正々堂々とは、なんなんだろう? 最近のニュースを見ていて思うことは、過去のことを隠し事なく喋っているのに、ニュースキャスター、評論家や見識者と言われる人が、「もうあんな会社が作っているものは買えない!」と言っている。 今までのことを反省して、正々堂々と悪かったことを出しているのに、あたかも今現在進行中のことのように。 日本という国の体質か、それとも人間の本質なのかわからないが、正々堂々とすれば、弱みを出せば、昔のことまで穿り返し骨の髄までしゃぶるように食らいつきはなさない。 だから、隠すようになる。 「また・・・!」と大々的に騒いで、原因が別だと後のフォローは何もない。 自分達には関係ないことだから、大騒ぎをして大々的に報道しても、間違っていても後の事は知った事じゃない。 だって、ニュースキャスターも見ている人も、何の疑問を感じていないから。 「噂、誇大表現を止めて、人権を守ろう!」と真面目な顔をして言っている人達が、もっとも噂と噂の誇張をしている張本人としか思えない。 よってたかって、貪り、いじめる。 それは、子供の社会で起きている問題と同じではないか。 どうして、それに気づかないのか。 でも、そうしてきたのは、日本人一人一人、人間一人一人が行ってきた賜物だと思う。 これは、立場が変わったとき、たとえば、新聞や雑誌、テレビで間違った報道がされたり、悪質な行為がなされた時のことを考えればよい。 新聞であれば、紙面の見えないような隅っこに「お詫び」と出るだけ。 テレビの場合、番組の最後に一言お詫びを入れるだけ。 これで、万事終わってしまう。 そして、暫くすると「お詫び」が出て、反省もなく同じようなことが繰り返し行われていく。 その事に関して、誰も突っ込んだことはしない。 そして、同じようなことが繰り返し行われていく。 「だって皆同じだもの」、と開き直っているとしか思えない。 とにかく、他人が話題になればいい。 人の不幸は蜜の味。 他人の不幸はとことん暴き、骨の髄までしゃぶり、自分の悪行は簡単に片付ける。 その行為に関しては特別で、誰もそのことに関して骨までしゃぶることはしないし。何も言わない。きっと暗黙のルールがあるのだろう。 でも、他人の、自分たちのグループとは別の人間の非に関してはどこまでもしゃぶり続ける。 人の不幸は蜜の味。 ある事件で被害関係者の投書があって、報道されるとことになったとする。 その事件の状況を加害者側と被害者側と平等に聞き、平等な判断で報道されているだろうか。 言えない事、があっても、調子の良い言い分が「人の不幸は蜜の味」になるように報道されていないか。 仕返しに投書してやれ!と考えた者の思い通りに操られていないか。 上手く利用されていても、騙されていても、それが『報道の自由と正義』なのだろう。 だって、人の不幸は蜜の味、だもの。 それが社会のルールだもの。 台風で列車が運休する。テレビでもラジオでも運休中と言っている。 それも正々堂々と! でも、その時、運休中の列車は走っていた。1時間前に解除になっていた。 正々堂々と、誰もが信じるテレビで喋るからには、根拠があって喋っているはずなのに、列車は動いていた。 もしかしたら、「人の不幸は蜜の味」と同じで、回復しているより運休している方が言葉の響きが良く、皆が興味を引くからかもしれない。 (根本には、情報化社会、と言われながら、相変わらず電話してみるか、駅に行ってみるしかわからないところに問題はあるが。) だとしたら、報道、ニュースとは何だろう。 何を信じるかは、読み手の判断に委ねられているのだろうか? 多分、そうだろう。 きっとそうに違いない。 『私に責任はない。』と言うために。 人の不幸は蜜の味。 国の事を考えなければならない人でも、調子良く言っていれば、裏でどんなに利益を生む密かな悪いことをしても許される。 世の中、どんなに悪人でも調子良く振ることができれば、それが正義になる。ということだろう。 だって、「人の不幸は蜜の味」。皆単純だから目をそむければ万事OK。 力で解決さ! 誰もいい加減である。 自分の非を正々堂々とあからさまにはできない。 そして、あからさまにしたくないのは、日本人の本質ではないか。 自分に非があっても、弱い他人を見つけて責任転嫁をするのがとても上手。 それが、『日本人』というものかもしれない。 誰かが、変わった、変えた、と言っている。 でも、それは単に流行り『言葉』にしかすぎない。 他人に「変われ!」と言うけど、言っている本人は変わろうとはしないから。 そして、その体質は、残念ながら今現在も脈々と受け継がれている。 きっと私が死んだ後も・・・。 どうでもいい事だけど・・・・ |