精神と肉体
2005/2/24 うんむらふま
アリストテレス:人間
肉体機能と肉体の低次の魂の活動を持っているという点で、人間も他の生物と同列に立っている。しかしこれらのものでさえすでに人間の高い使命に適合しているのである。手、言語機関、直立の歩行、大きい頭脳がそれを示している。ところが低次の魂の活動の上に精神(ヌース)が加わるのである。アリストテレスは感覚的知覚に信頼を置いていた。しかし個々の感覚は、そのつど、それが専門に関係する物の性質を教えてくれるにすぎない。すなわち目は色を、耳は音を、・・・というふうに。これら個々の感覚が伝えてくれる事実を、統一ある現実の像へと組合すのは、個々の感覚の上位にある特別な<共通感覚>の仕事である。共通感覚の座をアリストテレスは心臓に置いている。精神は不死であり、肉体とともに滅びるものではない。しかし純粋な精神が生前あるいは死後に、どのようなあり方で存在するのか、また精神は生きた人間のうちで、どのようにして低次の諸機能と結びつき、統一ある人格となるのか、これらの点については、アリストテレスは何も語っていない。
形式が質料の目的であるように、魂は肉体の目的であり、肉体は魂の道具である。
有機的なものの最低の段階をなすのは植物である。植物の生活機能は養分の摂取、種の繁殖である。動物の場合には、さらに感覚的知覚と場所の移動との能力が加わり、人間の場合には、その上に思惟する能力が加わる。したがって魂のあり方には三つある。すなわち養分を取る植物の魂、感覚する動物の魂、思惟する人間の魂の三つである。

トマス・アキナス:人間と魂
個々の精神の力あるいはその能力に関する理論においてトマスはアリストテレスの弟子である。彼はアリストテレスとともに植物の成長の能力(新陳代謝と生殖)を動物の感覚、知覚、欲求、自由な恣意的な運動から区別する。人間には動物的な能力のほかに知的能力、知性が加わる。トマスは意志よりも知性に一義的な優先を与える。知性は意志よりもすぐれている。彼は認識において認識する主観と認識される客観との同化、現実の具象的な把握を見た。正しい認識は精神の中に存在する像と実在とが一致するならば達せられる。
われわれの認識のあらゆる素材は感覚に基づく。もちろんそれは素材のみである。能動知性はこの素材を形成し続ける。感覚的な経験はわれわれにただ個別的な事物だけしか教えない。知性の本来の対象はしかし個物の中に存する本質、<何性>である。知性がこの本質を認識するために、精神は<幻覚>の助力を得なければならない。
精神論と認識論に関係するものが<倫理学>である。トマスは言う。「次の三つのこと、すなわち人間が何を信ずべきかをしること、何を欲求するかを知ること、何をなすべきかを知ることは人間を必然的に幸福にさせる。」

デカルト:精神と物体
二種の創造された実体の理念を見出す。第一にそれは、精神すなわちデカルトが全く非空間的にして非物体的なものとして把握した思惟である。「なぜならわたしはそれに対して必然的に空間における延長を考えることを要せずして、わたしの思惟を思い浮かべることが可能だからである。」第二にそれは、物体の世界である。もちろん物体界はそれが感覚を通してわれわれの前に現れるようには存在していない。彼も感覚的経験をあいまいなものとして軽視した。彼にとっては延長と思惟、物体と精神が人間において結びついている。しかしもしこの両者が互いに共通していないとしたら、両者が密接に関連して一つの存在物のうちに現れ、しかも相互に作用しあうことがあるということはどうして考えられるのかということ・・・
精神と身体(物体)との区別は、あくまで原理上の区別であって事実の上で精神と身体とがいつも結合していることを否定するものではない。
精神の存在は身体の存在に依存しない独立性をもつ。精神と物体とは二種類の実体として存在する。
心身分離が成立するのはー方法的懐疑をおこなったり、科学者達が実験をおこなったりするといった理論的活動のレベルにおいてである。
心身合一が成立するのはー日常的生=実践的活動のレベル、身体はもはや単なる機械ではなく精神・心を表現するものとして理解される

