JARVIS 通信1月下旬



1月31日(月)
 1月も最後であるが、なぜか疲れが出たので寝ながらキリスト教系のラジオを聞いていた。幸いにも、クリスチャンの宇宙観を端的に示す内容があったのでメモ書きみたいに紹介してしましょう。英語に自信がないので、内容に若干の間違いがあるかもしれませんが、ご容赦を。

宇宙の起源については4つの見方がある。
@すべては幻である:この説は幻が何かの幻であることを前提としているからおかしい。
A宇宙は自らを創造する:創造の系列は何らかの起源を持っていなくてはならないが、宇宙そのものについては無からの起源を考えねばならず、不合理(irrational)である。
B宇宙は永遠に宇宙としてありつづけている:物事はすべて変化するのに宇宙がいつまでもそのままであるのはおかしい。
C宇宙は何らかの者によって創造された:合理的である。宇宙の創造には創造者の叡智が必要である。

 日本人から見るとなぜか納得できない論議だと思われるが、実は、哲学上は決着のついている問題である。ということで、問題点をまとめてみよう。

@「創造」という人為的な言葉を宇宙の起源に持ちこんでいる。これでは主語としての創造者がいないと不合理になるのは当然である。
A「宇宙」の概念から意図的に創造のために必要な秩序を生み出す「叡智」が取り除かれている。

 というわけで、この宇宙の起源に関する話は人間の主観的言語観をキリスト教を擁護するために不当にも客観世界に適応したために起こったのだが、その背景には宇宙、すなわち自然は秩序を生み出す能力がなく、ただ盲目的に動いているだけだという自然観がある。この自然観を否定しつつあるのが目下研究中の「オートポイエーシス」であるが、社会的に見ると、この手の主張が繰り返されるところに問題がある。宇宙の起源を論じるために何らかの創造者を要請することは古くからなされているが、哲学の世界ではカント以来、この手の論証はまともに取り上げられてはいない。私の問題点の摘出はカントのそれとは若干違うが、原理的には同じものである。クリスチャンの中にはこの説を以って理性的に神の存在を信じられると思いこみ、異教徒を蔑むものがたまにいるから困り者だ。しかも、多くの場合、これが進化論の否定と結びついているから厄介である。
 だが、しかし、カントが敬虔なクリスチャンであったことを考えると、このことを以ってキリスト教を馬鹿にするわけには行かない。少なくとも創造における秩序を生み出す叡智を自覚させ、人間がその叡智によって生かされていることを自覚させている点で宗教的ではある。
 問題はこのような神学的とも言える論争にクリスチャンやムスリム以外の東洋人がかかわるということがないという点である。世界が一つになりつつある今、クリスチャンのことはクリスチャンの勝手でしょうでは済まないからだ。このようなキリスト教徒の主張をある時には否定しつつ、その上で共に生きることを我々日本人は考えるべきではなかろうか。
 

1月30日(日)
 今日天気が晴れたおかげでかなり雪(氷!?)が溶けた。日が照ったので部屋の中はかなり暖かくなったが、外はまだ寒い。
 ところで、こちらではスーパーボールというのがあった。アメリカンフットボールの日本シリーズのようなものらしいが、私はこのスポーツにあまり興味がない。テレビで少し見たのだが、選手が一人負傷していた。大昔に聞いた話だが、アメリカンフットボールでは現役の選手として活躍できるのは3年くらいらしい。野球と比べるとかなり短い。娯楽としては面白いようだが、選手の体のことを考えるとあまり好きになれないスポーツではある。実際にアメリカ人であっても、女性にはあまり人気のないスポーツだ。嫌っている人も多い。ま、ルールが分からないので何とも言えないのだが、この手の過激なスポーツがメジャーなのがアメリカらしいところではある。
 

1月29日(土)
 あられが降ってから2日が経過したが、まだ溶けていない。さすがに車や人が通る所は溶けているが、一面に氷が残っているという感じである。交通機関にはまだ混乱が残っているようだ。エルサレムでも雪が降ったそうだから、世界的暖冬傾向の反動が出たのかもしれない。
 それはともかく、こんな天気のおかげで結構勉強が進んでいる。「アメリカの民主政治」さすがに面白い。英語で読んでいるので良く分からないまま読んでいるのだが、ポイントは何とかつかめる。どうも外国語で本を読むと意味の分からない所がはっきりしてくる気がする。一方、ヘーゲルの「歴史哲学講義」も読んでいるのだが(これは日本語)、久しぶりにヘーゲル読むとその異常さが良く分かる。この異常さは観念論のせいだと一般には言われているが、必ずしもそうではない。ということは、マルクスにもその異常さがい受け継がれているということだ。このことについては、今から書こうと思っている「独在論の誘惑」にもかかわるので、折を見て詳説します。
 

1月28日(金)
 昨日の天気のおかげで今日はカレッジが休校となる。東テキサスの学校は軒並み休校らしい。確かにここは完全な車社会だから、道路が凍結すると交通がほとんどマヒ状態になるのである。ここではチェーンの音も聞こえないから、雪(正確にはあられ)には相当弱いようである。幸いにも食堂は休日の時間帯で開いていた。買い置きはあるものの、食堂が開かないとかなり寂しい。とにかく、ここでは珍しい天気なので、気分転換に何度か構内を歩いてみた。足元がパリパリ音を立てて気持ちがいい。相変わらず雲が低く垂れ込めてはいるが、気分はいい。
 

