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CASA DELLE VESTALI〜思い込みの館〜

ここは、「グラディエーター」に仕える巫女(笑)かもめの誇大妄想レヴューのページです
いろんな掲示板等で書かせていただいた文章に少々手を加えております。

◆マキシマスの愛◆
◆キケロ君が好きっっ!!◆
大軍団の闘いから1対1へ
「れる」「られる」で説明できる主人公
この世のすべてに関心が無い
「家庭人」になりたかったマキシマス
マキシマスは仏教徒??
求愛するコモドゥス
◆ルッシラとコモドゥスの性格設定◆
◆強さの演出◆
◆「自省録」とマキシマス◆

 

◆マキシマスの愛◆

マキシマスは、本当に古風な(1800年前の人に古風も何もないか^^;)人なんだと思います。
彼は、マルクス帝(アウレリウス皇帝、と書くのは長いので、以後はこれで統一します)と、自分の家族「しか」愛さない、と決めていたのでは、と思うのです。それが彼の人生の基準だったのでは、と私は想像します。
自分の部下を愛していたじゃないか、との反論もあるかと思いますが、それは「部下達もマルクス帝を敬愛していたから」だと思うのです。または、マルクス帝に仕える自分(マキシマス)を慕ってついてきてくれるから、彼らを大事にしていたのではないかな。
自分の部下ではあるけれども、「マルクス帝から預かった大事な部下だ」との思いの方が強かったのでは、と思います。

それは、とても「軍人らしい」生き方だと思います。でも、主従関係、というとちょっと違うなぁ。師弟の関係、という方が近いかな。
マキシマスがマルクス帝に盲従していた、と言ってるのではありません。彼は、本当に本当にマルクス帝を愛していたんだと思います。師匠のように、教師のように、父のように。マルクス帝の夢見た「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」を、マキシマスも一緒に夢見、師匠の夢を実現するためなら、どんなこともする覚悟でいたんだと思います。

そんな彼の深い深い愛は、けっして他人からは理解されない。

マルクス帝が亡くなった時、コモドゥスは「これで自分が皇帝だ。愛される存在になれるのだ。」と思う。
ルッシラは、弟への疑惑と父の死の悲しみの中でも、自分と息子の身の安全をシビアに考える。
二人とも「まず、自分(と、自分が一番大事にしている者)」しか考えてないのに、マキシマスは「マルクス帝の夢はどうなるのだ!」と、それしか考えていません。
コモドゥスへは、「何故、マルクス帝の夢をおまえは理解しないのか!?それでも息子か!」との怒りもあったのだと思います。
普通の家族思いのパパならば「不本意でも、今はコモドゥスに就くのが安全だな」と判断するでしょう。でも、マキシマスは、マルクス帝と共に歩むのだ、と自分の人生を決めてしまった。決めたからにはそれがまず最優先されるわけで、そこのところが全然器用でない彼は、結局自分のせいで家族を失ってしまうのです。

あの当時の裏切り(謀反)は、当事者のみならず一家全員皆殺しが通例であったのだから、軍を熟知していたマキシマスが、コモドゥスに背くことの結果を想像できないはずはない。
マキシマスは本当は世渡り下手なんでしょうね。そんなところをマルクス帝に見込まれてるわけで、もうこれは、彼の宿命といわざるを得ませんね・・・。

マキシマスは、常にマルクス帝を見つめている。愛する家族を見つめている。
彼の深い愛は、何故か彼をとりまく人たちに伝わり、その深い愛を私にも向けて欲しい、と思わせてしまう。
マキシマスが、キケロから渡された小立像を見つめて涙を流す場面がありますね。
みなさんと同じで、私もいつもあのシーンで涙が出てきます。悲しくて悲しくてたまらないシーンです。悲しい、と感じたのは
「マキシマスは決して現世の方を向いてない」ということが伝わってくるからなんです。
どんなにマキシマスのことを思ってみたところで、だれも彼の心の中に入ってゆけない。ルッシラでさえも彼を振り向かせることはできない。彼の心を占めているのは、死んでしまったマルクス帝と家族のことだけ。

あのシーンで、マキシマスから徹底的に拒否されたかのように、私は感じてしまったのです。
あー、私もマキシマスに捨てられたー。悲しいー(ToT)!!コモドゥス、一緒に泣こう〜〜!
##その前に、鼻にも引っ掛けられないってば・・・・。<ぢぶん


◆キケロ君が好きっっ!!◆

以前、マキシマスに近しい人物になれるならキケロがいいと書き込みました。キケロは、言わばマキシマスの腹心の部下。おそらく身分はそれほど高くはないんでしょうが。(ノベライズでは下男、とありますね。軍人ではなく、貴人の身の回りの世話をする奴隷階級なのかな??)

