我が天下の人々。
言っていることとやっていることがまったく違っていても恥じることもなく、まして自分の言動に相反していることさえ気づかない。 ある人が講演で良い話を聞いて、『他人の悪口は言わない。その人の気持ちにになって考える・・とても良い話だった』と知り合いの人に講演の話をして、すぐに他人の非難中傷するような悪口をヒソヒソと話をしている。 『良い話』はどこに置いてきたの? ある交差点で左折をしている時に、交差点の左側は見えないので徐行しながら左側ギリギリに曲がっていると、対向車が左いっぱいになって猛スピードで現れた。相手は交差点を左折しようとして対向車領域まではみ出したようだ。そのまま進めば正面衝突になるので直ぐに止まったが、相手の助手席に学生服を着た子供を乗せたお母さんは、こちらが悪いかのようにこちらをにらみつけ、そのまま過ぎ去った。 詫びることもなく、にらみつけることしかできなかったお母さんの顔を思い出すと、もし衝突していたら「私は悪くない。この人が悪い。」とこちらが一方的に悪者になってしまうのではないかと、背筋がぞーっとしてしまう。 なぜそう思ったのか、ずーっと前に友人と単車で九州を旅行していたときのこと、友人が交差点を直進中に対向車が急に右折してきてぶつけられたことがあった。私は後ろから一部始終見ていたのだが、自動車を運転していた若い女性は車から降りるなり「どこを見ているの!」と友人が一方的に悪いように言ってから「弁償してもらうから!」と続けて言っていた。近くにいた男友達が出てきて話は更にややこしくなり、女性は私たちが県外の旅行者だと言うことと、男友達が来てくれたこともあり益々喋る言葉に力が入っていく。嫌な思い出。 結局、うまく喋れる人間が得をする。そして、うまく喋れない、もしくは説得することが不得手な人間は損をする。うまく喋ることができる、または話術が上手なら、権力・地位を利用してどんなに悪いことをしても許される社会になってしまったのではないか。
ほんの些細なルール破りが、ほんの些細な甘えが、いつのまにか規則や法律さえ破ってもそれが当たり前で、誰も恥じることはなくなったのではないだろうか。 本当は、ほんの些細な思いやり、いたわる心から人権が生まれ、そして法律が生まれるのではないだろうか。 今、私たちにできることは、自然や動物、そして人間へ、ほんの小さな思いやりといたわりを持つことではないだろうか。 たとえ他人の犠牲になることはよくないと指摘されても、そのことに指をさされ笑われても、「損をするから止めろ」と言われても、「お前だけいい恰好するな」と叱られても、いつの日にかきっと思いやりに溢れた世界になることを信じて、身の回りから小さな行動を起こそう。 |