あぶ管理人の一言集
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シンガポールへ・・・・2008/10/26 あぶ19歳、22歳、
 大志を抱き乗り込んだイギリスの豪華客船オーカディスは、神戸を出港後、長崎、香港に寄港した。香港では船のエンジントラブルで修理のため1週間も停泊した。その間中、船を豪華ホテルとして使用し、日中は香港の町に繰り出していた。今でこそ活気かふれる大都会だが、当時の香港は乞食が多く、入港する客船の周りに物乞いボートが多数集まってきた。街をあるけば、いたるところでカラカラと音を立てながら空き缶を差し出し物乞いをする人が、ハエのように纏わりついてきた。私が初めて見る外国とは、こういう惨めなアジア人たちであった。
 私が乗った客船はいまでこそ高嶺の花で超豪華旅行をするためのものだが、当時は飛行機が高く、客船の船底に近い4人部屋が安く海外へ行ける方法だった。同部屋の者達は皆日本やヨーロッパからのバックパッカーや学生であった。船に乗っている間に彼らのとの情報交換、意見交換ができ楽しいひとときが過ごせた。客船は香港出港後、シンガポール、シドニーと太平洋を回るクルーズだったが、安い部屋のメンバーの大半がシンガポールで下船した。私は彼らについて、Meyer PlaceのYMCAホステルに泊まることになった。
 同船メンバーは数名、自転車で世界一周をする者、この地で骨を埋める覚悟で働きに来た者、海外飛雄を目指す拓大生など様々だ。そして一人抜け二人抜けとMeyer Placeを後にしていった。このホステルの中には、長期滞在者も居た。他の東南アジア諸国からシンガポールに留学してきた学生たちである。インドネシアのKusnandar, サラワクのMorsidi, インド系フィージー人のKumar、それに西マレーシアから名前は今となっては思い出せないが数名の中国系マレーシア人と一人のインド系マレーシア人のNainaがいた。みんな20前後の同年代で、一緒に語らい楽しく生活していた。
 インドネシアを目指した私だったが、結局資金が底をつき、また、私の目標があまりにも無謀だったのに気付き、憧れの国インドネシア行きを断念し、親から仕送りしてもらい、せめて語学をマスターして帰ろうと目的を切り替えた。私が通ったのはビジネススクールの英語学校と、シンガポール大学のマレー語科であった。
 朝起きると近くのKatongへ朝食と英字新聞を買いにいき新聞を約1時間ほど読み、日中は学校へ通い、夕方は帰ってきた留学生たちとつるんでKatongの屋台街に食事を食べに行くのが日課であった。時には、少し豪華に近くのAmbbasedor Hotel のコーヒーハウスに女の子目当てにおしゃべりに行ったり、デートスポットで有名だったKatong Parkを散歩したりした。若者ゆえに話すことは尽きず、英語の上達とともに留学生たちとさまざまな意見交換ができるようになった。また、かれらのつてで、まもなくSingapore Polytechnicのバドミントン部に混ぜてもらい部員同然の活動をするようにもなった。
 ある時、あまり存在感のなかった物静かでまじめな学生Morsidiと、一緒に食事を行ったことがあった。私も時々食べていたマレー人のおばちゃんが出している屋台だ。また次に一緒に行く機会があったが、その日は店じまいをしていた。おばちゃんの家に行って食事を持ち帰ろうということになり、二人で屋台のすぐ近くのアパートの棟へおばちゃん宅を訪ねた。はじめてみるマレー人の家庭であった。
 Morsidiは、部屋に入るなり家族全員と握手をし、ソファーに腰掛けた。私も同様にソファーに腰をかけた。テレビを見ながら彼と家族の会話が始まり、そのうち礼拝が始まった。ご主人がイマームをし、男の子3人が2列目にならび、おばちゃんはさらに後ろという配置だった。礼拝後、ご主人から子供たちに厳しい説教があり10分ほどで終わった。私にとってははじめて見るイスラムの礼拝であった。とてもほほえましく、日本で失われつつある家族のあるべき形を見たような気がした。
 その時から、私はMorsidiの部屋に訪ねイスラムについての話を聞くことが多くなった。私がイスラムへの入信を決意するのはそれから間もなくのことであった。
 私のシンガポール滞在は6ヶ月であったが、5ヶ月目に入信し、この家族の一員として3人の子供と肩をならべて何回か礼拝をしたのであった。

