家族論

 自我心理学とは、人間の心的機能や心理現象を、自我の働きを中心に理解しようとする心理学である。小此木啓吾は「人格の健康と病態は、自我の強さまたは弱さによって評価される」と、自我心理学の考え方を紹介している。エリクソンは、人間を心理・社会的、対人・社会的、社会・文化的、歴史的な多次元的存在として捉え、「自我」がそれの統合の主体であると考えた。エリクソンは、人格の発達を8つの段階で捉える理論を展開し、母と子の相互信頼と相互性に始まり、社会的な承認と自己評価の相互的発展へとつながってゆくものが自己愛が社会化される過程である、とした。社会的に価値のある役割を担うことによって自己愛が発展的に連続していることの認識、すなわち「―としての私」を同一性(アイデンティティー)と呼び、さらに、複数の同一性を統合し秩序づける自我の統合機能を自我同一性と呼んだ。また、対人社会関係の自我の発達は、各時期に出現する発達課題が肯定的に獲得される場合と、否定的要因に阻害されて心理・社会的危機に陥る場合との、両者のかかわりの中で達成されるとした。このように、エリクソンの発達理論は文化社会的要因を重視したものとなっている。
対象関係論は、自我の対象との関係の持ち方から心的現象を理解しようとするものであり、対象とは主に人間を指す。人間の心は、本来対象希求的なものであるとし、自我と対象との関係そのものを一次的なものと考える立場が、対象関係論と呼ばれるものである。北山修は、「広い視点からは、対象関係とは内的・外的な他者との関係であり、対象関係理論とはそれに関する理論である」と定義している。対象関係論においては、外的対象との関係のみならず、内面に心象として形成される内的対象との関係、すなわち内的対象関係が重視される。内外を両方重視する対象関係論を唱えるウィニコットは、子どもの内的欲求と、母親(環境・外界)の側の対応との両方を常に視野に入れた中間的な視点から臨床観察を行い、母子を一対のものとしてみる独特の二者関係論を展開した。乳幼児が母親に高度に依存している状態で、それまでの保護・養育が破綻し乳幼児が突然外界からの侵襲に曝されると、未統合状態にあった乳幼児の自己は解体の危機に瀕する。精神病や人格障害は、環境の側の失敗に由来し、反社会的傾向も母性の剥脱に対する反応であるとウィニコットは考えた。そしてさらに、母親との分離の痛みに対する防衛として、乳児の創造する対象が、母親の乳房ではなく毛布や玩具などに置き換えられるようになり、乳児はその移行対象を介して、錯覚(主観)と脱錯覚(客観)を繰り返す内的現実と外的現実が混じり合う中間地域は、遊びや芸術・宗教・文化的活動体験の中に保持されるようになるとしている。子どもが健全な人間関係を築く能力を身につけよい家族関係を築くことに、親の役割をいかに果たすかが大きな影響を及ぼす。不登校・引きこもり・非行・家庭内暴力・近親姦・摂食障害・アルコール依存・薬物乱用・性非行など、青少年の犯罪が増加する一因は家族関係のあり方にあるのではないか。今、まさに現実問題として家族のあり方と、親の役割が問われている。
古くからのことわざに“三つ子の魂百まで”というものがある。発達心理学的にも、子どもが母親と一体化した状態から一人の人間になるまでの過程として、「自分には価値があり他者は信頼に足るものであり、世界は自分を受け入れてくれるものだ」という肯定的感覚を獲得することがこの時期の課題であり、それがその個人の人生に大きな影響をもたらすと考えられている。また、“三歳までは母の手で”という言葉が20世紀後半において社会の風潮としてみられた。同義語的に扱われているが、これは子どもの側に立った言葉ではない。それは、母親を育児に拘束するものとして捉えられ、その結果として、母親に罪悪感を抱かせ、社会に参加することを断念せざるを得ない状況をもたらすものとされた。そしてさらに、お母さんと一対一の関係があって、その人との内的作業モデルを基盤としてその後の対人関係が徐々に拡がってゆくという従来の説が、例えば、そのような応答のできる対象が赤ちゃんの周りにいるのであればそれは必ずしもお母さん一人でなくてもいいという説に及ぶことになった。では一体、母親とは何なのだろうか。産んだ人、ミルクを与える人、おむつを換える人、抱っこしてあやしてくれる人、このようなことだけのためならば、もちろん母親でなければならない必要性はないだろう。24時間およそ365日一緒に寝起きを共にし、肌で触れ合って、顔を見つめ合っている者にしか分からない赤ちゃん一人ひとりの個性があり、育児書や心理学書に書かれてあるような決まったやり方が通用するわけではないということを一番知っているのは母親のはずである。もちろん、不幸にして誕生後間もなく病気や死によって、母親を一時的に又は永遠に失う赤ちゃんもいる。そんな時こそ、赤ちゃんの呼びかけに応答できる対象が周りにいるのであれば、それは母親一人に限ったことではないのである。「産んだだけでは、親とは言えない」というよりむしろ、「産んだ時から、親なのだから」。子どもにとっても、親として心がけを確立するためにも、三年は貴重な時期と言えるのではないだろうか。なぜ母親は自信を持って、「自分の子どもにとって、母親である私が必ずやらなければならないことがある」と言わないのだろうか。当然、子どもの健やかな成長のためには、母親一人の力だけに頼ることは充分ではなく、家族の協力が必要である。父親の協力は、赤ちゃんに向けた育児の一部を担うことでもあるが、父親の力はむしろ、母親への愛情にそそがれるべきであろう。母親としての妻への感謝の気持ちと、やさしい言葉かけが何より大切なことである。
親の役割とは何か。それは、子どもの未来を創り出す手助けをすることである。子どもは生まれつき自分のすべきこと、すべきでないことが分かっているわけではない。どうすればうまく生きていけるか見当もつかない。だからこそ、親が必要なのであり、子育てのゴールは「未来」である。さらに、子どもを育てるには大きなエネルギーを要し、何かの片手間に育児ができるというほど簡単なものではない。親は目先の問題や、謂われ無い不安に子どもの育て方を左右されないように、何故、今、そのやり方で子育てをしているのか、理由を常に自分に問いかける必要がある。そして、子どもの自己を確立させるためには、まず親が自己を確立しなければならない。親に何より必要なことは、子どもを温かくも厳しく見守り続ける姿勢であり、世界で一番子どもの心に影響を与えられるのは親以外の誰でもないということを知らなければならないのではないだろうか。


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