JARVIS 通信3月下旬



3月31日(金)
 今日、早速、日本語の動詞の学習に入る。簡単な「××を …ます」の学習だ。とはいっても、生徒たちには初めての体験だから気を使う。早くも、「は」と「が」の違いを説明したが、何とか理解してくれた。「は」は普通の「 …ます」の方を強調するもの、「が」は主語である「××」の方を強調するものと説明する。具体的例として、「だれ」とか「どれ」を使って尋ねられたら、「が」で答えるべしと説明する。とにかく、日頃、生徒と間違えられるので、感情を込めて「わたし せんせい です」と実例を示す。
 それはともかく、ここの動詞の発音練習は、予想通り、ラップになった。そのままCDに出しても良いくらい乗りがいいのである。

   ♪ たべす、たべす、ごはんをたべす、・・、たべす、たべす、あさごはん を たべ
     ききす、ききす、ラジオをききす、・・、ききす、ききす、J-POP を ききす、・・・

多少ラップ特有の強弱アクセントがつくが、これは大目に見よう。以前、ラップで歴史の年号を覚えるラップのテープを聞いたことがあるが、日本語の動詞や名詞もこの乗りならえらく早く覚えてしまいそうだ。ラテン語の学習においても、その活用を覚えるための歌があるという話を聞いたことがあるが、音楽的乗りなしに外国語を学習しようとするのは難しい。アラビア語のコーラン、私の音読にしても然りである。その点、日本語の文法構造は単純であること、音の切れ目がはっきりしていることからラップとの相性はいい。逆にラップの乗りで英語を話されるとすごく聞きづらいのである。
 

3月30日(木)
 最近、はっきり言ってお疲れ気味である。カレッジの冷房が3月であるにもかかわらず効きすぎているのも一因だが、実は他にも理由があった。こちらに私が来た時にお世話になったタルプレイさんが病気になったのである。聞く所によると春休みロンドンに向かう途中で風邪が悪化したらしく、到着するや否や集中治療室に運ばれたとのことである。私はこの事を先週の月曜日に知ったのだが、さすがに驚いた。幸いにもその日のうちに集中治療室は出ましたというメモが届いたが、今日ようやくダラスの妹さん(もしくはお姉さん)の家で療養する旨のメモが届いた。いちおう、ほっとしている。
 カレッジ・インターンの場合、たいていはアシスタントとしてクラスを持つのでホストの先生との関係はすこぶる深い。うちの場合は完全にお任せ状態なので、ホストであるタルプレイさんのお世話にあまりならずに済んではいるのだが、これから来年も滞在しようかと考えている私にとってはかなり深刻な事態である。たまたまタルプレイさんが日本に長く滞在していたおかげで Jarvis で日本語のクラスがもてるようになったと言っても過言ではないだろう。私は前任者の資料を参考に出来たので、それなりに授業を進める事が出来たが、当初は大変だったと思う。幸いにも、私の方も生徒が増えそれなりに順調にクラスを持っているが、この状態は極めて不安定なのである。もし私が来年いなければ、ここの場合、次のインターンが来るとは限らない。男性であり且つ修士であることが必要だからだ。本来、私は一年でインターンを切り上げるつもりだったが、状況を考えるともう一年居るべきかとも考えるようになった。それを感じたのは、以前前任者の方と会った時だが、いずれにしても日本に生まれ育った者として、一度出来かけた交流の輪を閉ざすのは惜しい。タルプレイさんが病気になったために特に今のところ影響は出ていないが、来年度のことを考えると極めて不安定な状況におかれたことには違いはない。正直、私が去った場合。タルプレイさんなしに新しいインターンを呼べるかどうかも分からない。
 日本人はあまり日本人であることに自覚がないが、日本人であることは良くも悪くもそれなりの伝統の中で人生の経験を積んで来たことを意味している。それは他者とのコミュニケーションを通して大きな意味合いを持ってくる。それは人の社会が多様な人々の切磋琢磨によって自らを形造ってきたからだ。アメリカがドルを通じで世界を収奪してることは百も承知だが、この国に対して敬意を払うのは、このような多様性を常に身に引き受けてきたからである。人は生まれた社会的環境に対して一定の責任を持つ。それは単にその社会に対してのみならず、その社会の経験を外に生かすという意味においてでもそうである。私は日本を恨みさえしているが、日本を知ろうとする人に対しては、丁寧にこの国のことを教えることを厭わない。なぜなら、そこに他者にとって貴重な経験があるからだ。一方、私は他の国に対して多くのことを知ろうと欲している。たとえ、その国が理想とほど遠いように思われていてもである。例えば、ロシアなどは私がどうしても魅力を持ってしまう国ではあるが、たとえこの国が理想からほど遠いにせよ、この国にはそこから目をそらすことが出来ない人間の生き様がある。そのことを知ろうとすることはより良く生きんと欲するものの必然である。世に愛国者と呼ばれる者の数は多いが、自らの国に憎しみを持ちつつもその国を含めた国の中に流れる人の生き様に敬意を払うものは少ない。彼らの多くは自国を愛することなしに他国を愛することは出来ないと主張しているが、本音は自国の他国に対する優越のみを望むばかりである。人があるから国があるのであり、そこに伝統や文化が流れるのである。人を愛することなく国のみを愛する人々にはこのことが分からない。私が時として日本語を呪いつつも日本語を教え、かつ日本を紹介することをはばからないのもかくたる理由からである。
 