(私が居たMeyer PlaceもKatong ParkもAmbassedor HotelもKatongのアパート群も現在は埋め立てと高速道路建設によって跡形もなくなている。この家族はKomeng家といい、これから後も私のシンガポールの家族として付き合いが続いている。MorsidiはSinbgapore Polytechcnicを卒業した後マレーシアの船会社に就職し2度ほど日本に訪ねてきた。現在はサラワクのBingtulu港に勤めていおり、時々メール交換をしている。)
 
日系マレーシア人ムハンマド=アリ師(Muhammad Ali Jepun)・・・2006/11/17 あぶ23歳
 クアラルンプルの名前の発祥となったゴンバ川とクラン川の合流点にあるジャメ=モスクに礼拝に行ったときの事である。とはいっても、たまたまそのあたりを通りかかっていたからのことで、普段は滅多に行く事はないモスクである。さて、礼拝が終わり靴を履いて、出ようとすると一人のおじさんに声を掛けられた。私が日本人であることが解ると、是非とも自分の家に寄ってほしいというので言葉に甘えてお邪魔することにした。
クアラ(河口)ルンプル(泥)の名前の由来となったゴンバ川とクラン川の交わる場所に立つマスジド=ジャメ。クアラルンプル最古のマスジドでもある。
 その人の名前はバシロンさんという人で、マスジド=ジャメからは徒歩15分ほどのブキット=ヌナスに住んでいた。彼はムハンマド=アリという日系マレーシア人の話をしてくれた。太平洋戦争時に日本軍落下傘部隊としてマレーシアにやってきたが、ジャングルの中で大怪我をしたまま宙吊りになり現地の人に助けられ、終戦後は帰国ぜず、この国に残った。その後マレーシア人と結婚をしムスリムとして生きていくが、その信仰心の篤さから、人々からWara’と呼ばれるようになった。彼には多数のエピソードが残されている。その中でも変わっているのが人の心が読めるというもの。わが息子でさえ信仰心の篤くないものは敷居をまたがせなかったとか。一時前どこで何をしてたとかも言い当てるとのことである。また、バシロン氏の体験談だが、彼に会いたいと念じればどこからともなくズィクルが聞こえてきて、聞こえてくる方向を辿れば、彼が座ってズィクルをしていたと言っていた。私が学んできたイスラムとは違った世界の不思議な能力を持ち合わせた人物のようであった。
 バシロン氏は私にムハンマドアリ師のところへ行き、師事を仰ぐようにと勧めてくれた。人の心を読む者の所を訪ねることは、腹を開いて見られるような心境である。でも、日本人が達した信仰の篤さから、何かを学び取らなければならないという義務を感じ行ってみることにした。
 ムハンマド=アリ師はマラッカ州のマスジドタナという小さな町で自転車屋さんをやっているという情報をたよりに、学校の長期休みに合わせてマスジドタナを目指した。「Kedai basikal Muhammad Ali Jepun」(自転車屋ムハンマドアリ ジュプン(日本人))と人に聞けば、やはり誰でも知っていた。
 さて、私にとっては緊張する一瞬がやってきた。その店の前に立ち、50歳台のきまじめなそうな日本人らしい顔立ちの男性にマレー語で声を掛けた。続けて「日本語でもいいですか。」「イスラムを教えていただければと思いやってきました。」とマレー語で言ったことを日本語で続けてみた。すぐに日本語で「入りなさい。」と返答が返って来た。この言葉を聴き第一関門を突破し、安堵した私だった。
 彼は、ひたすら自転車修理に没頭していた。その集中力や稀に見る町工場の職人という感じである。礼拝時間を告げるアザーンが始まると、すぐに仕事を置き、作業着のままマスジドへ歩き始めた。私も後に続いた。そのきびきびした動きは、田舎ののんびり歩く人の動きではなく、都会で早足で歩くビジネスマンの動きのようであった。マスジドでジャマア(集団礼拝)で礼拝を行い、それが終わるとスンナの礼拝をすることなくまた店に戻って作業を開始した。私は3日間ここで世話になったが、彼の昼間の礼拝はすべてこの調子であった。
 アスルの礼拝が終われば、残った仕事を仕上げて帰宅の準備である。私は彼の運転するカブの後ろにまたがり、途中市場で買い物をして自宅へと帰った。奥さんはごく普通のマレー人婦人だった。意外に感じたのは番犬を飼っていることである。マレーシアのムスリムの家に番犬を飼う家はほとんどなく犬を毛嫌いすることが多い。すでにマレー人化しつつある私は驚いたが、しかし、考えてみるに番犬を飼うのはムスリムとしては特に問題の在ることではないと気が付いた。夕刻、彼は薪割りや周辺の掃除などの家の仕事をしていた。そして、薄暗くなりかけると、私と共に自宅近くのマスジドへバイクで向かった。礼拝が終わるとすぐに帰宅。そして、食事である。食べ終わると、また、バイクにまたがり、マグリブとは違うモスクへ向かった。そこでは礼拝の後、残ったもので円陣を組んでズィクルが始まった。これはこの地域のスーフィーのやり方なのだろうか。私もみようみまねで約1時間あまりのズィクルを行った。そして、帰宅し、お茶を飲みながら家族と会話を楽しみ早めに就眠した。次の朝は、またムハンマドアリ師のバイクの後ろにまたがり、マスジドで礼拝をし、また、帰宅をし朝食を取った後に、店に行き、ムハンマドアリ師は仕事、私は師に質問をしたり、時間をみて店の周辺を散歩をしたりした。