マキシマスと彼は、あうんの呼吸で行動するのです。マルクス帝が殺された夜、自分のテントに帰ったマキシマスは大急ぎで武装します。身支度の世話をしながら、キケロはマキシマスの言葉を一生懸命復唱します。

マキシマスのセリフ、"I must talk to the senators. I need their counsel. Wake Gaius and Falco. Sword!"の部分、キケロはいちいち「Gaius、Falco、Sword」と復唱しているんです。ささいなセリフなので、字幕には出ていませんが・・・。その一生懸命さがかわゆい(^o^)!

クィントゥスが踏み込んで来た時、捕らえられたマキシマスを助けようとキケロは剣を半分抜きます。彼の目は、まっすぐマキシマスを見つめている。しかし、マキシマスは彼を目で制し、”闘うな”と伝える。そのマキシマスの様子を見て、キケロは剣を鞘に収めるのです。うーん、ここのあたり、二人の絆の強さがうかがえるんですよね〜〜(*^-^*)。もちろん、下男であるにもかかわらず、軍の部下と同じようにキケロをかわいがってるマキシマスのやさしさも伝わってきます。なにより、マキシマスに目で意思表示をしてもらえるなんて、それだけで私はキケロがうらやましい!!

コロシアムでのタイグリス戦を観戦するキケロにも、彼のマキシマスに対する想いが現れてます。観客席のキケロは、はじめは落ち着かなくきょろきょろしていて、自分の目で見るまでは本当にマキシマスなのかどうか信じられないような様子でした。
そしてマキシマスとタイグリス、虎との壮絶な闘いが始まる。興奮し、大熱狂の観衆の中にあって、キケロだけは身じろぎせず、じっとアリーナを見つめています。本当にマキシマスだ、との確信と、将軍ならきっとこの闘いを勝ち残ることができる、との確信が、彼の一点を見つめるまなざしから伝わってきます。本当に、将軍が好きで信じきってるんだな〜〜と、またまた彼がうらやましくなったりして(^^;。あれは絶対、マキシマスの勝利を信じきってる表情ですよ〜!

この後の再会シーンもまたよいのです〜。私もマキシマスに”find me!”と叫んで欲しいわぁ〜(^o^)!それから、鉄の扉を境にして語るシーンも!あっ、手を握ってる!あんなに顔近づけてっ!(ナイショ話するんだからあたりまえですが^^;)おまけにマキシマスからmy old friend! ”なんて呼ばれてる・・・・。くぅ〜〜っ、うらやましいぜ、キケロ君!!

そして彼は、立派にマキシマスのお役に立って(結果、無駄ではあったけど・・・)、死ぬまで彼のために働いたのでした・・・・。

彼にすれば、本望であっただろうと確信するかもめでありました(^^)

大軍団の闘いから1対1へ

マキシマスがプロキシモのところから脱走して城壁に向かう、あの前後の戦闘。

ここのところで「グラ」が好きになれない方、多いようです。5000人の兵士を連れて大乱闘!を期待して見てたのに、あっさり捕まってショボい展開になった・・・と落胆してしまう、と。でも、私はこういう展開にしたからこそ、この作品に盲目愛を捧げるのです(^^)。

私は、グラディエーターはシェイクスピア悲劇のように思えるんです。このシーンは、まさに悲劇の終息に向かってまっしぐらに急展開する場面です。

御恥ずかしながら、高校時代はワタクシ、演劇部員でした。(ぎゃー!!言ってしまった!>_<)で、おなじみの「オセロ」をやったことがあるのですが、少数精鋭(単に部員数が少ないとも言う)の我が部なので、私が脚本を担当することに・・・。シェイクスピアの、なが〜〜〜〜〜〜〜いセリフを要約することの難しさと来たら(@o@)!!

