車社会と自然環境

自動車税も燃料代も安くなり、一人一台自動車が持てるようになってきた。
国道や高速道路もどんどん整備され、とても便利になった。
だが便利さと引き換えに、自然破壊が少しずつ進行している。
ととえば自動車が排出する二酸化炭素と消費する酸素、二酸化炭素を吸収するために木(どのくらいの大きさかは不明)が数十本必要らしい。

でもどんどん車が造られ、どんどん道路が造られているのだから利用しないはずがない。
道路ができ便利になればなるほど、自動車は増えるだろう。
自動車が増えれば渋滞が始まり、じゃあ渋滞しないように道路を拡張しようとなる。
ということで拡張された道路で渋滞がなくなって便利になり、自動車で移動した方が便利だから更に自動車が増える。
自動車が増えたら渋滞が始まり、拡張もできないから違うところに道路を造ろう・・・・
何処までいけばいいのか・・・・

最近は自然環境問題がクローズアップされ、個々人も企業も真剣に考えている。
そしてテレビの自動車会社のコマーシャルでも
「環境を考え・・・」
「明日の子供たちのために・・・」

とか環境について考えていますよ〜と言っている。
しかし、売っているのは大排気量で「ゆとりの・・・」と燃料を多く消費する車が多いではないか。どうなっているのだろう?
相反することを平気で言っても誰も疑わない時代になったのだろうか。
商売だから奇麗事は言えない。
でも言ったからには、もっと真剣に考えて欲しいものです。

山や林を切り開き完成した自動車道路のおかげで便利になり、自動車は益々増える。
では増える自動車が消費する酸素と排出される二酸化炭素、切り倒された木々が吸収したはずの二酸化炭素量と放出されただろう酸素量と比べたら、酸素は確実に減っているに違いない。
でも自動車購入者の希望は渋滞もなく走れる道路を、何処へでも行ける便利な道路を要求するだろうな。
例え山を切り崩してでも、便利になる道路を造ってくれと要求するのだろうな。
誰も山を整備して林を創れとは言わないだろう。

話がそれるが、昭和45年のころ公害問題の時代。
いろんな団体が公害を出している企業を責めて、デモの様子をテレビは伝えていた。
工場からでる廃液で汚れた川や海が映像になり、みんなが企業を責めていた。
その片方で家庭からでる汚水汚染も指摘されていて、工場からの公害はみんな一致団結して企業を責め続けるだろうけど、家庭からの汚水汚染は自分自身を責めることになるから何も言わないだろう、そして家庭から出る汚水で川や海は汚れてしまうだろう。
その時、このデモをしている人たちの中に「これでは駄目だ」と言える人が何人いるだろかって、当時私は思っていた。
いつの時代も責める対象が他人であれば当然のように一致協力できるのに、自分自身のこととなると責められなくなってしまう。それが現代人だろうと、当時思っていた。
今、自動車と自然環境についても同じではないだろうか。見栄と権力の象徴は捨てることはできない、まして便利なものは捨てることは不可能。なぜなら行きつく先が自分を犠牲にしなくてはならないのだから。
ある集会で環境について議論した時、ある人が「そんなこと個人のモラルの問題だから、他人がどうこうとは言えないんじゃない?」と注意されたことがある。
私は個人を注意しようと言っていた訳ではなく、個人のモラルであれば個人のモラルを変える環境をみんなでつくる事ができるのではないかと言ったつもりなのですが、理解されなかった。
この自動車と自然環境についても、結局は個人の問題なので他人がとやかく言えないことなのでしょけど、自然環境を真剣に考えられような環境を個々人の周りから整えることができるのではないだろうか。

最近、ある会社が自家用通勤を禁止にする記事が新聞に出ていました。
この会社は、本気で環境問題について考え取り組んでいる会社なんだと強く印象に残ったのは、私だけでしょうか。
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