JARVIS 通信2月下旬



2月29日(火)
 最近、何かと時間がない。今日キシャちゃんが来なかったので、こちらの方はアウトという感じだが、カレッジに出つつ1日3時間以上の音読は体力的にきついものがある。その一方で、インターネットの方も忙しい。実は、そろそろインターンシップにこちらの生活をレポートする原稿を書こうかと思っているのだが、時間が取れない。恐らく英語の方もレベルアップしているのだろうが、こちらにいるとそれをあまり感じない。時間もそうだが、体力的にもたいへんという感じもする。
 

2月28日(月)
 日本語のクラスでスラング(俗語)の話題になる。どうも生徒との英語でのコミュニケーションがいまいちだと思ったら、スラングの混入によるものらしい。彼らにとって外国人である私がそんなにスラングを知っているわけではないのだが、乗りがいいので自然に相手もスラングを使ってしまうのだろう。外国語を勉強したことのある人はそうでない人よりも自国語での外国人とのコミュニケーションがうまい。つまり、相手にとって何がコミュニケーションの障害になるかを知っているというわけだ。アメリカ人はあまり外国語を勉強しないから、他国の人との英語でのコミュニケーションに支障をきたすのではないかと思うことがある。多少外国語ができるからといって、それがネイティヴのようにスラスラと仕えるわけではないのだが、そこへんが理解されないところがある。別に使えなくてもいいから、外国語を勉強しなさいと私がいう理由がここにある。
 

2月27日(日)
 今日久しぶりに教会に行く。古いタイプの口語訳聖書の訳に「・・、・・、および、その他のこと」という一節がページをはさんで書かれてあるので、一瞬「および」とは何かと迷う。最近、この「および」を点で囲む言い方は少なくなった。メアリーさんには少し気の毒だが、この言い回しはやはり古いと思う。他の聖書では「・・、・・、その他のこと」となっている。だが、このことは日本の聖書の翻訳が常に進んでいることを意味しているので悪いことではない。私は新共同訳の聖書を主に用いているが、クリスチャン以外の立場で訳したものとして岩波版の聖書にも注目している。このように聖書の日本語訳は実に多様なのだが、肝心のキリスト教理解はいまいちである。それはエヴァンゲリオンをつくづくそう感じる。
 

2月26日(土)
 私は短歌が嫌いなのだが、それは理論的確証もないのに先生と称する人が弟子の作品に手をいれるからである。弟子の作品に対して、師が訂正した作品を提示して、それを第三者が評価するならともかく、これでは弟子が天才だったときには師がその才能をつぶすことになる。短歌は年期だという人もいるだろうが、それならば教科書的に短歌の良し悪しを判定することができると私は思う。だいたい年期に沿って実力が上がるなどということは芸術の世界においては自らの魅力を否定するものだ。学問とは違うのである。私は短歌と数学をともにやっている人を知らないから敢えてそう書かせてもらうが、俳句は少し事情が違うようだ。以前聞いた話だが、ラテン系の国では子供の絵に手を加えないそうである。やはり根本的な才能に師は手を加えることはできないということか。日本人の先生方のおせっかいも問題である。
 

2月25日(金)
 何か知らんがインターネットをやっている時間が長い。人の掲示板にかなり出入りさせていただいているので、どうしても時間を食われる。英語の勉強もほどほどに進めているから、はっきり言って時間がない。体力も使うので、夕方少し寝て、真夜中にインターネットをしている。ほとんど日本のテレホーダイに合わせた生活である。というわけで、こちらの時間で真夜中にメールが来ても怪しまないように。
 

2月24日(木)
 ケーブルテレビについてようやくカタがついた。今回きた請求書はチャラとなり、ケーブルそのものもつながった。一安心である。また、昨日に引き続いて3月に来る日本の高校生の一行をいかにもてなすかという話をする。いちおう試験を受けた上で派遣されるようなので、英語はそれなりに出来るだろう。多少テキサス弁には苦労するだろうが、私が高校生のときは英語など話せなかったのだから、やはり優秀であろう。最近は英語指導助手の働きもあって、生の英語が身近になったが、私が高校生のときはそうではなかった。まだ、外人珍しいー状態だったのである。ただ、こちらに来て感じるのだが、アメリカに来てあまり違和感を感じないのは、恐らく小さいときにかなりアメリカのテレビドラマを見ていたからだと思う。中学・高校の頃にはビートルズをはじめポピュラー・ミュージックをかなり聞いていたから、文化的違和感がないのである。しかし、高校生の時にもっと英語が出来ていたらというのは本音である。
 それはともかく、キシャちゃんが来ない。中間試験まで時間がないので計画を練り直さねばならない。
 

