JARVIS 通信10月中旬



10月20日(水)
 「ゴジラ」ネタで話をしたいので、キシャちゃんに apostle(使徒) と angel(天使)とのニュアンスを聞いてみた。本人は結構戸惑って、Wellmon さんのクラスにまで聞きに行ってくれたが、どうも日本人のイメージとあまり変わらないようである。ものの本によると、apostle はペテロなどのキリストの弟子を指すことが多く、angel は何か霊的な神の使いを指しているようである。ここでも天使は何となくキューピットのようなイメージを持たれているが、本来、神様の怖いメッセンジャーであったのである。いずれにしても、天使のイメージはあまりにも軟弱になってしまったので、ゴジラには apostle の方を当てねばならないだろう。だが、こうなるとほとんどエヴァである。何となくテレビ東京でエヴァの前にやっていた「愛天使伝説ウェディングピーチ」という超お子様用アニメを思い起こしてしまった(いちおうこのアニメでも天使たちは魔族とエグイ戦いをしていたのではあるが)。
 

10月19日(火)
 ようやく天気も回復し、午後には少し気温も上がってくる。けれども、やはり寒い。今までが暑すぎたという感じだ。明日からの気温が気になるところである。
 それはともかく、Wellmon さんが来週メキシコに行くとのことで、2回ほど東アジアいの時間を受け持つことになる。そのまま任された上に、何人来るか分からない授業なので、例の「ゴジラ」の映画を使いつつ、太平洋戦争の日本人にとっての意味を講じるとともに、最近その戦争への反省が薄れていることにも言及しようと思う。原発の事故などは、日本人が戦争を通じて感じ取った罪の意識が薄れていることを示す典型的な例である。「ゴジラ」にはそれがまだ鮮烈に記録されている。
 

10月18日〈月)
 とにかく寒い。気温的にはさほどでもないのだろうが、今までが暑かっただけにこたえるのである。きょうも1日中曇っていて、夜には時折雨がぱらついている。こちら来てこのかた、雨は夕立のような形で降るのが普通であったから、2日も曇っているというのが不思議にに思える。日本ではこれは普通のことだし、梅雨時には何日にも渡って雨が降ることもよくあるので、逆にこちらの気候に慣れすぎたのかもしれない。気候が人間の身体や精神に影響を及ぼすのは良くあるが、その逆はないだろう。ナマズなどの動物は地震を予知するらしいが、別に地震を起こしているわけではないから。結局、天気に対抗するのは自己防衛しかないようである。
 

10月17日(日)
 ここでは珍しく、1日中曇ったまま、時々雨の降る天気であった。とにかく、気温があがらない。昨日まで、朝の冷たさもそれほどではなく、午後は夏の暑さであったが、今日は一転して秋の気温である。日曜だけに人もまばらで、急に寂しくなった感じだ。
 ところで、旧約も「エゼキエル記」を読み終わる。バビロン捕囚を境に、神と民族との関係が、神と個人との関係に変わった様子が見て取れる。裁かれるのは個人となるのである。それとともに、預言者の警告者としての位置付けもはっきりする。人が誤った道を歩んでいる時、預言者が警告を怠れば、その罪は預言者にある。しかし、預言者が警告したにもかかわらず、その人が誤った道を歩むなら、罪はその人の側にある。個人的な自己責任の確立が見て取れる。私は「エゼキエル記」の書き出しが結構、怪しいので、あまりこの書に好感を持っていなかったが、実際に読んでみるとかなり興味深い部分である。
 

10月16日(土)
 時々思うのだが、団塊の世代のように兄弟や仲間が多いと他者とのコミュニケーションの欠如に悩んだことがないのだろうか?彼らの多くは昔セクト活動に励んでいたが、その分、敵対するセクトに対しての闘争は激しかった。世界中に他者が敵対するセクトの人しかいなくなっても彼らは戦いつづけるのだろうか。日本人が水と空気はタダだと思っていると指摘されたのは昔の話だが、彼らについてはコミュニケーションの絆もタダであったような気がする。私は一人ウォークマンを聞いていた碇シンジや誰もいなくなった大都会の中で自分の影に誘惑される岩倉玲音に引かれるのだが、彼らにはこんなキャラは想像も出来ないだろう。他者との絆に悩んでいる点で今の若者は深刻だが、悩まない人間の方が救いがたい気もする。と考えつつ、中間試験にかまけてHPの更新を忘れていたことに気づく。来週は少しがんばりましょう。
 

