JARVIS 通信4月下旬



4月30日(日)
 GWに入るとめっきりインターネットへの書きこみやMLの量が減る。恐らく皆さん外に出ていることが多くなるからだろう。昨日から暇に感じたのもそのせいかもしれない。とにかくゲゼルMLの量は普通凄まじいからである。来年からは英語で掲示板に書きこみをしたいと考えている。
 

4月29日(土)
 日本ではGWであるが、ここはアメリカなので関係ない。だが、久しぶりにのんびりしている。音読に勉強の重点を移してから身体の調子も良い。特にドイツ語の乗りが良い。
 

4月28日(金)
 最近インターネットを通じて Japan Times の黙読をしていたのだが、目が痛いのでやめた。他に分からない単語を解説してくれているページもあって、教材としてはかなり良いのだが、あきらめることにした。その代わりドイツ語の音読の分量を増やす予定である。英語については知らない単語がまだまだ多いので、インターネットを通じて今までやっていた単語の音読は続ける予定である。しかし、掲示板に書きこみはするは、MLでは一日に30通くらいメールは来るは、その上、英語の学習までコンピューターでするはとなると目もつかれるはな。もう少し、リスニングの方もがんばろうと思ったのだが、ケーブルテレビがまた切れてしまった。ついていない。原因は不明。とにかく、再び外国語の勉強に熱を入れたいところである。
 

4月27日(木)
 掲示板でのやり取りというのは結構エネルギーを要するものだ。だが、ある意味で著書というものが一般化する前の基本的なコミュニケーションのあり方が再現されている気もする。聖書にせよ論語にセよ、また仏典にせよ、人類の知的遺産多くはこのような対話によるやり取りを当事者の記憶に従って記録に止めたものである。記憶が曖昧であるので、結果的によいものしか残らなかったという面もあるが、対話をを通して思索の現場が見えてくる。これは近代の論文一辺倒の思索の表明の欠点を補うものとなるかもしれない。論文は完成された思索を示すものであっても、その過程を見せてくれない。また、常に他者による審査を意識して書かれるから、どうしても実証主義的な論議に走ってしまう。私も鉄学科に在籍していたので分かるのだが、本当に知的体力を持っている人は対話を恐れない。対話を恐れる人はたいてい文献学者である。
 

4月26日(水)
 なかなかこちらの学生はしぶとい。「A」をもらいたいのが本音である。こちらも出来ればあげたいが、タダではあげない。というわけで、実際の問題の形式に合わせて学習を進めることとなる。分からないところが端的に分かるので結構良い。最近この国では漢字がブームだそうで、自分の名前に漢字を当ててくれという要求が強いので、みんなに適当に漢字の当て字をしてみた。日本語はすぐに忘れるだろうが、日本語のクラス参加の記念にはなるだろう。
 

4月25日(火)
 私は知らなかったのだが、今日カレッジで 2000 HATTON W. SUMMER PUBLIC POLICY FORUM というのがあった。私が参加したのは夕方の食事を兼ねた講演会だけだったが、その話が結構興味深かった。恐らく Jarivis Christian College に財政援助をしている政府の関係者だと思うのだが、さすがにワシントンの人の英語は聞きやすい。内容はアメリカが共産主義のような全体主義国家ではないということの力説から始まるのだが、その後に続くのが教育等の機会均等の達成についてであった。保守的な共和党関係者なら「自由」のお題目で終るだろうが、彼はそうではない。「freedom」という単語もしばしば聞いたがより以上に「oppotunity(機会) 」という単語が目についた。アメリカ人の自画自賛というところもあるが、それはさして重要ではない。これはどこの国でも見られることだからである。重要なのは、その後の質問でエレアン・ゴンザレス君のケースについて、それは父親のところに行くのが筋でしょうという話が出たことである。父親に特に問題がない限りは、国家体制よりも家族の絆が優先されるのが当たり前というところだろうか。これには結構会場から拍手が沸いた。亡命キューバ人とアフロ・アメリカン(黒人)との立場の著しい違いについてはすでに述べたが、実は今日のテレビ討論会でもそれを垣間見ることができた。亡命キューバ人側の代表は女性で、特にエレアン・ゴンザレス君を空挺部隊を使って力ずくで奪ったことを力説していたが、それに対するアフロ・アメリカンのパネラーはアメリカが彼らの言うような自由の理想郷ではないこと、何よりも家族の絆によってアフロ・アメリカンの人々がつらい歴史を耐え忍んできたことを述べていたようであった(英語には自信がないが)。だいたい番組の最後には討論する両者が微笑んで挨拶を交わすのが普通だが、何となくアフロ・アメリカンの人の苦笑いが気になった。何となれば、あんたの言う苦しみ何どはアフロ・アメリカンの苦しみに比べれば大したことはない、父親がそばにいる限り彼は不幸じゃないじゃないかという本音が見えた気がしたからだった。他の本音が聞ける番組を見ても、この感情はアフロ・アメリカンに限ってはいないようである。ちなみに、わがテキサス州の知事(大統領候補)は亡命キーバ人の味方をしているようである。
 