・・・あっと、ちょっと脱線しましたね。何が言いたかったのかと言いますと、シェイクスピア悲劇は、クライマックスに向かうところで、重要人物が畳み掛けるように死んでいくのです。そして、主人公まで死んじゃったところで「見よ!この悲惨な有様を!」と脇役がおいしいところをさらうわけです。
(グラの場合、おいしい脇役はジュバですね。ジュバのおかげで、ラストシーンが単なる「悲劇」になってないところがまた良いのですが。)

オリバー・リードが死ななかったらどういう展開になったか、ということに関してはDVDを待つしかないのですが、あの大量キャラ虐殺(笑)にいたる展開には、コモドゥスの暗い影を感じます。
地下でうごめくようにクーデター計画を練るマキシマス達、それを暗雲で覆い被さるように押しつぶすコモドゥスの情念。

始めの方で、マキシマスの故郷に向かうローマ騎馬軍のシーンがありますよね。あのシーンはすごく印象的に俯瞰で撮影されてます(上から見下ろすような)。あの俯瞰の映像は、マキシマスと妻子の避けられない悲劇を表現してると思います。
同じように、城壁の下でマキシマスに覆い被さるように群がる近衛軍兵士達も俯瞰で撮影されてます。この「避けられない悲劇」の演出のために、上から見下ろすような映像を撮ったのだと思うんです。そして、このシーンにこそコモドゥスの、全てを憎しみで覆い隠してしまうような暗い情念を感じるのです。

この場面にコモドゥスは登場しないし、人物のセリフにも出てきません。だから、私が勝手にここで彼を連想してるだけなのですが・・・・。
あっ、ルッシラがセリフで言ってましたね。「弟は全てを憎んでいる。特にあなたを」と。

私がグラに感心し、カタルシスを感じるのは、大軍団VS大軍団の闘いから、最後には一対一の闘いに収束していくところなのです。

まぁ、普通の映画なら「大人数→少人数の小競り合い→大人数」という展開なのに、グラの戦闘シーンは物語が進むにつれ、どんどんステージ上の人数が減っていきます。かわりに、「闘いの意味」が、人数が減るごとに濃くなっていくのです。

こんな展開を見せる映画は、本当に観たことがない!愛してるよー!リドリー!!

ところで、キケロ君(何故、君??)、彼はコモドゥスの策略により死んでしまいますが、木の下でマキシマスを見つけて「マキシマス!」と叫びますよね。何故、あの時だけ名前で呼んだのでしょうね??いつもは「将軍(general)!」って呼んでるのに・・・。

そーか、キケロ君、君もなのね。マキシマスの愛が欲しかったのね。最後の最期に名前で呼びたかったのね。「お許しを」と言ったのは、「一生に一度で言いから名前で呼んでみたかったの。許して!」ってことだったのね。うふふふふふ・・・・・。

##すみません、途中でどこかの電波が混ざってしまったようです(爆)。

「れる」「られる」で説明できる主人公

ふと思い立ってマキシマスが人から呼び止められた(呼びつけられた)場面を挙げてみたら、「グラディエーター」のあらすじになるということに気付きました(^^;。

(1)マルクス帝から戦勝のねぎらいの言葉をかけられる。
(2)宴でコモドゥスに呼ばれ元老院に引き合わされる。
(3)マルクス帝から呼ばれ皇帝オファーを受ける。
(4)テントを出た後ルッシラに二度引きとめられる。
(5)クィントゥスに起こされて皇帝のテントに呼ばれる。
(6)クィントゥス・近衛兵に捕らえられる→処刑場へ引っ立てられる。
(7)奴隷商人に連れ去られる。
(8)気絶しているところをジュバに呼び戻される(「死ぬな」というセリフ)。
(9)プロキシモに買われる。
(10)プロキシモに呼ばれ、ローマ・コロシアムの話をされる。
(11)剣闘士控え室でルシアスに呼ばれる。
(12)コロシアムでのザマ戦でコモドゥスに呼び止められる(「皇帝に背を向けるな!」のセリフ)。(13)その後ルッシラに呼びつけられクーデター計画のお誘いを受ける。
(14)食事中、ハーケンにローマ軍人としてどこで戦ったか聞かれる。
(15)タイグリス戦の後コモドゥスに呼び止められる(妻子の最期の話)。
(16)剣闘士の花道でキケロに呼び止められる(小立像を手渡される)。
(17)小立像を見つめている時にジュバに「声は届くのか?」と聞かれる。