デカルトからエリザベトへ より
人間精神には二つのものがあって、われわれが精神の本性についてもつことができるすべての認識がこのふたつに依存している。その一つは、精神が思惟することであり、他の一つは精神は身体に合一しているがゆえに身体とはたらき合うことである。
精神はいかにして身体を動かす力をもつのか:精神のみについて我々が持っている概念は、思惟だけである。思惟のうちには、知性の認識や意志の傾向が含まれる。精神と身体とを合わせ持ったものについては、我々は合一の概念しか持たない。この概念に、精神と身体を動かし、身体が精神に作用する力の概念が依存している。それが感情や情念の原因になるのである。人間の全ての知識は、これらの概念をよく区別し、それらおのおのの概念をそれが属しているものにのみ帰属させることに存する。我々の誤りの主要な原因は、普通これらの概念を使ってそれに属していないものを説明しようとすることにある。例えば、想像力を使って精神の本性を理解しようとするときや、ある物体が他の物体に動かされる仕方によって、精神が身体を動かす仕方を理解しようとするときなどがそれにあたる。
我々は精神が身体の中で働く力の概念と、物体が他の物体の中で働く力の概念とを、これまで混同していたと思われる。
・ ・・デカルトは、精神が思惟する側面と、精神が身体と合一して働きあう側面との二つを認めている。
三種類の観念あるいは原初的概念
@ 精神の概念:精神は純粋知性によってしか理解されない。純粋知性を働かせる形而上学的思惟は、精神の概念を我々に親しみやすいものにするのに役立つ。
A 身体の概念:想像力に助けられた知性によってはるかによく理解される。図形や運動を考察して主に想像力をはたらかせる数学の研究は、我々がきわめて判明な物体の概念を形成するのに馴染ませる。
B 精神と身体との合一の概念:感覚によってきわめて明晰に理解される。精神と身体との合一を理解するようになるのは、生と日常の交わりだけを用い、省察したり想像力を働かせるものを研究したりすることを差し控えることにおいてである。

最も偉大な精神と、卑しく凡俗な精神との違い:
凡俗な精神の人は自らを情念の赴くままに任せ、彼らにやってくるものが快・不快であるのに応じてのみ、幸・不幸である。
偉大な精神の人は、彼らもまた情念を持ち、一般の人よりもより激しい情念をしばしばもつことさえあるにもかかわらず、一方で自らが不死であり、きわめて大きな満足を受け取ることができるとみなし、さらに他方で死すべき脆弱な身体、つまり多くの病気にかかりやすく、わずかの年月のうちに死を免れない身体と結びついているとみなす。
これらの偉大な精神の人たちは、彼らに怒る全てのことがらにおいて、最も悲痛で耐え難いことがらにおいてさえも、自らにおいて満足を得る。

本当の不快の種は数限りなくあっても、それを考えるのは必要に迫られた場合だけにし、そこから想像力をそらせるよう注意深く努め、他のすべての時間を、満足と喜びをもたらすものを考えることだけに用いる人を考えると、それは、ものごとを情念ぬきで見るので、自分に関わることをより健全に判断するのに極めて有益であるだけでなく、その人はそれだけで健康を顔服することができることを疑わない。
普通医者が勧める、精神をあらゆる悲しい考えや、諸学問についてのあらゆる真剣な思索からさえもまったく解放しなければならないこと、そして森の緑、花の色、鳥の飛翔など、どんな注意も要しないことがらを眺めて、何も考えていないと思っている人を手本とすることだけに専心しなければならない。それは時間を失うことではなく、むしろ時間をよく用いることである。こういう仕方によって完全な健康を取り戻すであろうという希望によって、自ら満足することができるからである。

デカルトいわく:現れてくるものごとを私に最も快いものにしてくれる角度から眺め、私の主要な満足は私にのみ依存するようにするという、常に私が持っていた性向のおかげで、私は生まれつきであるかのようであったこの不調は、少しずつ完全に消え去ったように思われる。健康こそは人がこの世でもち得るあらゆる他の善の基礎である。

