人を信じれず、活字を信じる。 相手を信じず、遠い他人を信じる。 世の中は色々な情報が飛び交っている。 何を信じるのか、どう判断するのか、受け取る人間の判断に委ねられているのではないか? では受け取る人間が正しく判断できるのか、間違った場合には正しい方向へ軌道修正できるのか。 ある日、JRのホームへ入ると次の列車の乗車口ではない所で年配の女性達三人が並ばれているので、「次の列車の乗車口はここではないですよ、向こうの黄色線のところで、ここは列車の窓になりますよ」と言っても、お互いに顔を見合わせて無言のままで動かれない。 見知らぬ私が「ここは違う」と言ったからか、信じてもらえない。 周りを見渡してみれば誰も白線のところには並んでいないので、変だとわかるはずなのに。 「次の列車はxx号で、ここはaa号となっているでしょう」と頭上の乗車口の案内板を指さし言ってみても信じてもらえない。 構内放送でも「黄色線で描かれている・・・」と言ってくれているのに信じてくれない。 どう言えばいいのか考えていると「じゃあ確かめてくる」と言って一人の方が駅員の方に尋ねに行かれた。 これで多分大丈夫だろうと思って、私は正しい乗車口に並んだのですが、しばらくして「やっぱり3番4番て駅員さんに言われましたよ!」と語気を強め尋ねに行かれた方が私に言ってから、女性は窓になる所へ戻られた。 どうも駅員さんの話しを自分勝手な解釈で受け取って、色違いで同じ3番がここにもあることを見落としているようだ。せっかく早くから並ばれているのに、どう言えば良かったのだろう。 まるでこちらが悪者であるかのように見られ、「ここは違いますよ」なんて言うのではなかったと悔やまれてしかたない。 しばらくすると列車がホームに入ってきて停車をしたが、女性達が並ばれていたところはやっぱり窓しかない、慌てて荷物を持ち、何か言いながら走って乗車口へ...。 うさんくさい男が言ったものだから信じてもらえなかったのだろうか。 私の話し方、説明の仕方が下手だったからだろうか。 私以外の人が誰も言わなかったから信じてもらえなかったのだろうか。 もっと信じてもらうまで私が説得しなければならなかったのだろうか。 誰が言えば信じてくれたのだろうか。 話は変わり、芸能人や有名人のスキャンダルや話題の雑誌が売れ、テレビでも芸能人や有名人のスキャンダルや話題が毎日繰り返し報じられ、直接関係ない読者や視聴者の間では直接聞いてきたかのように当事者の性格についてまで会話が交わされている。 顔も知らない第三者の言葉より、直接話したことはなくても雑誌やテレビで知っているレポーターの話を100%信じられる信頼はどこから生まれるのだろう。 噂やレポーターの感想を簡単に信じることができ、当事者本人の言葉は例え顔を直接見ながらであっても既に造られた思い込みで信じない。 信じてもらおうと当人がムキになればなるほど、「やっぱりね〜っ。」なんて言われて端から聞いてもらえない。 割り込み乗車のおじさんおばさんに注意しようものなら、注意した方が悪者のように周りからジロリと見られ、言うじゃなかったと悔やんでしまうのは何故? 人権教育なんかで「噂」「デマ」に対する戒めについて数多く聞いているはずだろうに、会って話したこともない、片方向でしか知らないことでも、ある一瞬を見ただけでも、あまりに簡単に信じ過ぎてはいないだろうか。 何を信じて、何を疑うのか。 何が正しくて、何が間違いなのか。 最終的には、私達個人の判断に頼るしかないのだろうけど、どんなに悪いことをしても何の罪悪感もなく私は正しいと演説できる事を見せられると、誰もが自分勝手なモノサシで自分勝手な判断を下すようになってしまうのではないだろうか。 |