****この間はクーデター計画実行中****

(18)ルッシラに呼ばれ、クーデター計画変更(グラックス逮捕の報)。
(19)キケロに「マキシマス!」と叫ばれる(きゃー!^▽^)。
(20)脱出するも近衛兵に連行される。
(21)コモドゥスとの対決の後、逝きかけてるところをクィントゥスに呼び戻される。
(22)ルッシラとの最期の対話。あの世で妻子から呼ばれる。

こんなもんですが、どうでしょ?
しかし、これだけ受動的な主人公もマレですよね〜。能動的な行動をするのは15〜16の間のクーデター計画を実行する時だけなんて〜(^^;;;;

全て「れる」「られる」で説明できるマキシマスって一体・・・・(笑)。

あ、追加ですが、ズッカバールとコロシアムの観客にもマキシマスは盛大に呼ばれていますね(笑)。

この世のすべてに関心が無い

マキシマスは家族が死んでからは、この世のあらゆることに関心がないように私には見える。

マキシマス自身は、妻子の死骸を埋め終った後のことは、もうどうでもよかったのではないかなぁ。自分の生死にすら無関心というか。
でも、生きる気力がないくせに自殺はしないんですよね。なぜかというと、彼の本質が野獣だからではないかと(笑)。野生動物に自殺の本能がないように、マキシマスにも「生きる理由はないけれど、自ら死ぬという発想がない」んでは、と最近になってわかりました。

生きる理由は無い、さりとて死ぬタイミングもジュバのせいで逃してしまった、そうこうしているうちにほっとけば死ぬ運命が目の前に来ている(剣闘士になったから)。

でも、剣でやられっぱなしで死ぬのは俺の死に方じゃぁない、と思ったのでしょう。
ハーケンに腕試しされる時はぜ〜〜んぜんやる気を見せなかったマキシマスが、何故、剣を取ったのか。
プロキシモの「死に方は選べないが、死をどう迎えるかで男としての価値が決まる。」という言葉を聞いて「死ぬ死ぬって、うるさい。
俺が死ぬのはここではない。まだ死ぬ時ではない。」と思ったんではないかな。
まだこの段階では、コモドゥスへの復讐心などはないと思う。死と隣り合わせの剣闘士稼業(?)の日常の中で、常に「今はまだ死ぬ時じゃない」と言い続けながら闘っていたんではないかと思う。生きる気力はまだ持てないけれども。

その「生きる気力=生きる目的」が、一つのキーワードで蘇る。

プロキシモがローマの話をした時、マルクス・アウレリウスの名前を聞いたとたん、まるで封印が解けたかのように、マキシマスの目に光が蘇る。復讐心を宿した暗い光だけれども。
「そうだ、俺にはまだやることがある(死ぬのはその後だ)。」と、この時初めて自覚したんじゃないだろうか。
この後のジュバとの会話が、更に自覚を促している。「家族とはまた会える。いつか・・・」ここのセリフ、字幕では「いつか」だけれども、原文では“
not yet”だから、「まだだ」の方が意味としては正しい。
ジュバに
”but not yet”と言われ、マキシマスも呪文のように、自らに言い聞かせるように”not yet”を繰り返すんです。

生きる目的を見出した後からは、剣闘士としてのスタンスも変わっていく。

ズッカバールでは、「死なないための闘い」でしかなかった。言われるままに殺戮を繰り返すことにいらだちを覚えながらも、「自ら死ぬ理由が無い」ため、殺しつづけるマキシマス。
「こんなものが楽しいのか!?」という観客に対する怒りは、自分に対しても言ってるのだと思う。「こんなことをしてまでもおまえは生きていたいのか?」と。
でも、「人生に絶望して自殺する」という発想の無い彼だから(笑)、いらだちをかかえながらも生きていくしかない。