「幸福に生きること」つまり至福に生きるとは、完全に満足し充足した精神を持つことに他ならない。人生を幸福にするものとは何か、つまりこの最高の満足を我々に与えるものは何か。一つは、徳や知恵のようにわれわれに依存するものと、もう一つは、名誉や富や健康のように我々に依存しないものである。
生まれがよく、病気ももたず、何の不自由もなく、それに加えて賢明で有徳でもある人は、同じく賢明有徳であっても、貧しく、病気がちで身体が不自由である人よりも、より完全な満足を享受し得ることは確かである。しかしながら、小さな器は容量が少なくても、大きな器と同じほどいっぱいに満たされることが出来るように、各人の満足ということを、理性によって規制された欲求の充足および達成の意味にとるならば、いかに運命や自然から愛されない人でも、よしんば多くの幸福を享受するのではないにせよ、他の人と同じく完全に満足し充足し得ることを、疑わない。

しばしば身体の不調は、意志の自由を妨げる。
身体の喜びと精神のそれとの間にある基本的な相違:身体は常にへんかにされされ、身体の保存や安楽でさえもその変化に依存しているので、身体に関するすべての喜びは決して長続きしない。なぜなら、身体の喜びは、人がそれを受け取る瞬間に、身体に有益なあるものを獲得することだけから来るが、それが身体に有益でなくなるや否や、喜びもまたなくなるからである。これに対して精神の喜びは、真理の認識もどんな虚偽の確信も精神を破壊しないほど確固とした基礎をもつかぎり、精神自身がそうであるように不滅であり得る。生の行為のために我々の理性を真に使用することは、我々の行為によって獲得され得る精神的および身体的なあらゆる完全性の価値を、情念なしに吟味し考察することのみにある。

意志の協力なしに(したがって精神から来るいかなる能動もなしに)、ただ脳の中の印象だけによって、精神のうちにそのように引き起こされたすべての思考を、一般に情念と名づけることができる。その思考は外的な対象から来るか、あるいは色や音や香りや飢えや渇きや苦痛やその他同様のものの知覚のように、身体の内的状態から来るかによって、一方は外的な感覚、他方は内的な感覚と呼ばれる。
思考が自分の意志を使って、ただ知性的でなく想像的なある思考へと自らを決定するとき、この思考は脳に新しい印象を生じさせるが、それは精神の中の受動ではなく能動であり、それが本来、想像と呼ばれる。
精気の通常の流れが悲しい思考、あるいは楽しい思考、あるいはそれに似た思考をいつも引き起こすようなとき、その流れは受動に帰されるのではなく、そのような思考が引き起こされているその人の本性あるいは気質に帰される。陰気な本性、陽気な気質などである。
多くの人は痛みの感覚と悲しみの情念とを混同し、くすぐったさの感覚と喜びの情念とを混同して、それを欲望ないし快楽と呼び、飢えや渇きの感覚と飲み食いの欲求(それは情念)とを混同している。なぜなら、痛みを生む原因は、悲しみを引き起こすのに必要な仕方において精気をも動かし、あるくすぐったさを感じさせる原因は、喜びを引き起こすのに必要な仕方において精気を動かし、その他のものも同様である。

我々が生まれたときから身体のある運動に伴う思考は、今もなおその運動を伴う。したがって同じ運動が何か外的な原因によって身体の中で再び引き起こされると、精神の中にも同じ思考を引き起こす。反対に、我々が同じ思考を持つと、それは同じ運動を生む。そして結局、我々の身体という機械のつくりは、喜び、あるいは愛、あるいは他のそれに似たものの思考を少しでも持てば、情念に伴う血液のさまざまな運動を引き起こすのに必要な動物精気を、神経を介して全筋肉の中に送るのに十分であるようになっている。

ルソー:自然に帰れ
感情・感性を人間存在の原理におくべきことを主張する。思惟することではなく、感じることこそが人間の自然本性なのである。ただし、理性が健全に発達するための前提条件として自然的感情の存在が不可欠である。

ソクラテス:肉体と魂
肉体は肉体の病によって食い尽くされることがあっても、魂は魂の病(罪)によって食い尽くされるということはありえないという点から、ソクラテスは魂の不死を証明した

