JARVIS 通信9月中旬




 

9月20日(月)
 月曜日の午前中の授業は場所の都合がつかなくて、2回教室を移動した。終わって、オフィースに行ったら、電話代の請求が来ていた。幸運にも同時に銀行から小切手のカードが来ていたのでこれを郵送して払えるようだ。切手やポストの方も聞くと学内から出せるとのことである。それにしても、引き落としがないというのはアメリカの不便なところだ。;
 午後の授業だが、キシャちゃんが完全に暑さでのびてしまっていた。なぜか冷房が切れていたので、授業も身に入らない。こりゃ日本の夏には耐えられないだろう。ここは暑くても乾燥しているし、たいてい室内は冷暖房完備だから、暑さ寒さに困らない。たまにこのようなことがあると、たまらんわけである。
 大分から荷物が来ているというので、取りに行く。大体頼んでおいたものは来ているが、カップラーメンがかなり入っていた。ここでは箸がないのでカップラーメンは一般的ではない。フォークだとカップに穴が空くからだ。箸も頼んでおくべきであった。
 

9月19日(日)
 Lain について考えているうちに、懸案だった「独在論の誘惑」の骨組みが固まってきた。人は意識的に「この世界は個人的な夢である」という考えを直接的に受け入れることは出来ないが、実質的にそれと同じ考えを受け入れてしまうことがある。それは人にとって他者の存在が必須であると同時に脅威であるからだ。その一つの形が「無条件の一体化」であり、そのもう一つの形が「無関心」である。Lain はレイン(私はこれを Lain の影としているが)から神様になるように誘惑される。しかし、その神はパトレイバー2の後藤さんと荒川のセルフに出てくるようなモニターの向こうで何もしない神であり、Lain はそのような無関心な神にはなれなかった。「独在論の誘惑」は「Lain」 と「ビューティフルドリーマー」の 世界を媒介にして展開されるだろう。
 それはともかく、旧約の方も「エズラ記」を読み終わり、半分以上を読んでしまった。今まではイスラエルの歴史の記述が主であった。英語はさほど問題はなくなったのだが、やはり固有名詞の発音に手間取るものだ。最近は少しなれたが、これが並ぶ系図の個所などは正直言って読みにくい。いずれにしても旧約の外堀は埋まりつつある。 
 

9月18日(土)
 Lain について考え直して言えるのは、彼女は私たちのコミュニケーションの欲求をそのまま具現化した存在ではないのかということだ。それは私たちの根本的な生きようとする欲求そのものとも言えるので、ニーチェの「権力意志」のような側面も持つのだが、より以上にカントや後期フィヒテに見られる自らの内面にある神的なもののように思える。私のように一人で哲学をやっていると、カントや梅園が他人ではないような気がしてくる。それは最後の場面での「Lain」 にとっての「ありす」のようなもので、相手は私の事を知らなくても、いつも一緒にいるような感覚なのである。恐らく、彼らも未来の私のような存在を期待を込めて信じていたのではないか。
 このようなアニメが生まれた背景には、今の子供たちの孤独な生活が反映していることは間違いがないだろう。一昔前の人たちは、マルクスにせよ誰にせよ、何かの名のもとに無条件の一体感を味わうことが出来た。ある意味で、「つながっていた」のである。しかし、本当の絆は「Lain」 と「ありす」の間にあったようなもので、無条件に強制的につながれているところでは成り立たない。ここに経済成長(文明)の麻薬が切れた日本の苦しみがある。
 火曜日の授業ではこのことを出来るだけ分かりやすく説明できればと思う。アメリカでも人種問題をはじめ人の絆は危機に瀕している。残念ながら、日本語を学んでくれる生徒は少ないのであるが、この絆の大切さに眼を向けてもらえればありがたいことである。
 

9月17日(金)
 最近いろいろ考えることが多い。といっても、悩んでいるのではなく、文字どおり考えているのである。梅園MLも相当に盛り上がっているが、カレッジでは Lain に絡んで日本の社会問題、特に教育問題を考えている。取りあえず、火曜日の日本紹介のクラスのネタをいちおう書いてみた。その他に、ネット上にドイツ語の面白い研究会があるので、少しちょっかいを出してみようかとも考える。これをやりだしたら相当ドイツ語の勉強になるだろうが、かなりしんどいかもしれない。大分で独和辞典のソフトを入れておけば良かったとふと思う。
 こんな具合なのだが、睡眠時間があまり最近取れていないので、土日は寝て過ごそうかとも思う。やっぱ無理か!?
 