2月23日(水)
 ケーブルTVについては話は明日に持ち越しになった。明日の午前中に担当者に来てもらうことになる。どうも手違いがあったようだ。とにかく、こちらとしては無駄金を払うことなく、以前のようにテレビを見れればという感じである。
 それはともかく、来月の22日に日本からロータリークラブを通じて学生さんが来るそうだ。今日、その打ち合わせのためにロータリークラブに出席する。通訳を仰せつかったが、正直、[日本語→英語] は何とかなるものの [英語→日本語は] いまいち自信がない。恐らくネイティブの乗りで話して来ることはあるまいが、やはりテキサス英語は手ごわい。こちらでは日本語の授業を持っているので、さすがに条件反射で英語が口に出るようになったが、聞き取りはやはり難しい。話す分には自分の知っている範囲で英語に直せばいいが、聞く分にはそうはいかない。当然、相手のほうが多くの言葉や表現を知っているわけだから、こちらはどうしても類推の助けを借りないと理解できない。なかなか難しいところではある。
 

2月22日(火)
 実は、ケーブルTVがまだつながっていないのだが、にもかかわらず請求書が来た。テレビの設定が問題なのではないかということで、エドワードさんにうちまで来てもらったが、問題ないようだ。取りあえず、明日電話をしてもらうことになるが、とてんせちー話ではある。支払いは当然お預けである。ケーブルがなくてもきちんと見える局があるので、いざとなったら踏み倒すことになるだろう。
 それはともかく、今日 Wellmon さんに俳句と短歌の資料を渡したら喜んでくれた。俳句は知っていたようだが、短歌は知らなかったようだ。取りあえず、関係するHPのURLを教えることにする。どうも日本語の場合と同じように英語でも音節によって、5−7−5、もしくは5−7−5−7−7の規則があるようで、日本語と同じように俳句や短歌が出来るようだ。確かに日本語の五十音のように英語は音節の単位がはっきりした音によって成り立つわけではないが、それなりに調子を取ることは出来るというところか。俳句に比べて短歌の知名度が低いが、これは恐らく俳句の方が簡単でなおかつその状況を表す断片としてのインパクトが強いからだろう。この手の短文学は不完全であることを前提として成り立っている気がする。それは一定の背景(地)から切り離された図というところだろうが、逆にその背景(地)を強く示唆するところにその芸術性があるように思える。私は、本来、この手の短文学、特に短歌が嫌いなのだが、それというのも言葉の論理性、学問の検証問題などをつゆも考えたことのない輩がああだこうだとコメントを加え、それに手を加えるからである。このような輩の中で一人でもウィトゲンシュタインの言語ゲームに言及しつつ、緩やかながらも何らかの評価の基準を確立しようとした人を私は知らない。とはいうものの、長年、日本の伝統の中で生き延び培われたこれらの芸術を価値なしとするわけには行かないだろう。私はゲシュタルト心理学の図と地の観点からこの手の文学に関心があるが、本来これらの詩歌が物語の中で効果的に使われていることを考えると、日本の古典の中でどのような効果を具体的に果たしているかは興味深いところである。このことについては、機会があったら下田さんに聞いてみよう。
 

2月21日(月)
 風邪はかなり良くなったが、月曜日はかなり授業があるのできつかった。明日からはキシャちゃんも復活しているので、火曜日も忙しい。日本語の授業はいずれにせよ私にとって英語の勉強にもなるから良いのだが、音読の方は少し遅れそうだ。また、乗りかけた船のインターネットの方も何とかしなくてはあらない。MLにはあまり顔を出していないが、掲示板の方が忙しい。取りあえず、無理をせず確実に進んでいくしかないだろう。
 
 

[ことばのこと]