4月24日(月)
 すでに [KOKIRIKO ROOM] の掲示板で触れたところではあるが、「銃夢」という漫画の名称をめぐってトラブルが起こった。これは「銃夢」という漫画の名称をたまたま使っていた人が、この漫画の作者の代理人からクレームをつけられたことから始まる。法的に「銃夢」という名称が保護されるわけではないこともあって、作者側の態度はやや強硬に思えるが、恐らくこれはこの作者が「銃夢」という名称に強い思い入れを持っているからだろう。だが、問題はそこから始まる。「思い入れ」が強いのは良いが、それがあまりに排他的である場合、漫画の描き手は本当に人を感動させるストーリを描くことが出来るのかという点が気になるのである。言いかえれば、他者の痛みに無関心な人間が本当に物語と言えるものを書けるのだろうかということだ。
 話は突然、法然の父の話になるが、この父は自らが襲われて死ぬ間際に、法然に復讐をするなと遺言する。おそらく、この父も人を殺めたことがあったのだろう。人を殺めることの悲しみをこの父は知っていたからこそ、この遺言を息子にで残すことが出来たのではないかと私は勝手に想像している。当時は源平合戦の時代で、法然のもとにも若武者を殺めた武士が帰依している。人を殺すことの悲しみが背景にあったからこそ、法然は法然たり得たのであり、真の日本仏教といわれる鎌倉仏教の原点たり得たのではなかろうか。
 さて、この「銃夢」という漫画を私は読んだことがないのだが、この作品では「銃」が人殺しの道具であることの悲しさが描かれているのであろうか。もしそうならこの作者が自分だけに思い入れをすることがどうしても理解できなくなる。単なる自分への思い入れから生まれるのは「我が物」という所有の観念である。それは思い入れの対象に対する排他的な観念であり、それ故にその対象に対する過度の執着を表しているものとも言える。だが、仏教は断固としてこのような観念を否定する。「我が物」への執着は有限な「我」に対して無限の期待を抱くことである。しかし、無限なものへの憧憬は他者とのコミュニケーションを通じてしか満たされるものではない。故に苦悩が生じる。司馬遼太郎氏は浄土教は本来の仏教ではないといっているらしいが、この復讐の感情を超え執着を否定した真の他者とのコミュニケーションを求めている一点においてやはり仏教なのではないか。
 実は、私が著作権をはじめ所有権の問題に強い関心を寄せるのはこのようなことが背景にある。
 

4月23日(日)
 今日トルネードの卵に遭遇した。午後妙に生暖かかったのだが、食事の帰り、空を見ると黒く広がった雲の端に少し垂れ下がった黒雲の塊がある。部屋に入ると外の様子がわからなくなるのでしばらく注視していたが、その塊の向こう側とこちら側とでは雲の動く方向が逆なので、間違いなくトルネードの卵だと感じた。というわけで、状況を見守っていたのだが、さすがにその雲が上空(やや前方)通る時には強風が吹き始めた。雲の動きが実によく分かる。そろそろ中心を過ぎた頃だろうか、二三雷鳴がとどろいた。どうも向こうにのびる電柱に落雷したらしい。距離はかなり近かったが、そういえば雲の塊が上空を通過するとき少しゴロゴロいっとたわなと思いつつ、コンピューター等が気になるので、強風がまだ吹く中、急いで家に帰った。案の定、black out 停電である。コンピューターの本体は無事であったが、アダプターが気になった。停電そのものは8時くらいに復旧したが、電気製品に被害はなし、ホッしたのだが、よく考えて見ると、あの落雷がもう少し手前で起こってたら命にかかわるところであった。私が立って見ていた所の近くには電柱があったからである。しかも、まわりは野原・・ まさに、くわばら、くわばら、である。今度からトルネードを注視するときは、落雷のことも考慮しよう。
 実際に、今日東テキサスをトルネードが襲った。死傷者はなかったが、一部家屋が全壊していた。トルネード恐るべしである。ロングヴィユーの方ではゴルフボール大の雹も降ったようである。テレビでは地面に先端が届く寸前のトルネードの映像も放映されいたが、かなり凄まじいものである。テキサスの気象の一面を体験した一日であった。
 