 このようにごくごくありふれた毎日が3日間続いた。私はとくに師から言葉で指導を受けることもなく、ただただ師の動きに合わせて付いていっただけであった。しかし、昼間は、平凡でもきびきびと無駄な時間を使わない師の生活ぶりは、ムスリムとはこうあるべきとの生活のやり方を行動で教えてもらったと言える。礼拝も1日5回をマスジドに行くものの、その後にだらだらとスンナの礼拝をすることもなかった。
 師はもともと名古屋出身であった。私は「あなたのような方が日本に居れば日本のイスラムも変わってきます。日本に帰りませんか。」と言ってみた。「日本はイスラムがない国だから、帰ろうとは思わない。」とあっさり言われた。師がおっしゃるこの言葉は、考えようによれば私も含めて今現在日本にはまともなムスリムがいないという意味なのだろうか。考えさせられる言であった。
 師の妻は、師について次のように語った。「夫のマレー語はあなたと比べても下手だし、コーランも文字を追っては読めない。しかし、信仰の強さだけはここらあたりのマレー人たちにも負けないほどだ。」
 バシロン氏から聞いていた不思議な力について、師からは何も聞くことはなかった。しかし、口数すくない彼の言葉は、その時は気が付かなかった深い意味がたくさん隠されていたのかもしれない。そう取るようにしている。一緒に過ごした3日間は、その後も私に影響を与え続けていることは間違いない。
 ある日クアラルンプルを歩いていると、偶然街角でバシロン氏と遭遇した。バシロン氏は不思議な言葉を私に残した。「もしも君がりっぱなムスリムになったなら、マスジドジャメで再び遭うことになるだろう。」というものだった。そのときバシロン氏と別れて以来、すでに30年も時が流れた。マレーシア留学時代も、その後結婚して半年クアラルンプルに滞在しても、それからここ数年は年に2回のペースでクアラルンプルを訪れてもいるが、バシロン氏と出会うことはないままだ。
 マスジドジャメの前を通るたびに、バシロン氏とムハンマドアリ師を思い出す私である。
 あのわずか3日間の師との生活は私の心に残り、ムスリムとしてあるべき理想的な生活態度として、ことあるごとに私の心に蘇ってくる。こういう日々を送りたいものである。
バスリ=ハリル(Basri Khalil)・・・2006/10/30 あぶ22歳
 留学先を求めてのあても無い旅は、クアラルンプルに到着することにより、一応の目的地に到着した。夕方、3年前に入信したマスジドネガラに到着し、マグリブのアザーンを待ちながら、クアラルンプルの町に静かに流れるコーランを聞きながらたたずんでいた。旅の疲れを癒してくれるこの響きに聞きほれていたのである。そこへ、ピリッした顔立ちのマレー人がやってきって、「どこから来た?」と聞いてきた。彼は夕暮れ時コーランを聞きながらマスジドの周りを散歩していたようだった。「dari Jepun(日本から)。」彼は興味を示し、二人での会話は進んだ。とにかく私はこの国でイスラムを学びたいと、自分の希望を伝えた。
 バスリ=ハリルは、マスジドネガラ付属のタハフィーズ アルクルアーン学院(コーラン暗誦学院)の生徒の一人であり、学生長をしていた。タハフィーズ学院は、各州のコーラン大会で優勝した学生のみを集めわずか十名程度のエリート集団であった。彼の独断で、私はタハフィーズ学院の寮のベットを与えられ、一時的に泊まることになった。バスリはタハフィーズ学院の先生や宗教庁に掛け合ってくれて学ぶ場所を探すために尽力してくれた。もちろん、マレーシアを背負って立つエリート集団のタハフィーズ学院に入れないのは当然ではあるが、それすらも頼んでみたようだった。マレー人同等のイスラムを身に付けたいという私の希望を叶える最もよい方法をバスリは提案してきた。クアラルンプル周辺にはレベルの高い宗教学校は存在しないので、彼の出身校であるスランゴール州サバブルナム(Sabak Bernam)の『アラブ中等学校』に入ればどうだろうかと言ってくれた。宗教庁から奨学金をもらい、スランゴール州庁から、特例として認めてもらいマレー人子女と同じようにその宗教学校で学ぶということだった。