けれど、コロシアムでの闘いは違う。
彼にはやるべきことがあり、その手段もわかっている。「コモドゥスを殺す。」この目的のためだけに、彼は闘う。(後に、マルクス帝の夢を実現する、という目的も加わる)
「民衆を味方につける」というのも、復讐を遂げるための手段なんですね。

自分が“まだ死ねない”のは復讐を遂げるため。それ以外のことには何も関心がないのでしょう。
タイグリス戦のころから、復讐心とマルクス帝の夢(ローマ)の実現とが少しずつ交錯していく。
マルクス帝のことが心を占めるようになると、マキシマスの表情はそれまでとはまた違って、少し柔和な表情になるんですよ。このあたり、ラッセルの演技がとっても微妙でうまくて、感心してしまいます。

生きる目的に、マルクス帝の夢を実現するというのが加わってから、彼は外に向かって動き始める。人の話を聞く耳も持ち始める。プロキシモに対しては、説得なんかしちゃってる(「クーデターを成功させて帰ってきたら金を払う。信用しろ」というセリフ)。

「この世のすべてに関心が無い」状態のマキシマスが、映画のほぼ80%を占めてるんじゃないでしょうか。
それでも私たちが、マキシマスを見つめつづけてしまうのは、将軍時代の部下やマルクス帝、家族に対する彼の愛情を見てしまってるからだと思う。
いつかはあの表情が彼に戻るはず、と思うから。。。。。もうそれはほとんど、願い、祈りに近い。少なくとも私はそうだった・・・・・かも。

けれど、結局彼は一度も現世に微笑みかけることなく妻子の下に旅立って行った。
##脱出直前にルッシラやジュバに微笑みかけるけど、扉をあけた時のマキシマスの表情に比べたら、ねぇ・・・・(悲)。

ちょっとまとまりつかなくなってきたなぁ・・・・。
なんか、はじめに書きたかった内容と微妙に(いや、大幅に)ずれてしまったような気がします・・・。

「家庭人」になりたかったマキシマス

マキシマスは、律儀にも家に帰ってない日数を数えてましたね〜。2年と264日!(案外チマチマしたところがあるのね^^;)マルクス帝に仕えると決めてはいたものの、故郷の土や家族と離れている期間が長くなるほどに、それらに対する愛が深まっていったのではないかな。

マキシマスがマルクス帝に故郷の話をする時のうれしそうな表情!「2年と264日帰っていません」と言いながら、頭を小さく横に振っていましたね。
「私はこんなにも長い間愛する家族をほったらかしているんです。情けない男です。」と思っているように私には見えました。

マキシマスは仏教徒??

マキシマスの思想(?)はキリストというよりも、仏教に近いと思います。ラッセルもどこかの雑誌のインタビュ−でそう言っていたような・・・(うろ覚えでごめんなさい)。

大体、ストア派の哲学そのものが仏教(中でも小乗経)に近いのですよ。
でも、ストア哲学では死後をどう定義するかははっきりしてないようです。

マキシマスは、コロシアムでコモドゥスに「今世か来世で復讐を果たす」と言っているから来世の存在を信じているんですね。

マキシマスの死生観は、スペイン土着の信仰から来てるのか、ローマに伝わった仏教がローマの既存の信仰と結びついていたのか、それは想像するしかないですね。
##仏教はシルクロードを通って西から東に流布した(インド→中国→朝鮮→日本)ので、ローマに伝わったわけではないかもしれませんが・・・。でも、「文化」として伝わった可能性も否定できない(笑)。<・・・って、ナニをむきになっているのか(^^;