4月22日(土)
 日本でも報道されているようだが、エレアン・ゴンザレス君の問題で急展開があった。この問題は、母親と共にキューバから亡命しようとした彼が不幸にも遭難し、一人だけ生き延びたことから端を発する。母親と離婚した彼の父親がキューバから彼を連れ戻しにアメリカに来ているのだが、これに対してマイアミの亡命キューバ人たちが頑強に抵抗している。父親と暮らすべきなのは当然であるが、全体主義のキューバに連れ戻すなどとんでもないというわけだ。私はアメリカでは外国人であるし、実際テレビの英語を正確に聞き取れているわけでもないので、彼がどうなるべきかコメントすべき立場にはないのだが、この亡命キューバ人の考えにどうしても危険なものを感じる。それは彼らがイデオロギーを親子の上に先立つもののように考えているかのごとく振舞っているからだ。
 かつてマルクス主義者たちが階級闘争の理論を唱えていたときに、私は階級よりもより基本にある人間の本性の方が重要ではないかと考えたが、このことが正解だったのは後の歴史が示している。人間は社会的動物ではあるが、それは人間そのものの本性の上での事であって、イデオロギーで云々されるべきものではない。だが、亡命キューバ人にはそうではないように見える。確かにカストロの政権はろくなものではないし、問題がこれだけ大きくなった以上、彼がキューバに戻れば、そう簡単にアメリカに戻れるはずもない。彼らはカストロ政権の残虐さを以って自己の主張を正当化している。例えば、亡命しようとした有名人が薬漬けにされたとか、カストロが女子供を虐殺したとか言っているようである。だが、にもかかわらずキューバには人の日常というものがまだ生きている。北朝鮮とは違うのである。確かに政権は劣悪かもしれないが、人の生活のある以上、普通は父親の元に戻すのが筋というものであろう。テレビでは彼の家族のプライベートな話はあまり出ないのだが、もし普通であれば、父親の方を支持するだろう。実際に、アメリカ人の59%は彼が父親と一緒にキューバに戻ることを支持しており、アメリカに留まるべきとしているのは29%にすぎない。
 今日起こったことは、彼のいる家に特殊部隊が突入し、彼を保護したということだが、この強行手段が亡命キューバ人の怒りに火をつけた。CNNの取材テントはひっくり返されるは、逮捕者は続出するは、大変な騒ぎになったのである。だが、アメリカというものを以前から観察してきた私にとっては、実にアメリカ的展開に思えてしまう。亡命キューバ人たちは、この国では一度警告をすればその後なんでもありということをまだ理解していないようだ。湾岸戦争にしても然り、原爆投下にしても然り、服部君射殺事件にしても然りである。さすがにアメリカもこのやり方になれてきて、今回は一人のけが人も出さずに済んだ。日本人から見れば過激なやり方に見えるかもしれないが、私にして見れば、大統領選挙がなければ事はもっと早く起こっていたと思う。というのも、民主党政権はマイアミを中心とした亡命キューバ人の票を逃したくないからである。この国では司法が威厳を持っているが、この威厳もまだ亡命キューバ人たちは理解していないようだ。ラテンアメリカの国々なら支配者の意向で司法がねじ曲げられるのは普通だが、この国ではそうではない。とにかく司法の威厳がなければこの国は持たないのだから、いざとなれば強硬手段にも訴える。
 私が亡命キューバ人たちの声を聞いていて気になったのは、「freedom」や「liberty」の言葉は聞かれても、「obligation」「duty」の言葉は皆無だったということである。彼らは「freedom」に過剰な期待を抱いている。だが、それはただではない。彼らが生きる国への「obligation」、そして彼らを生かす [自然=神] への「obligation」を果たさなくてはならないのである。特に、後者は重要だ。それはすべての「obligation」の源泉であると共に、人間の「freedom」の必須条件でもあるからだ。だが、彼らにはその意識が見られない。聞くところによると、彼らの多くはカストロ以前の支配層が多いらしいが、金持ち特有の「自由」にかこつけた「自分勝手」がそこにあるのではないだろうか。この「自由」に対する妄想こそが、今のアメリカを、そして世界を歪めている。それは亡命キューバ人に限らず、一部のアメリカ人にも見られるのだが、まさに他者に対する痛みを喪失した意識である。彼らは独在論の世界を生きている。
 アメリカに住んでいながら、私はこちらでこの話題を切り出してはいない。結構微妙なのだ。私が話をする人の多くは黒人だが、彼らはマイノリティであるが故に、亡命キューバ人たちとは対極の立場にいる。表面的には彼らもマイノリティだが、アメリカの競争のルールを率先して受け入れ、成功しているのが彼らである。いずれ反応を見たいところだが、一般のアメリカ人もこの問題には戸惑っているように思う。日本人の目の前で総連の人と民団の人とが口論を始めた状況を想像してもらいたい。いずれにしても、アメリカに住まわせてもらっている者として、亡命キューバ人の態度は恩知らずに思えてならないのが正直なところである。
 

4月21日(金)
 今日になって気づいたのだが、今日はイースターの休日である。イースターといえば、スペイン語をやっている私にとっては Semana santa(聖週間)が思い浮かぶが、ここではスペインと違ってキリスト教が復活した金曜だけが休みになる。その話はこの前していたのだが、忘れていた。というわけで、時間が出来たわけだが、インターネットで文章を書くぐらいしかやることはない。当然、外国語の勉強は続けているが、やる量が決まっているからである。本来なら、本(日本語)でも読みたいところだが、やる気が出ない。幸いにも、イースターなのでキリスト教関係の番組をやっているのでそれを見ている。
 
 

[ことばのこと]