人間の能力や才能を知るために学校でも職場でも、いや社会全体が数値化した指標で人間を区別してはいないか。 どんなにやさしく、どんなに思いやりがある人間でも喋るのが下手で、自分の考えが上手く言えなかったり、勉強が出来なかったりしたら「駄目」と判定していないか。 人間の能力や才能を、0「ゼロ」か1「イチ」に置き換え集計し優越をつけていないか。 ある子が小学校1年に入学して、読み書きが出来なく学力もなく落ち着きがなければ「駄目」な子供とレッテルを貼られる。原因は親が入学前に読み書きや落ち着きのある子に育てなかった責任・子供の能力不足になり、他の子供たちからも馬鹿にされる。 でもある先生に出会って、ある一つの教科を誉められてからその子は明るく生まれ変わった。でも入学した時に貼られたレッテルは、他の子供たちにも他の子供たちの父兄にも知れ渡っていて、一生消えることはない。 読み書き、算数のテストの点数が良く勉強が出来きて、おとなしく先生の言う事を聞ける子が「良い子」で、読み書きも、算数もできなくて落ち着きがないと「駄目な子」と決められる。小学校に入学して間もないのに.... 無限の能力、無限の可能性、それを数日で、そして紙切れ一枚で測れるはずもない。まして成長過程では測れるはずもないだろうに、それをあえて測り一生消えないレッテルを貼っていく。 記憶力のある子、記憶力はなくても想像力のある子、学力はなくても素直でやさしい子、そんなものを数値化できるはずはない。 いつのまにかテストの成績がよければ「良い子」となり、テストの成績が悪いと「駄目な子」となって、テスト以外でどんなに悪いことをしても「良い子」でいられる。 例え「良い子」が「駄目な子」を陰でいじめていても、「駄目な子」が悪者になってしまう。先生や大人達は言う、勉強もよく出来る「良い子」がそんなことしないでしょう。と 無限の能力と無限の可能性、「0」と「1」の間には無限の世界が広がっているはずである。 そうなふうに私は恩師から学んだつもりだった。そして先の子もある先生に出会って、きっと何か学んだはずだと信じる。 こんなことが大人の社会でも同じようにある。 働く人間を数値化できれば、集計も検索も並び替えも抽出も簡単にできる。 しかし、本当に人間を数値化できているのだろうか。 例えば、職場で交通安全に取り組む一環としてシートベルト着用100%を目指し、事業所を出て行く自動車にシートベルト着用を呼びかけたりしている。確かに管理者の人達が見ている前ではシートベルトをしているだろう、でも見ていなくても100%着用されているかどうか... そして、管理者自身もちゃんとシートベルトをしているかどうか。他の人に指摘していることを、自分は何をしても良いとは思っていないか。 学歴があり上司や同僚に好かれ、お付き合いが良ければ良い人になり、学歴も役職もない人間が真剣に会社のことを考えて進言や指摘をすれば駄目で悪い人となるような社会。まして口下手な人間は自分の考えをハッキリ言えないとして、駄目になる。口下手がまるで何の能力もないようなレッテルを貼る。 実力評価とは言っても、何を基準に評価すればいいのか。 個人の能力を職場でも数値化しようとする。個人の現能力や未知なる能力を全て数値化できるなら、それは神の領域に達しなければ出来ないのではないのではないか? それを無理して数値化しようとしているから、どこかに矛盾が生じているような気がする。 例えば、会社経営のトップが社員へ講演をするのに講演場所が禁煙でもあるのにかかわらず、ヘビースモーカという理由で演壇でタバコを吸っているとしたら、タバコを吸いたくても我慢して聴いている社員はどう思うだろう。 例えば、会社でバリバリ仕事が出来る人がいて、それなりに会社からも評価され地位があったとして、その人が禁煙のホームで平気でたばこを吸いながら会社の話をする。 駅のホームは私的な場所なので何をしようと勝手だろう。でも禁煙となっているからには、いくら私的な時間であってもそこに居る以上はそこのルールに従わなくてはならい。 それが出来ないということは、会社のルールも守れないということだ。今は守っていたとしてもいずれ守らなくなるか、陰では守っていないのかもしれない。 ほんの小さな何でもないルール無視が、「評価対象でなければ何をしてもいい」となって、近い将来に会社へ多大な被害を与えるかもしれない。 しかし、このような本当の姿をことを見えないのだから、うわべしか見ないのだから会社は知る由もない。そして言うのだろう、あんなに優秀な人がそんな事するはずない。と... じゃあ人の能力評価基準とは何なのか、結局は学歴と営業成績などの数値として見えるものでしか評価していないのではないか。 人間性の評価、能力の評価、そんなもの言葉上手に喋れたら、どんな悪事をしていようと満点になるのではないか。 では実力評価、能力評価は何処へいったのか。それは表向きだけの戯言なのか。 そんな実力評価と騒がれることのなかった前の時代の上司や先生は、部下や生徒を良く見ていた。人を見ることに闌けていた。私には真似の出来ない能力で羨ましいと思った。そんな上司や先生が段々と減って、目に見えるものや学歴で数値化しようとしてはいないのか。後が簡単だから。 偉い人や、上司が見ていなければ何をしてもいい、世渡りをうまくして、上手に喋れればそれでいい。 評価(数値化)するときだけ、優秀で良い子でいれば万事OK!。 そんな社会になっていないか。 そんな大人達の姿を子供たちに見せておいて、「今の子供は・・・・」と嘆くような事は言えない。 |