マキシマスの祈りは、本当に切実で、見ていて胸が締め付けられます。

求愛するコモドゥス

私、結構コモドゥスがマキシマスにぶつける言葉は全部求愛の言葉に聞こえてたりするんです。

物語の始めの方、マキシマスに対してのセリフ「その時が来たら味方になってくれる?」とか「君は今や英雄だ」とか、声の調子なんかもマキシマスに媚びちゃってる感じで。

普通ああいう場面では、腹黒い皇子が理詰めで部下を追い詰めて「期待してるよ、でも期待を裏切ったらどうなるかわかるな?」っていう風になるもんだけれど、コモドゥスって、自分はマキシマスにかなわないってことを悲しいくらいわかってるんですよね〜〜・・・・(最後の闘いの時も”恐れを知らぬマキシマスとは違うが”と言ってるし。虚勢すら張れない悲しいヤツめ・・・・)。

この「媚びる」調子が、求愛してるように見えちゃうんです。

「新皇帝に忠誠を誓え」っていう場面も、「私が皇帝なんだから、おまえは従え」っていうよりは、「私にもマルクス帝に仕え敬愛したと同じような忠誠(愛)を」と要求してるように見えます。

結局コモドゥスは、得られることの無かった「父からの愛」の代償を、父に一番愛されたマキシマスに求めてるんじゃないかな〜。マキシマスにマルクス帝を重ねて見ている部分があったのだと思います。(後に、それがどんどん広がっていったような気がする・・・。誰でも彼でも愛して欲しい!と)

あと、コモドゥス自身が意識していたかどうかはわからないけれど、コモドゥスは「殺されるならマキシマスに」と願っていたかも。だから、あのラストの闘いは、コモドゥスの潜在意識の中の自殺願望がなせた決闘なのかも?

マキシマスに傷を負わせ、圧倒的に自分を有利にしているんですけどね・・・。もしもマキシマスを殺してしまったら、父を2度殺してしまうことになる。マキシマスに殺されて、コモドゥスはシアワセなんでしょう、きっと・・・・。

マキシマスも、最後の最後に二人にやさしくしてあげてるのですね。ルッシラとコモドゥスに。

二人の決闘の前のマキシマスの落ち着きは、「本当に自由な人間」の落ち着きだと思います。彼は捕らえられ、傷を負って鎖につながれているけれども「自分の心の自由」を持っている。

対してコモドゥスは、皇帝で最高の身分で表面上は全てを握っているのに、憎しみや寂しさに振り回され、自分の心をも支配できない状態。「本当の自由」って、自分の心をコントロールできてることだと思うんです。奴隷だから不自由、皇帝だから自由ってわけではない。自由は、立場で決まるのではない。

マキシマスのあの落ち着きが、残酷な処刑をされながらも心だけは屈服することのなかったウィリアム・ウォレス(「ブレイブ・ハート」の主人公)と重なって見えちゃったりして。

うーん、話が大げさになってきたぞ(^^;

◆ルッシラとコモドゥスの性格設定◆

↑の方で、マキシマスの性格が古風だと書きました。
対してルッシラとコモドゥスは、現代的な感じがします。だから、マキシマスよりも彼らの心の方が私には理解しやすいのです。
なんだかんだ言いながらも、私はコモドゥスをそんなに嫌いになれないし、ルッシラの狡猾さも、憎むほどではない。

コモドゥスは、とにかく、自分に欠けているものを必死で補おうとする。
求めて求めて、渇仰しているのだけれど、彼の心は三日月のように決して満たされることは無い。
コモドゥスにまといつく「孤独」は、現代人がかかえる孤独と似たところがあると思う。
彼は皇帝になることを望んでいたけれど、それは「父から信頼(愛)されている証」だと思っていたからだ。皇帝になることだけが目的なら、彼は幸せだったはず。
望みの皇帝の座につき、目障りなマキシマスは奴隷の身分に堕ち、姉も常にそばにいる。なのに、この満たされない想いはなんだろう?
彼は最後まで、一番欲しいものを得ることはなかったんです。

ルッシラは、マキシマスとの過去の愛を捨てていないよいうだけれども、結局は「息子への愛」が彼女の行動を決めている。
これは、母親であるならば決して不思議なことではないと思う。
あるサイトで、ルッシラが、自分がお膳立てしたクーデターを自分でひっくりかえしたことについて納得できない、という意見を読んだことがあるけれど、とんでもない。
ルッシラの裏切りは、当然の心の動きから来たものだと思う。
ルッシラの現代的なところは、愛(欲望)に貪欲なところかなぁ。
ゲルマニアでのマキシマスとの会話でそれがチラッと垣間見える。
かつての恋人との再会で、臆面もなく秋波を送るところなんかね。(でも、ハッキリ「まだ愛してるのよ」と言わないところがズルくてしたたかです・笑)