キルケゴール:死に至る病
全然健康な人間などというものはおそらく一人もいない、と医者は言う。我々は、もしも我々が人間を良く知っているとすれば、何等かの意味で何ほどか絶望していないような人間は一人もいないといわなければならない。その最深の内奥に動揺・軋轢・分裂・不安の存しないような人間は一人もいない。人間は精神でなければならぬという人間に対する最高の要求の観点のもとに、各人を考察するものである。人間は精神の病を自分のうちに抱いて歩きまわっているので、病がそこにあるということが、時々電光のように彼自身にも不可解な不安のなかでまた不安とともに、示されるのである。
肉体的健康は直接的な規定性であり、これは病気の状態において始めて弁証法的なものとなるものである。精神的には、すなわち人間が精神として考察される場合には、健康も病気と同様に危機的である。精神の直接的な健康というようなものは存在しない。我々が人間を精神の規定のもとに考察することをしないで、人間を単に霊と肉との綜合というふうに考えるとすれば、健康が直接的な規定性であり、霊ないし肉の病気に至って始めて弁証法的な規定性となる。
人々は自分が精神であるということをはっきりと意識するに至ることなしに日々を過ごしているというのが実に一般の状態である。
精神生活においては静止状態というものはない(一切が活動状態である)。人間が正しいことを認識したすぐその瞬間にそれを実践しないならば、第一に認識がその沸騰を止める。意志は弁証法的な或るもので、人間の低い性質をもすべてそのうちに含んでいる。「まあ明日まで模様を見ることにしよう」その間意志は、いわばただぼんやりとそれを見逃している。精神の規定のもとに立っているあらゆる実存は、本質的に自己自身のうちに一貫性をもっているとともに、更により高い或るもののうちに(少なくとも或る理念のうちに)一貫性をもっている。

感覚と脳・神経系:
脊髄―末梢の体の感覚は、一次求心性感覚神経を伝わって脊髄に入る。一次求心性神経は脊髄の後根から脊髄の中に入るが、ある神経はここでシナプスを作り、二次の神経が脳の方へ上行する。体の深部の感覚を司る神経はそのまま脊髄の白質の後部、後索を上行し、延髄で次の神経とシナプスを作る。そして最終的には大脳皮質の体制感覚野といわれる所に行く。これを感覚が皮質に投射したという。
感覚の求心神経は必ず視床で中継される。すべての感覚神経は必ず視床を通るが、感覚として認識されるわけではない。例えば、感覚を伝える神経は途中で枝分かれし、延髄など脳幹の細部にシナプスを作る。これは感覚の認識にはつながらないが、覚醒に関係する。

