牛車は、どれ位、一度に運搬できたのだろう ?
私は、乏しい資料から、500Kgと計算しましたが、
廣瀬歴史資料館では、明治13年〜 牛車 340Kg 俵 8,5個と、表示しています。
多分、膨大な資料の中から、見つけ出して、公的な資料館で公表しているのだから、大きな間違いの無い数字だと思います。
ルイ・ラロック
明治7年 フランス人鉱山技師、ルイ・ラロックを雇用
廣瀬支配人の月給100円に対して、ラロックは600円だったとされる。
高給のように見えるが、現在で考えてみると、
日本の大卒の月給が20万円前後です。
もし、開発途上国に派遣されても、日本円で20万円程度の、収入は必要でしょう。
1日 1ドルで生活している開発途上国から見ると、
(一般社員が、月収30ドル。社長が、その10倍として、300ドル。日本円にして、¥24,000となります。
そうすると、日本からの派遣社員は、開発途上国から見ると、超・高給取りになります。
そう考えると、明治7年に、ラロックに支払った給料は、ラロックにとっては、普通か、異国に行って少し多い位だったかもしれません。
明治時代の、別子銅山・廣瀬支配人の、給料の6倍もの、給料を支払って、外国人技術者を雇った。
その、6倍の給料と言う数字が、強調されすぎ、一人歩きしている気がします。
1年間で、ラロックは、精力的に別子銅山を調べ、未来への道筋を記したのが、「別子銅山 目論見書」です。
平成16年に、住友資料館から、「別子銅山目論見書ー第1部・第2部」が、日本語で発刊されました。
別子銅山目論見書ー第1部 10ページに、運搬および連絡手段の記述があります。
輸送は、馬の背中に積んで行なわれる。
そしてまた試験的に、きわめて原始的な構造の牛につないだ2輪の小荷車でも運ばれる。
1・馬1頭の、名目上の積荷=150Kg
2・牛1頭引き二輪荷車、および御者2人
積荷:銅、立川から新居浜へ=360Kg
積荷:米、新居浜から立川へ=450Kg
(注釈)、廣瀬宰平が、近江牛と大津・山科から荷車を導入したのは、明治13年の牛車道完成時と考えられていたが、
ラロックの記事により、すでに明治7年から8年にかけて、新居浜・立川間で試験的に実用化されていたことがわかる。
と、有ります。
明治14年
牛車の写真は、意外と無い。上は、新居浜・口屋の写真。
結論として、牛車は、340〜500Kgの荷物を、運んでいたと思われます。