国際関係論T

「危機の20年」とは、1919年から1939年までの第1次世界大戦が終わってから第2次世界大戦が始まるまでの時期をいう。当初、戦争を防ぎたいという激しい願望が全体的な進路と方向を決定した。その願望が思考を抑え、何があるべきかを考えるにあたって、何があったか・何があるかを無視するユートピアへ向かうことになった。国際連盟の概念は、世論は勝つはずである、世論は理性の声であるという信念からなり、それはまさしくユートピア的理論だった。理想主義者は正しい推論によって道徳律を確立できるという前提のもとに、個人の最高の利益と共同体の最高の利益とが当然一致すると主張した。しかし、理想主義は国際問題の処理に絶対的かつ公平無私な基準を提供し得なかったことが破綻の誘因となった。それにかわる、現実主義者は合目的ないし有意義な行動の根拠を提供できないため、挫折してしまうことになる。第1次世界大戦の後、自由主義の伝統が国際政治の中に持ち込まれた。権力は統治の不可欠な手段であり、統治の国際化は権力の国際化を意味する。力はすべての政治行動の要素であり、国際段階においては力の役割はより大きく、道義の役割はより小さい。現実主義者は国家は同義的義務に拘束されないとし、理想主義者は国家は個人と同じ同義的義務を負うものとする。現実主義者は法の力の観点から眺め法を主として権力の手段とみなし、理想主義者はそれを倫理の観点から眺めて主として倫理の一部門をみなす。有効な平和的変革は、正義の共通感覚というユートピア的概念と力の均衡の変化に対する、機械的な調整という現実主義的概念との妥協を通じてはじめて達成されると、カーは指摘する。このように、平和的変革の方法を確立することが、国際道義および国際政治の根本的な問題である。そのためには、互譲のプロセス、力の特権のすべてを主張しないでおこうとする姿勢のプロセスを通じてはじめて、道義秩序が国際政治にこの上なく確実な足がかりを得ることができるのである。
私はまずここで、人が善を善とする基準、幸福の幸福たる基準はどこに在るのかを問いたいと思う。多数が認めることが善であり得るならば、戦争において自国のために人を殺すことも善となり得る。己の心が快楽とするものが幸福ならば、苦痛となるものすべを抹殺しようとするだろう。何より、善悪の価値判断を外に求めることによって、状況の相違が善悪を流動的なものにしてしまっていることに問題があるのではないか。幸福におけるその価値判断は、知識の貧困さからくるものであり、物事の根拠を正しく理解しようとしない偏見が招くことなのではないか。現実主義者も理想主義者も、知識人の官僚も、経験主義者も合理主義者も、急進派も保守派も、左派も右派も、それらはすべてそれぞれの立場における道義とするものを正当化させるために、それぞれの保身をかけて正当性の理論を作り上げているに過ぎず、そもそもどちらかの正当性を問うようなものではないと私は考える。人間の、他者を認めないどちらか一方への偏りは大きな間違いを招くに違いない。私がカーの意見に賛同する点は、「大衆の意見を形成する手段として最も古く、そして現在でも最も有力なのは、普通教育である」というところだ。私たちが今すべきことは、これから大人と呼ばれるだろう子ども達に過去に学ぶことを教え、過去の歴史の事実を正しく伝えることではないだろうか。どのようになってゆくのか分らない将来だからこそ、造られるべき未来を、今、大きなビジョンを持って展望していかなければならない。そして、そのためには偏見の無い万国共通の正しい人間の在り方を、私たち大人が示していかなければならない。人間が思考する動物だとするならば、決して同じ間違いを犯さないという強い決意を持って臨まなければならないと、私は思う。


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