3月29日(水)
 とにかく今日は疲れが出た。公務員時代以来のことだが身体に熱を感じた。これは疲れが神経にきた証拠だ。何らかの気晴らしが必要なのかもしれない。
 それはともかく、今日ロータリークラブの会合に出席し先週のお礼の感謝状ほか、その時の写真を頂いた。ありがたい事である。正直に告白すると、あまりにここの環境に慣れすぎて、最近日本人が苦手になっているところがある。恐らく、感情表出が乏しいためにコミュニケーションに不安を感じるからだろう。何らかの日本人のネガティブな態度により以上の背景があるのかとどうしても勘ぐってしまう。アメリカ人はその点、掛け値なしに感情が表に出るので、不安にならないのである。メールでやり取りをしている人たちは日本人でも個性が強いので、あまりこの手の障害は感じないが、特に日本人の初対面の場合には気を使ってしまう。春休み以来、調子がいまいちなのだが、どうも日本人アレルギーになっている感がある。日本に帰ったらどうするのか。
 

3月28日(火)
 最近、掲示板への書きこみがやたらと忙しい。さすがに、複数の掛け持ちはきついと言うところか。その中で最近私が出没しているのが、[伊藤和典公式HP] である。伊藤さんと言えば、知る人ぞ知るアニメなどの脚本家だが、この人の私に与えた影響と言うのは絶大なものがある。私の文体はニーチェ、トマス・アクィナス、タキトゥスなどの影響を受けているが、伊藤さんの影響はそれ以上と言って良いだろう。伊藤さんは押井さんと組んで多くの作品を手がけておられるが、うる星以来、私はこの人のストーリの落とし方は神業とさえ感じている。確かに私もストーリの構想をし、それなりにオチを考えるが、この人のように恒常的に仕事として続けるなどと言うことは出来ない。普通なら、さすがはプロですねーで済むところだが、本当にこの人の場合はそれどころではないのである。全体の構想力がまず卓越している上に、細部のキメが極めて細かい。このような仕事が出来るのは論理的直感とも言うべき才能を持ち合わせていなければ不可能だろう。私はこの点でも伊藤さんの影響を受けている。押井さんも伊藤さんなくしてはここまで来れなかっただろうと私は思う。
 この伊藤さんが、最近、HPの改変に乗り出した。実際は伊藤さんの代理人であるエージェント2号さんが担当しているのだが、今まで掲示板が見にくいなどの難点のためあまり繁盛していなかったようだ。私も恩ある身なのでできる限りの協力をしたいと考えているのだが、伊藤さんご本人は公式HPという名に配慮してなかなか本音を出せないようにも思える。伊藤さんも私もより広いコミュニケーションを望んでいるが、伊藤さん自身がどのようなスタンスでHPに介入するかが、まだ定まっていない。私としては伊藤さんを接点としてファン同士のよい意味での三角関係が出来れば良いと考えている。公式世界の三角形、ちょっと微妙な梁山泊と言うところか。
 