1月27日(木)
 今日の天気は凄かった。テキサスではめったに雪は降らないとのことだったが、氷が降ってきた。あられである。かなり多量に降ったので、雪同様かなり積もった。おかげで午後の授業はなくなってしまった。食堂は夕方も開いていたが、授業がなくなったのを知らずにカレッジに出たりしていたので、かなり銀世界を歩いてしまった。テキサスにも冬はたまに来るようである。
 

1月26日(水)
 今日は私の誕生日である。38歳になったが、以前よりも若返った気もする。ここでは日本人が若く見られることもあって、二十代そこそこに見られることもある。それだけ進歩がないということか。それはともかく、今日はAOLのつながりが悪くて往生した。幸いサーバーの場所を変えたら解決した。あまり設定は変えたくなかったが、結果としてこちらの方が繋がりやすいようだ。私の誕生日はいつもテストや何やらで落ちつかない。時だけが勝手に過ぎて行く感じである。
 

1月25日(火)
 今日の Wellmon さんの授業で久しぶりに手も足も出ない英文に出会った。テキサスのギャンブラーの話だそうだが、スラングはひどいは、背景は分からないはで、お手上げであった。さすがに、ここまで単語が分からないと英文は読めないものである。私は「アメリカの民主政治」を英語で読んでいるが、これは Robo Word の助けもあって、だいぶん読めるようになった。英語は単語力とも言われるが、実はここまで行くのが大変だったのである。他にも今日はチャペルで久しぶりに集まりがあり、背広でカレッジに出る。少しは英語も聞き取れるようになったか。
 

1月24日(月)
 今日から Statser ご一家の日本語授業の再開である。取りあえず、簡単な復習から始めるが、日本語の語順、助詞の使い方などがまだ十分定着していないようである。約1ヶ月ぶりであるから無理もあるまい。滑り出しは順調である。
 ところで、今読んでいる「アメリカの民主政治」は結構面白い。評判通り、社会を見る基本的知見はかなりそろっている。今日読んで面白かったのは、アングロアメリカとラテンアメリカとの比較の部分である。法律など同様の形式をととのえても、この2つのアメリカには大きな違いがある。トクウィルはその違いを個々人の習慣やものの考えか他の違いに求めるが、その前提となるのがアングロアメリカにおける殖民書の均質性である。共通の宗教、習慣、ものの考え方、そして一定の教育レベルが他のアメリカに見られない特徴である。この均質性が、この国を近代に適応させたのは間違いない。しかし、トクウィルの時代をはるかに越えた今、新たな事態がこの国に訪れている。その後、アングロアメリカは多様な移民を受け入れることによって成長したが、そのために従来の均質性は失われてしまった。しかし、その故にこの国は新たによみがえりつつあるのである。恐らくアングロアメリカとしての均質性による繁栄は湾岸戦争で打ち止めになったであろう。だが、この国は内に民族対立の危険をはらみつつも、それをバネにして新しい時代にいち早く突入してしまった。それが成功するか否かは微妙な所だが、同じ時代を生きる者として注目すべき点ではある。かつて自ら多様な民族を受け入れ復活した例としてはローマ帝国があげられる。
 

1月23日(日)
 今日は教会に行ったのだが、暖房のこともあって礼拝には出なかった。午後に疲れが出て、だいぶん眠ったが、おかげでかなり楽になった。目が少し痛かったのだが、これも疲れのせいだろう。勉強の方はそれなりに進んでいるが、英語の奥の深さにはほとほと恐れ入る。他にもやらなければならないことも多いので、時間があるようでない毎日である。
 

1月22日(土)
 アメリカという国はその巨大な影響力の故に多くに人から嫌われているが、その半分は嫉妬によるものだと思う。トクウィルの「アメリカの民主政治」を読むと良く分かるのだが、法の尊厳と宗教の力がこの国を貪欲さから守っている。これは、実際、私がテキサスに住んでいても感じるところだ。ところが、アメリカの貪欲さのみが他国に人々にとって影響を及ぼすから話がこじれるのである。もしアメリカの貪欲さ、市場至上主義的な資本主義のみが他国にグローバリズムの名の下に押しつけられれば、これほど迷惑な話はないだろう。不幸なことに、アメリカ人にとって自らの抑制は自明すぎ、他国に人々にはそれが見えない。確かにこの国の進めるグローバリズムは危険だが、問題はむしろそれに乗せられやすい他国の人々にあるのではないか。アメリカは場違いな悪役を背負わされている感すらある。日本の現状を見るとそう思う。
 

1月21日(金)
 また暖房がオーバーヒートした。2度目なので、パニックには陥らなかったが、夜中だったのでまた寝れなくなった。1時間ほどファンを回し続けたのだが、電源が切れるまで1時間ほどかかった。取りあえず、修理をお願いしているのだが、今日はまだ来ていない。再び寒くなってきたのでヨダキイ話ではある。
 ところで、日本語の授業の方だが、初級の1の授業のメンバーが5人に戻り、正規の授業は合わせて6人となり前任者の記録を抜いた。嬉しい話である。結構、一般の学生の間でも日本語に対する関心があるようで、いろいろ日本語について聞かれることが多くなった。クラスでは、あいさつの仕方の入り口まで行ったが、他に日本の宗教のことなども聞かれ、かなり日本語以外のことも話が出来そうである。
 
 

[ことばのこと]