10月15日(金)
 日本語の中間試験を無事終了する。キシャちゃん用の簡単な問題を作ったのだが、狙いどうりの成果を得た。どうも文法問題に不慣れなようであったが、とにかくホッとする。日本ではアメリカの大学生は勉強するものと思われているようであるが、現実にはそうとは限らない。スタンフォードやMITなどならいざ知らず、日本以上に人口に対する大学の多いアメリカでは学生に勉強させる動機を与えるのが一苦労である。殊に、外国語の場合は大変で、まわりが英語に合わせる分だけ勉強する気になってもらうのが大変なのである。これには高校まであまり勉強する習慣がついていないのも一因だ。どこの大学でも、留学生は良く勉強するので先生から喜ばれる傾向がある。日本のように大学に入るまでに燃え尽きるのも困るので、こちらの方が自然かとも思うのだが、アジア系の学生の勉強意欲の高さには定評があるようだ。
 

10月14日(木)
 1年前の今日、私はグラダナにいたことをふと思い出す。今、私はアメリカにいるが、これも2回目の海外渡航であり、私にとって海外はあまり縁があったとは言えない。英語もスペイン語もほぼ独学で進めてきたが、なぜかテキサスの地でドイツ語の勉強を進めている。英語の勉強も当然やってはいるのだが、ここにいるとドイツ語もスペイン語も勉強がはかどるのである。これらの言語が英語に近いことにもよるのだろうが、日本語を聞く機会がないのも良いことなのであろう。明日、中間試験をしなくてはならないのだが、これが終われば気分的に一息つける。公務員を辞めてからこの方、今までの人生で最もよく勉強している時期に突入しているのではないかと思ってみたりする。
 

10月13日(水)
 今日ようやく大分から荷物が届き、英和対照とドイツ語の「仏教聖典」を手にすることが出来た。これはいずれドイツ語のテキストとして読むつもりでいるのだが、他の19世紀のドイツ語に比べると極めて読みやすい。一緒に送ってもらったヒルティの「仕事をする技術」(「幸福論」の一部)と比べると一目瞭然である。最近キリスト教の勉強はしているので結構こっちには強くなったのであるが、仏教は浄土教以外しばらくおざなりになっていた。テキサスで仏教のことを聞かれたときに備えなければならない。正直、私は外国語が得意ではないので、もろ話す内容で勝負しなくてはならないところがある。その場合、宗教ネタは常に共通の話題を提供してくれる。日本では宗教の話はあまりされないし、一部では外国で宗教の話をするなということも聞くが、公平な立場で宗教を見渡せる視点がないとコミュニケーションの大切な前提をひとつ欠くことになる。東アジア史の時間や世界の宗教の時間で仏教や中国思想の話ができるかもしれない。
 

10月12日(火)
 最近になって特に強く感じるのだが、脈絡が理解できないと本当に外国語は分からないものである。Mangram さんの授業が良くわからないのは恐らくそのせいだろう。話は非常にゆっくりなのだが、その内容が結構飛ぶのである。また、依然として英語のLやRの巻き舌には苦労している。英語のネイティヴは単語を独立した母音や子音の音素の組み合わせとしてではなく、一定のリズムやアクセントを持つまとまりとしてとらえるので、どうしても勢いをつけて発音しないと通じないのも苦労する点である。
 今日は昨日からあまり寝ていなかったせいもあって、結構疲れが出た。にもかかわらず、勉強は進めている。
 

10月11日(月)
 午後にスタッサーさんのところに招待される。お母さんの話によると、サラちゃんとサムエルちゃんは学校に行かずに家で勉強しているそうである。集団生活が気になるところだが、さすがにアメリカはコミュニティーがしっかりしていて、ボーイスカウトや教会がフォローしているようである。このような環境では地域通貨も現実味を帯びるが、ここではその話はまだないらしい。
 ところで、ゴジラ(海外版)のビデオを持っていったので、途中までであるが一緒に見た。久しぶりに見て気づいたのだが、この物語の構図は旧約の世界にかなり近い。人間の罪としての原子力、それに対する罰としてのゴジラ、そしてそれに対する生贄としての芹沢博士と見事に旧約と一致する。火に包まれた東京がネブカドネザルに攻め落とされたエルサレムのように見えてくる。思うに、エヴァもこの構図の下に構成されたのだろう。細部の類似も多いのだが、ゴジラをシトと見なせば、そのままエヴァの世界である。そうすると誰かが芹沢博士のように生贄にならなくてなならないのだが、いずれにしてもエヴァの方は最後で話が空中分解してしまった。ゴジラが出来たのは1954年だが、今の日本人にこのこの映画に見られるような罪や怖れに対する感覚がどれだけ残っているだろうか?
 
 

[ことばのこと]