生命倫理学
70年代初頭からアメリカで使われ始めたバイオエシィックスという言葉は、医療の現代化の突出部が引き起こす諸問題に対処するための学問を指すものとして生まれた。それは「生命科学と医療における人間の行為を、倫理原則の見地から検討する体系的研究」と定義されている。バイオエッシクスの研究の多くがアメリカでなされている理由に、この国特有の統治構造がある。州政府は広範な自治権が与えられており、さらに、知識は人間の生活に役立てられなくてはならないというプラグマティズムの伝統により、科学技術の領域で少しでも有益な発見があると、これと立法化とを結びつけて考え“有用と思われる法律はどんどん作り不都合が生じればその都度修正すればよい”とする実利主義が優位を占めている実情による。さらには、この国はさまざまな宗教、すなわちさまざまな価値体系が併存する多元社会である。州法の制定過程で問わされる議論が、異なった価値観の間での倫理的な調整と妥協という性格を帯び、バイオエッシクス研究のかなりの部分が具体的な政策の立案や立法過程の議論に強い影響を与え、社会的意思決定に関与する結果になっている。欧米における倫理体系は、倫理学者にとってはキリスト教徒の緊張関係の中から生まれ、共生関係を続けてきた倫理学の体系である。
67年12月3日、世界初の心臓移植手術が南アフリカの医師クリスチャン・バーナードによって行われたのを機に、第一次心臓移植手術ブームが起こり、その圧倒的多くはアメリカで行なわれた。死の定義の問題に関しては、@死は一連のプロセスであることA臓器移植にあたっての死の宣言は、移植に関係しない二人の医師によって行われることを骨子とするハーバード大学脳死基準が報告され、68年8月シドニー宣言として採択された。我国においては、68年8月8日北海道立札幌医科大学付属病院で日本初の心臓移植手術が行なわれた。患者の宮崎君は術後83日目で死亡、その後、医学界内部で論争が起こり、和田教授は殺人罪で告発された。“和田心臓移植”は、日本の医学界をただ萎縮させてだけに終わった。その後、83年のマスコミのおける大キャンペーン(収入が低いために肝臓移植を受けさせられない親が、子供の救済をテレビで訴えた)に刺激されて、84年臓器移植斡旋法が成立、現状が非道的にならないように歯止めをかけた。欧米では、生きている人間からの臓器提供の問題を深刻に受けとめ、諸外国の移植法において、生きている臓器の提供者に関して完全な自発的動機であること、インフォームド・コンセントの徹底、金銭授受の禁止、幼児・同意能力に障害がある人が提供者になることへの厳格な制限など、細かく定められている。日本の臓器移植法は、死者と脳死状態からの臓器摘出だけを扱っており、生きている提供者に関する規定がない。さらに、主要臓器のみを対象とし、皮膚・血管・骨などの他の人体組織の摘出に関する規定がない。日本には、人体組織全般について移植やそれ以外の目的でこれを取り出し利用することを規制する法律が存在しないのである。脳死については、70年代半ばまでには人間存在を投影する対象を、脊髄を含めた中枢神経系から脳幹を含めた全脳へと基本的枠組みを変更しながらも、神経科学的な死の定義すなわち脳死論は、解剖学的にも病因論的にも妥当なものとして追認されると同時に、現実世界を語る哲学とも、ユダヤ・プロテスタント・カソリックの主教義や倫理とも矛盾しないとする考え方が広く受容されるようになった。
60年代以降、遺伝病因子の検査や胎児の段階で異常を見つける技術が飛躍的に発達し、これをめぐる倫理問題も深刻化している。また、70年代のバイオエッシクスの論争の中で、中絶の是非は中心問題となった。アメリカの結論は、中絶は倫理的には容認できないが、胎児に重篤な先天異常がみつかった場合は致し方ないというものだった。その医学的理由としては、羊水穿刺がその安全性と正確さという点で実用技術として認められ、先進諸国の基本姿勢は、この技術を先天異常に対する予防手段として積極的に用いようとするものであった。日本は、羊水穿刺による胎児診断の実施件数は少なく、中絶一般は必要悪として認めるが、選択的中絶は嫌うというものである。83年10月には、日本初の体外受精児が生まれた。この技術は、人間の成熟卵を対外に取り出し受精させ、子宮に戻すものであるため潜在的には親子間の法的関係を複雑にするばかりでなく、卵子・精子・胚への操作や冷凍保存の可能性という重大な問題を含んでいる。70年代における家族の観念の解体への志向は、生殖技術をめぐる議論を複雑なものにした。80年代半ばになって、胚研究の規制については各国で法制化の動きが鮮明になってきており、さらに、ヒトクローンの作成はイギリス・ドイツ・デンマークの生殖技術規制法で明確に禁止されている。日本は、2000年ヒトクローン法を成立させ、これは世界初のヒトクローンの単独禁止法となったがまだ多くの問題も残している。
74年7月、アメリカ連邦議会は、科学研究における人体実験の被験者の保護を目的とした初めての国家研究規制法を可決した。現代的な意味の人体実験の規制は、ナチスドイツが行なった人体実験が集中的に審議されたニュルンベルク・コードと呼ばれるもので、人体実験における手続きから発生するインフォームド・コンセントを示唆する骨子のものだった。これらは64年のヘルシンキ宣言の基本となった。74年、国家研究規制法によってガイドライン=委員会体制の原型であるIRB制度が確立したことは、75年ヘルシンキ宣言Uに影響を与え、@人体実験は特別に設けられた委員会において審議されるべきことA宣言の原理を満たしていない研究の投稿は受理されるべきではない。という表現が組み入れられた。76年のカレン裁判、82年ベビー・ドゥ規制を経て以降、アメリカでは終末医療や出生における限界的ケースについては病院内倫理委員会に助言を求める方式が普及した。日本においても、体外受精に関する産婦人科学会のガイドライン、日本移植学会のガイドライン、日本医師会生命倫理懇談会の見解など、ガイドライン相当のものは存在する。しかし、それらは“医学界全体の権威と責任において”社会にむけて指示されたものではない。日本の医療は、医学界全体によって認知されたガイドラインを定め、その遵守を職能団体の責任において保証する監視体制、すなわち、ガイドライン=委員会体制を整えなければならない。生命倫理の問題一般に対してアメリカ社会は自己決定の原理ですべてに対処しようとしており、だからこそ、インフォームド・コンセントが不可欠とされてきた。欧州社会は、生命倫理に関して普遍的価値観を確立させようと欧州生命倫理条約やユネスコ・ヒトゲノム宣言等を結実させてきた。日本は、欧州の理論や現状よりはるかに立ち後れており、社会のあり方としてのんびりと構えていることは許されないだろう。しかし、それぞれの幸福を追求しそれらを満たすことがすべて善であるという帰結を生むと考えは、間違いを犯す可能性を含むものである。一番大事なことは、それらすべての対象とされているものは人間であるということであり、さらに、我々の理性が正否の規定された枠組みの中でのみ働くのではなく、動き出した行為そのものこそが正しい理性の判断によるものでなければならない、と考える。欧米から学ぶべきものは学びながらも、ただ盲目に追従するのではなく、日本は、国民レベルで科学とヒトのあり方を独自のスタンスで示していくべきではないだろうか。


戻る