3月27日(月)
 どうもうちの日本語のクラスの学生は日本語を使ってもっと話をしたいようなので、少しスケジュールを変えてみることにする。別に日本に来て買い物をするわけでもないから、先に「××がすきです」と「××をたべます/のみます」の表現を教えようかと考える。これはちょうど Statser のクラスでやったばかりだ。が、かなりとんでもない使い方をされるだろう。例えば「×× は いぬ を たべます」という具合である。
 ともかく、この国の人は結構話をしたがる。実は、授業のあとうちのオフィースに来ていた女の娘と Wellmon さんを交えて話をしていたのだが、かなり難しい話になった。正直、スピードにはついていけるのだが、まだまだ普通の会話は理解しづらい。それでも話が半分理解出来れば、こちらも話してしまうところがある。アメリカ人はディベートが結構盛んだが、日本ではあまり出来ない、正確に言うと、気の合った仲間どうしではこの手の難しい話題もするが、あまり一般的ではないという話をした。いずれにしても、私は日本人としては例外的な部類となる。日本語ではやりもらい表現に典型的に見られるように相手の立場によって表現が変るが、この事を話すとやはり日本語は大変だという印象を相手に与える。私は個人的に「やりもらい表現」や「尊敬ー謙譲語表現」に見られる日本語の非対称性を日本語の国際化によって摩滅させる事が出来ないかと考えている。恐らくこの手の表現は外国人どうしの会話では使われないだろうし、日本語を使う外国人が増えれば日本人どうしでもそれに合わせて消えて行くだろう。日本人はネィテヴなのであまり気付いていないが、この表現の非対称性は結構頭のメモリーを食っているのである。
 

3月26日(日)
 本日、何とか [KOKIRIKO ROOM] の掲示板に連載を続けていたうる星ネタの話を終えることが出来た。いずれ彼女か私のHPに多少手を加えた上で乗せることになるであろうが、当初はここまで書けるとは思わなかった。最後に知的所有権の話に触れたが、これは経済学における利子と同様、法学において重要な意味を持つことになるであろう。というところだが、ゲゼルMLで知り合った大塚さんがむかし特許関係の仕事をしておられたのには驚いた。というのも、私も以前、1年間だけだが著作権の担当をしていたからである。知的所有権の問題は哲学の問題がかなり現実的に反映する問題である。それは知的所有権をはじめとした所有権の問題が<実体ー属性>の発想を前提にしているからだ。恐らくアメリカは既存の利益を守るために知的所有権の保護に走るであろうが、これに対抗するには相当の理論武装が必要である。アメリカの基本的な精神はキリスト教から来ているが、キリスト教は<実体ー属性>を前提に自らの教義を固めてきたからである。いわば、彼らにとって<実体ー属性>の発想は無意識のレベルにまでしみこんだ思考の前提であり、これを否定するとなるとキリスト教の考えと対決することになりかねない。正直、それは避けたいのだが、恐らく彼らは無意識にキリスト教の前提が著作権の制約によって揺るぐことを感じ取るであろう。こちらとしては仏教の論理で対抗は出来るが、それをやると大変な教義論争となる。幸いにも、現在の哲学では<実体ー属性>の発想は否定されているので、こちらから攻めていった方が良いだろう。私としては、古典力学に対する相対性理論のように<実体ー属性>の発想を私の <f(s)=m> の特殊なあり方としてその中に包摂したいところだ。
 

3月25日(土)
 今日、なぜか朝に断水があった。午後、食堂が閉まっていたのはそのせいだろうか。いずれにしても食堂が開かないと、いまいち気分が乗らない。にもかかわらず、学問の Kriterirum (試金石)について思うところがあるので書いてみよう。
 対象を判明に区分するために比較級で表示され得る基準を考えるべきであると以前述べたが、これは Kriterirum と呼ぶよりは、指標と呼ぶべきであろう。 Kriterirum はそれぞれの状況に応じて正か反、陰か陽を区分するものに対して与えられる言葉とすべきである。物事には連続的側面と非連続的側面とがあるが、この非連続性を分ける基準はかなりケース・バイ・ケースなのである。しかし、このことによって指標の普遍性と、 Kriterirum の個別性との違いがはっきりした。あとは具体的な個々の研究の中でこの考えを応用して見よう。
 