とにかく、その学校に行ってみようと二人でサバブルナムへ向かった。アラブ中等学校はその昔ポンドック(Pondok)と呼ばれ、数名のシェイフ(イスラム教師)の周りに生徒が集まり共同生活をしながらイスラム学を習得するいわば全寮制イスラム神学校であった。しかし、近代化にともない州政府の管理下に置かれ、新教育システムに変わったものだ。ただ、校舎の周辺に、学生寮や寄宿舎となる小屋が立ち並び、学校長一家もその中に住み、24時間生活を通して学校長からイスラムの指導を仰ぐことができる点では、昔ながらのポンドックらしさが少しは残っていた。マレー人同様のイスラムを身に着けるにはこの寮に住み学習するのが一番の近道であるとバスリは薦めてくれた。やはりここで育ったバスリをみれば、ここでの学習がいかに素晴らしい環境であるかを証明しているようであった。バスリとは私にとっては模範的なムスリムであり、バスリのようなムスリムjになれればと、感謝とともに留学先をここに決めたのである。
シャアラムのブルーモスク

 その後のバスリ=ハリルは、タハフィーズ=アルクルアーン学院を卒業し、エジプトのマアハドル=キラーアでの卒業を終えマレーシアに帰ってきた。それから、一時期レストランを経営し、再び宗教界に戻り、シャアラムのブルーモスクのイマームとなった。彼がマアハド キラーアにいた時私は同じエジプトに留学した時期があり、ブルーモスクのイマームをしていた時、彼の家を訪問したことがある。常に先輩として私の成長ぶりを見、アドバイスを欠かしていない。

ジュルテ(Jerteh)・・・2006/10/3(9/ramadan) あぶ22歳
 マレーシアで留学先を探そうと、あてもなく一人シンガポールから東海岸を通り北へ北へとマスジドに泊まりながらヒッチハイクの旅を続けていた。ムルシン(Mersing)では、イマームがマスジドに泊まるのはたいへんだろうと、お宅に泊めてもらい暖かいもてなしを受け、疲れが癒された。当時23歳の私にとって女子高生くらいの年頃のイマームの娘が興味深そうに話しかけてくれたのは、とてもいい思い出となった。旅は順調にクワンタン(Kuantan,パハン州州都)、クアラトレンガヌ(Kuala Trengganu,トレンガヌ州州都)と進んでいった。そして、まもなくクランタン州目前のトレンガヌ州北部の町ジュルテで、大雨に見まわれた。先に進めなくなり、しかたなくジュルテの町にあるちいさなマスジドで泊まることにした。次の日になっても雨は止むどころかさらに激しくなった。しかたなくマスジド連泊となった。そこにはマスジドで寝泊りする貧乏なおじさんがおり、雨がやむのを待ちながら共に語り共に礼拝をした。
 3日目の朝、雨は小降りとなった。町を出ようとおじさんと一緒にバス停に行ったところ、ジュルテ大橋が流されていた。とにかく、おじさんの勧めで屋台で朝食を食べることになった。「君は新しいムスリムだから、私がおごる。」と引かないおじさん。私にとっては小銭ではあるが、おじさんにとっては全財産をはたいての朝食である。少し足りなかったようで、店の主人に「日本から来た新しいムスリムだから、ご主人も協力してくれ」とでも言ったのだろう。懐からすべての金を出していた。ジーンとくるものを感じながら、感謝と共に味わって食べていた私があった。
 川岸まで一緒に行ってみた。ジュルテ大橋は跡形もなく流されており、軍隊がロープをかけ、ボートを走らせていた。流れは激しく、飲み込まれそうな勢いである。おじさんは、川岸で忙しくしている兵士に、私を渡してやってくれと一生懸命に交渉しはじめた。私は割って入って、「おじさん、誰でも渡りたいのだし、いいんだよ。私は急がないから」とかたことのマレー語とゼスチャーで二人に語りかけた。「最近のムスリムはわかっとらん」と兵士を激怒するおじさん。「気持ちだけいただいとくよ、おじさん」と心でいいながら、おじさんを引っ張ってバス停まで戻ってきた。バス停で聞いたところ、10キロほど上流の橋は流れてないので、そこを通ればコタバルにいけるという情報を得れた。私はそのコースをとることにした。バス代を出そうとするおじさんだが、もう懐には一文も持ってないのは解っている。バスに乗り込み、手を振るおじさんが見えなくなるまで、こころの中で「ありがとう」「ありがとう」と繰り返す私だった。
 今私の店で手伝ってくれているマレーシア人留学生ラージーはジュルテ出身である。なつかしくジュルテでのできごとを思い出したのである。いつかジュルテに訪れてみたいものである。

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