このシーンは、ルッシラという人物の本質を、短い時間で全て表していると思う。
マキシマスへの愛、弟への愛、父への愛、亡き夫への愛、そして最愛の我が子への愛。
息子の話をする時のルッシラの表情、他の誰の話題よりも生き生きと語ってるんですよね。コニーの演じ分けも、とても見事だと思います。

現代的な彼らに比べて、マキシマスのような人は古今東西あまりいないですよね。
ほんとに稀有な人です。

 

◆強さの演出◆

マキシマスの個人的強さ(剣の腕)は、映画では巧妙なカット割りで強く見えるように演出してるんだと思います。
こう言っては何ですが、ラッセルはアクション俳優ではないと思うんです。
例えば、シュワちゃんやスタローンとかがああいうアクションをするとしたら、必ず「つばぜり合い」のシーンがあります。がっぷり四つに組んで敵をなぎ倒す!というような演出は、マキシマスの闘いにはありません。(唯一、コモドゥスとの闘いにのみ、ありますね)

私は、それはアクションスターではない俳優がアクションをこなす(こなしているように見せる)ための演出方法だと思うんです。
ズッカバーでの2度目の闘いでは、マキシマスの剣は一度もはずれることなく、敵の身体に命中します。敵はまるで催眠術にかかってマキシマスの剣を受け止められないのかなぁ、と思うくらい見事にです。マキシマスが圧倒的に強く見えるのは、カメラワークががっちりラッセルをサポートしてるからだと思います。

私としては、そういう演出で正解だと思ってます。個人的闘いの演出は、ごくシンプルなものでいい。変に”タメ”を入れて欲しくないです。”タメ”はコモドゥス戦までとっておいて欲しい。

あの逃亡シーン、もしも違う筋書きがあるのならもちろん観てみたいですが、もし観たとしても私には「おまけ」「つけたし」くらいにしか思えないかも・・・・(^^;
今のままの演出が最高!だと思ってるもので。

>やはりマルクス・アウレリウス皇帝の「自省録」を読まなかったら、あなたの「マキシマスの愛 」が浮かばなかったでしょう・・・

◆「自省録」とマキシマス◆

マルクス・アウレリウス著の「自省録」を読んだおかげで、私の中で宙に浮いてしまったいろんな謎が少しずつつ解けてつながっていったのです。「自省録」のマルクス像とマキシマスの行動が重なるように見えたので・・・。

第12章の9に
「我々の信念の実行に当たっては剣闘士ではなく、力士のごとくあるべきである。なぜならば前者は、その持ちうる剣を落とせば殺されてしまう。ところが後者にはいつでも自分の手があって、これを握り締めさえすればよいのだ」

とありますが、マキシマスがこの言葉をマルクス帝から聞かされていたならば、皮肉な自分の運命を呪っていたかもしれませんね。
マルクス帝が「こうあるべきではない」という姿に自分がなってしまっているわけですから。
始め頃のやる気のなさは、案外こんなところから来てたのかも・・・、とまたまた妄想してしまったりして(笑)。
##「信念を貫くには、結局のところ自分自身の力を頼るしかない」という意味ですね。

マルクス帝は不運な皇帝だと思います。
本人は静かに哲学の探求に勤しみたかっただけなのに、アントニヌス・ピウス帝に見初められ皇帝となるべく教育され、不本意ながら皇帝になってしまう。
平和を望んでいたのに、辺境の小競り合いが絶えないので、結局闘いに明け暮れる人生を送ってしまった。
マルクス帝の時代では、ローマ軍側から攻撃を仕掛けた戦いは、たしか無かったと思います。ゲルマニアとの闘いも、あちら側から攻めてきたし。

ううぅ。。。ついついマルクス帝の肩を持ってしまうな〜〜〜。私・・・(^^;

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