3月24日(金)
 今日の日本語のクラスで学生にドミノゲーうの仕方を教えてもらう。数を数えるのにはちょうど良いゲームだ。しかし、学生の方からいろいろとやってくれるので非常に助かる。何かの枠にはめて授業を進行しなければならないとすれば、これほどやりにくい環境もないが、逆に相手に即して授業をする立場からすれば、かなり良い環境である。とにかく、乗せること、こっちが乗ることがうまく行く秘訣だ。
 それはともかく、カレッジにも今日から冷房が入っていた。もうここは夏という感じもあるが、まだ冷房するには私のいる所は少し寒い。
 

3月23日(木)
 今日は Jarivis の卒業生の講演があるというので、午前11時からと午後7時からチャペルに出向く。とにかく乗りが良い。午前中のはあまりの乗りの良さに半分寝てしまったが、夕方の分はかなり聞き取れた。キリスト教がヨーロッパの専売特許のようになっているが、それは元来、中近東に発した宗教であり、北アフリカと強い関係を持っていたという内容から話が進んで行った。最終的には卒業生として頑張っているのでみんなもガンバろうという内容なのだが、結構面白かった。ちなみに、今日から Wellmon さんのクラスにも復活したのだが、かなり内容についていける気がする。以前は日本ネタの話でないと分からなかったのだが、今はあまりずれた話でなければ概要は掴めるというところか。ただ、依然として会話はわかりづらい。なぜなら、状況に即して言葉が省略されるからである。もともと日本語でもこの手の省略に弱い私は英語でも当然、この手の会話にはついて行けないのである。
 

3月22日(水)
 ロータリークラブの関係で岩手から高校生がうちのカレッジにきた。久しぶりに多人数の日本人と日本語で話す。私の日本語の生徒も結構協力してくれて交流もうまく行った。ただ、私も含めて日本語が分かる日本人が2人しかいない(もちろんこちらの人で日本語の分かる人はいない)ので行き違いも多少はあった。私の名前が「岩田」なので「岩手」と混同され同郷人と思われていた。私としては、東北人の団体さんは初めてだったので、もっと東北弁を聞きたかったのだが、あまり出てこない。なぜか私の大分弁が目立ってしまった。東北の人は自分の言葉を国際化する意図はないのかもしれない。ちなみに、私は「ヨダキイ」を国際化せんと日々努力している。この言葉は誰の口から出てもリアルである。英語に比べると日本語は(関西を除いて)方言が目立たない気がする。さすがに英語は国際語だけあって、その内容は多様だ。テキサス弁もあれば、アフロ・アメリカンの英語もある。その上で各外国人の訛りが加わるから聞く方は大変だ。日本語もそうなってほしいというのが、私の切なる願いである。
 ところで、そのあとたきぎ囲んでの集まりがあるというので、行ってみた。日本で言えば、盆踊りとなるのだろうが、ここでの踊りはアフロ・アメリカンの本場であるからわけが違う。といっても、たきぎにあまり火がつかず、私は途中で帰ってしまったのだが、適当に捕まえられて本場もののラップ?を教えてもらう。身体をクネクネさせるのが特徴だが、健康にはかなり良いであろう。誰かこのダンスから新しい気功法を開発してもらいたいものである。
 

3月21日(火)
 最近ここでは珍しく梅雨のような天気が続いている。といっても、集中豪雨が降るというわけではないのだが、休み休み雨が降っている。明日も雨模様だそうだが、日本の高校生が来るので、テキサスで雨というあまりない体験をしそうである。
 それはともかく、ようやく懸案だった「The American responsibility for the world」の英語の原稿を書き始める。いちおう、引用部分を除いて第一章を書いてみたが、この調子で行けばかなり早く仕上げられるかも知れない。HPに更新するネタがなくて困っていたが、よく調べたら英語に関してはまだかなり残っていた。[KOKIRIKO ROOM] の響子さんにOKを取ってうる星ネタの話をこちらで載せれば、日本語の方もかなり更新の材料が増える。少なくとも、大分に帰るまでは何とがHPのネタが持ちそうである。
 
 

[ことばのこと]