
 本来の目的は、素石と呼ばれる銅を含まない石を捨てる為に掘られたトンネルのようです。

 山の北側には、呉木社宅群と、尾端社宅群があって、大正14年6月20日の資料では、
両方の社宅で、236戸 1,103人が、住んでいた記録があります。
山の南には、東平社宅があり、採鉱本部もあり、雇人さん(幹部)が多く、
生活も標高700mの山中にしては、良かったと思われます。

 が、毎日50−100mの山を越える北側の住人は、通勤も大変だったと思われます。
登って降りて、30分くらいでしょうか ?  雪の日、雨の日も有ります。
私は、素石を捨てる目的よりも、南北間の社宅の差別を無くした功績のほうが大きいと思います。
と言うより、第三通洞周辺の、一本松・柳谷・唐谷・第三社宅より遅れて呉木・尾端社宅が出来たのは、
呉木マンプが、明治40年に出来たから、可能になったと考えた方が良いかもしれません。

 ところが、この呉木マンプの、長さをインターネットで調べてみると、
100mから、197mまで、約2倍の差があります。
これは、調べてみる価値アリ !!

 調査開始です。