『氷川清話』―勝海舟
勝海舟は、1823年江戸本所に生まれた。彼は儒教教育を受けた武士であり、その精神を身につけていた。外国に対応し或いは尊皇攘夷派や幕府内の反対勢力を相手にするにあたって、意識のあるなしにかかわらず儒教の考え方に支えられていたと思われる。彼が強調する『正心誠意』は、その教えの出発点をなすものであり、また「何事もすべて知行合一でなければならない」の言葉にある『知行合一』は、陽明学の中心的な教えである。海舟は、蘭学を16・7歳から始めた。「城中において、和蘭陀より献納せし大砲を見る。砲身の文字を見ては切に之を理解せんことを思ふ。よって直ちに時の蘭学者を訪ひ、海外の事情を問ふ。ますます感慨に堪えず、是に於いて決然として蘭学を修めんとの志を生ぜり」とあるように、海舟は免許皆伝の腕前の剣術の修業から転じてオランダ語を学び、私塾「氷解塾」を開いて蘭学や西洋式の兵学を講じ、さらに各藩からの依頼で大砲や鉄砲も作っていた。その頃の日本は、軍艦で乗り込んできた相手から好き勝手なことをされても何もできない状態だった。幕末から維新にかけての日本は、貧富強弱によって手加減する側ではなく、そういう外交に振り回される犠牲者の側にいた。海舟はその日本が「東洋の弱小国の伍を脱して西洋の文明国と進退を共にするようになったからといって、朝鮮とか、シナとか、ロシアとか、英国とかいって各別に見て貧富強弱によって種々手加減すのは間違っている」と指摘した。さらに、海舟は剣術の極意を外交に応用して「一片の至誠と断乎たる気骨さえあるならば、国威を宣揚することも決して難しくはない。こういうふうに切り抜けようなど、あらかじめ見込みを立てておくようなことはしない。ただただいっさいの思慮を捨てて、妄想や邪念が霊智をくもらすことのないようにしておくばりだ」と語り、さらに、「政治家は、わずか4千万や5千万足らずの人心を収攪することができないのはもちろん、いつも列国のために恥辱を受けて独立国の対面をさえ全うすることができないとは、いかにも歯痒いではないか。つまり、彼らは『正心誠意』という、政治家の秘訣を知らないからだ。知っていても行なわないのだから、知らないのも同じことだ。何事もすべて知行合一でなければならない」という彼の言葉は、充分に現代にも通ずるものである。攘夷や統幕で国内が大きく揺れ動き、さらには海の向こうから押し寄せる国際化の波にさらされていた当時の日本にあって、この『知行合一』の教えに突き動かされて、国を憂い、国を愛し、国に命を捧げた大勢の人達がいた。海舟は幕臣でありながら、幕府の海局ではなく、諸外国に対する一つの国たる日本の諸藩・幕府「共有の海局」を作ることを目標にかかげ坂本竜馬らとそれに取り組み、また、西郷隆盛らと会しては、幕府には天下の政治を担う力が無いから雄藩連合で時局を収拾して新しい国家を作ることを強く示唆した。
もし、彼らが生きて維新を実行し近代国家の構想を遂行していたら、今、日本という国はどういう状態で存在していただろうか。我国は今日まで、アメリカ・ヨーロッパに追いつき追い越せを目標として一路邁進してきた。そしてその欧米化の波に押されるままに、私たちの古い伝統的精神文化や合理的でないものを、容赦なく切り捨ててきたという事実は否めない。日本の国際化の流れは近年益々その勢いを増し、現代社会に生きる私たちもまたその流れの中に身を置いている。今一度過去を振り返り、これから形作られる歴史に私たちは何を残していけるかを真剣に考えなければならない。それぞれがどのように思考しどのように行動するかを、今、私たちは問われている。


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