9月16日(木)
 何とか Lain の紹介に成功する。手元にあったアニメがこれだけだったので、紹介する羽目になったのだが、難解な割には理解してもらえたのではないかと思う。次回は、今日配った日本の社会問題について書いたプリントについて話をする。出来れば、Lain や Eva の背景にある日本の教育問題、日本人のコミュニケーションの問題に触れたいのだが、英語力がついていくかどうか。また、プリントを書くことになるかもしれない。今日の授業では私の書いたものを生徒のみんなが音読してくれた。正直、ネイティヴに拙文を読んでもらうと緊張する。
 実は、この他にもいろいろ刺激的なことが多くて睡眠時間が少なくなっている。以前の眠りすぎの反動だろうか?恐らく、秋になって寒暖の差が激しくなったからだと思う。幸いにも風邪は引いていない。

  


9月15日(水)
 明日 Lain のアニメを Wellmon さんの授業で見せることになった。難解なアニメだが、いずれにしても日本語なので英語の解説をつけて見せることいする。いちおう、私の解説で意味は通じるようだ。キシャちゃんも明日来てくれるそうだ。日本のキャラについてはキシャちゃんの話によるとポケモンはアメリカでもメジャーだそうだ。ジャパアニメのことを聞いても、誰も知らないようなのであきらめていたので、正直喜ぶ。ゴジラやウルトラマンは有名みたいだが、最近のネタはゲームを通じて広がっているらしい。なぜか彼女は「やったー!」という日本語を知っているので、聞いてみたらゲームで知ったらしい。
 それはともかく、今日、エドワードさんと一緒に銀行に行って、口座を開く。説明を聞くが大まかな事しかわからない。何か1ヶ月8ドルの維持費がかかるらしい。今の私にとって、預金は保険のようなものである。大分からの送金ができるからである。この前のとき時よりは英語が聞き取れた。
 

9月14日(火)
 今日は Jarvis の88周年の開校記念祭があって、私もめずらしく背広で学校に出る。私は着なかったのだが、外国でよく見るガウンに角帽姿でそろって会場に入る。結論から言えば、アメリカにおけるキリスト教コミュニティーの実力を見せつけられた。とにかくノリが良いのだ。記念講演をした老先生は、足が悪いにもかかわらず、踊りながら演説をする。会場もそのノリに答える。日本のかしこまった「コウソコウソ(教育勅語)」のノリでは対抗できないものがある。彼らのコミュニティーは神によって常に外に開かれている。開かれているから、常に外からの刺激を受け自らを再生することができる。日本や社会主義国での上からのコミュニティーでは、一時的に自らの力を高めることは出来ても、じきにエネルギーが尽きてしまう。案外、アメリカがソヴィエト(小規模の社会主義的共同体)の理想に近い社会を作ったのではないか。
 

9月13日(月)
 月曜日は結構忙しい、2つもクラスがあるからだ。午前中は Statser ご一家の授業。授業の終わりにお母さんから聞いたのだが、子供は当初いやいや来てくれたらしい。何とか楽しくやっているので、良かったとのことである。午後は唯一の正課の授業。今日も無事に1日が過ぎる。
 梅園MLに復活したら、梅園に関する論文の翻訳の話が出ていた。私は1年ここで修行するので今は翻訳は出来ない。何とか早めに旧約聖書を読んで、新約をスペイン語とドイツ語でよみつつ、プラトンの対話編を英語で読む予定(全部音読)。これに授業の参加が加わると結構忙しい。来年には修行の成果が出てほしいものだ。
 しかし、それにしてもアメリカ人やヨーロッパ人の翻訳に対する体制は日本に比べて貧弱である。大体、翻訳家を軽んじているところがある。だから文化が一方通行になる。翻訳は本来ネイティブの仕事である。日本語を学ぶ外国人がもっと増えてほしいものである。ちなみに、日本語が分かると英語の次に世界中の古典が読めるのではないかと私は思っている。質も高い。
 

9月12日(日)
 旧約も「列王記上」まで読み終わる。ソロモンの栄華ははかない。イスラエルは繁栄に伴う国際化の波の中で宗教的アイデンティティを失い分裂する。ソロモンは知恵者ではあったが、ペルシャ人やローマ人のように国際帝国を維持する制度に関しては無知だったようだ。古代最後の国際帝国であるローマ帝国は最後にキリスト教を自らの支えとしたが、民族宗教としてのユダヤ教にはまだその役目は背負えなかった。この民族は苦しみながら世界宗教への道を歩むことになる。
 ところで、今日、FMのクリスチャン系の放送局が日曜日にスペイン語の放送をしているのを発見した。同じクリスチャンの音楽でも米国のそれとラテンのとは結構違う。トインビーがメキシコに黒人のキリストが現れたという話に言及していたが、その意味がよくわかる。ここでは夜、中波の入りが悪いので、英語のヒヤリングのためにはFMのクリスチャン系の放送局を聞くしかない。まさにキリスト教漬けの毎日である。テレビがないと勉強も進むものである。
 

9月11日(土)
 今朝、大分から2回ほど電話がかかる。久しぶりで日本語の会話をする。考えてみれば、ここでは電話でしか日本語を使う機会がほとんどない。すごいところだ。
 ところで、旧約聖書のほうも「サムエル記上・下」まで読み終わる。ここではユダヤ民族発展の歴史が綴られているが、それはある意味で政治の世界が俗界として宗教の世界と対立する時代である。神官サムエルが王を迎えることに躊躇したことにそれが端的に現れている。ここからイスラエルも政的な権謀術数の時代に入るが、やはり政治的には士師記の時代同様、不安定だ。日本で言えば、南北朝時代を髣髴させる。民族の枠を越え合従連衡が繰り返され、血族の間で権力闘争が繰り返される。話はソロモンの栄華の時代へと引き継がれていくが、これも足利義満の時代同様、長続きしない。この時代はまだ聖と俗とのバランスが不安定なのだ。正直、タキトゥスの「年代記」以来、久しぶりに本格的な歴史書を読んだという感じである。
 
 

[ことばのこと]