脳幹―脊髄と大脳、小脳をつなぐ部分にある。下から延髄、橋、中脳と上がっていく。
延髄には呼吸、血圧、心拍など生命の維持につながる中枢が存在する。延髄の上にある橋には青斑核とか縫線核といった神経核の集まりがある。
青斑核には神経伝達物質のノルエピネフリン(ノルアドレナリン)を伝達物質に用いる神経の細胞体が存在する。ここからは神経線維が視床、視床下部、大脳皮質に広く分布(投射)しており、また小脳、脊髄にも行っている。ノルエピネフリンが少なくなると欝状態になる。
縫線核にはセロトニンという物質を伝達に用いる細胞体が存在する。セロトニン作動性神経も広く、大脳、小脳、脊髄に分布するが、特に情動に関係する辺縁系にシナプスを作る。セロトニンも少なくなると鬱病になり、眠れなくなる。
中脳も脳幹の一部として橋などと似ている構造をしている。ここには橋にある縫線核の一部と黒質という神経核の集まり、腹側被蓋という神経核の集まりがある。黒質、腹側被蓋ともにドーパミンを神経伝達物質として用いる。
黒質は線維を大脳基底核に送っている。大脳基底核は運動に関係する部位なので、この神経の異常では運動障害が起こる。パーキンソン病である。
腹側被蓋は前脳の基底部にある中隔側座核(ここの神経核も前脳基底核と呼ばれる)や前頭皮質などの広く線維を送っている。この異常は精神分裂病に特徴的である。
脳幹は多くの脳神経の中継点の核をもつが、それ以外にも網様体と呼ばれる多くの神経核をもつ。これは網様体賦活系と呼ばれ、目覚めの刺激を大脳に送る。
視床―感覚情報を大脳皮質に中継する最後の中継核である。ここで痛みなどの体性感覚はシナプスを変える(視覚の視神経は外側膝状体で、聴覚は内側膝状体でシナプスを変える)。視床は大脳の真ん中に位置している。まず視床の下に視床下部が位置する。その上と横下には脳弓と海馬が位置する。そしてその外側にふたをするように大脳基底核、つまり尾状核とレンズ核(内側は淡蒼球で外側は被殻)が位置する。
視床には多くの核がある、一つは特殊核群で、これは決まった感覚(皮膚感覚、視覚、聴覚など)の中継点で、大脳皮質の決まった領域(たとえば視覚なら後頭葉、触覚なら頭頂葉)に次の線維を送る核である。もう一つは非特殊核で皮質に広く線維を送り、刺激している。これが目覚めを引き起こしている。眠い時にガムを噛むと眠気を防げるというのは、咬筋の中の受容器(伸展受容器)が刺激され、これが脳幹の網様体の核でシナプスを換え、さらに視床の非特殊核で再度シナプスを乗り換えて、広く大脳皮質に刺激を送っているからである。

辺縁系:脳幹のすぐ上に位置する。爬虫類の脳は大部分、辺縁系からなり、そこへは外界のにおいの刺激が入り、処理される。辺縁系と視床下部は本能と情動行動の中心である。本能行動とは自分(個体)または種族(自分と同じ集団)を維持するのに必要な欲求から生じる摂食、飲水、性行動である。本能的欲求が満たされた時には快感を生じ、満たされない時には不快感、欲求不満、怒り等の情動(感情)が生ずる。また外敵、危険、困難に出会った時も怒りや恐れの情動が生じる。この結果、攻撃行動や逃避行動が起こる。情動に対する反応は情動反応と呼ばれる。
本能や情動行動は、呼吸、脈拍、消化管の変化(便秘、下痢など)、排尿、瞳孔、皮膚の毛の変化(立毛)など自律神経系の変化を伴う。このような自律神経系のコントロールは、視床下部からの指令により始まる。一方、辺縁系は感覚の情報を通して与えられる外部の状況が、自己にとって好ましいか好ましくないかを判断する機能を持つ。

大脳皮質:大脳の表面にあるのが大脳皮質である。この部分は、私たちの環境に対する適応性を増すために多くの機能を営む。
皮質では、ものを理解して決断し、経験は記憶に蓄えられ、言語を理解して用いる、といったことが行われる。外界を見たり、その音を聞いたりするだけでなく、音楽や絵画を理解し、好むといった高次の働きをなす。つまり大脳皮質は、私たちが世界を認識する場所なのである。大脳皮質は司令塔である。体の各部から入ってくる情報を判断し決断する場所である。皮質は情報を得て、これを分析し、すでに脳内に蓄えられている過去の情報(記憶)と比較して判断する。そして、指令を体のしかるべき筋や腺に送り、反応させる。

感覚、感情、情動などはどのように定義されるか:
感覚(sensation)は、外界の刺激が受容器により受理され、感覚神経を通って上行し、大脳の感覚野に伝えられた時に生じる。しかしこれは見たとか聞いたというだけで、それに伴う自己の判断が起こっていない。この感覚情報は連合野に伝えられ、過去に体験した経験(記憶)に照らし合わせて解釈が加えられ、その結果、外界が認知される。感覚と認知をまとめて知覚と呼ぶ。
外界の情報はある場合には、喜怒哀楽のような感情(feeling)を引き起こす。この感情のうちで、怒り、愛、憎しみ、恐れなどを強く表現する言葉が情動(emotion)である。したがって情動は感情の一部ともいえる。しかし情動の弱いものが普通、感情と読んでいるものともいえるのである。


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