JARVIS 通信11月上旬



11月10日(水)
 今週もStatser さんご一家のクラスは水曜日となった。「タコ」といえば、こちらではメキシコ料理のタコスだが、日本では海の蛸になる。私はメキシコ料理は好きなのだが、こちらの人には蛸料理は相当に気持ちの悪いものらしい。寿司にも蛸ネタはないようである。ちなみに、今日の食堂の夕食はメキシカンだったので、何となく嬉しかった。
 一方、キシャちゃんは今日の授業にかなり遅れてきた。何か足が悪いようである。先週は風邪で、月曜は眼病で、今日は今日なので何か大変そうである。キシャちゃんによると、来学期には日本語の生徒が増えそうだということなので、期待が出来る。
 ところで、そろそろ私のHPのカウンターも2000に近づいてきたが、そのかいあって、いろんな方々とメールのやり取りが出来るようになった。今までは掲示板を通じて知り合った人が主であったが、偶然にHPを見た人からもメールがきた。これはとても喜ばしいことです。
 

11月9日(火)
 こちらに来てもう3ヶ月になるが、ようやくテレビを買うことになった。Wellmon さんが安い店を知っているので、買って来てくれるそうである。今までラジカセでテレビの音を聞いていたのだが、早くもバッテリー切れを起こしてしまった。せっかくアメリカにあるのだから、テレビでも見ていないと英語の勉強が進まない。
 ところで、Mangram さんの授業では来週から日本の神道の紹介に入るので、それなりの用意をしなくてはならなくなった。仏教には強いのだが、教義のはっきりしない神道は扱いづらい。古事記などの神話を紹介しつつ、日本人の一般的な宗教意識に言及するのが適当だろう。しかし、日本人は聖書と同じ意味での神話を持たないので紹介づらいところがある。はっきり言って、私にとっては「北斗の拳」の方が神話としてのリアリティがある。ゴジラも含めて、少し工夫をしてみよう。
 

11月8日(月)
 今日はキシャちゃんが無事に出てきてくれたのだが、眼病で涙が出る状態だったので、途中で切り上げてタスクを課することにした。
 それはともかく、Wellmosan にEメールの使い方を教える事となった。こちらの人は日本人よりもキーボードに慣れているとはいえ、年輩者になるとすべての人がコンピューターを使いまわしているわけではない。どうも初めてEメールが送れたようだったので喜んでいた。コンピューターの用語は日本語でも英語から来ているものが多いので、英語の画面を見ても大体見当がつく。初めての形式だったが、何とか勘で操作が出来た。逆に、こちらの人にとっては日本語で書かれた操作画面はお手上げのようである。ひらがな、カタカナでさえ恐れをなすのであるのだから、漢字があればなおのことである。実際は単に英語を日本語に置き換えただけなのだが、そうなのである。この国の常識を世界標準だという人も日本には多いが、ここらへんはよく考えておかねばなるまい。
 

11月7日(日)
 以前、カレッジに送られてきた日本語教育関係の雑誌 [Journal of the Association of Teachers of Japanese Volume32 Number2] を読んでいるのだが、その2番目のの論文が結構面白い。日本人は日本語を流暢に話す外国人に違和感を感じるので、日本語がうまくなるほど日本人から疎外されるという説があるが、これを否定したものである。日本人でなければ日本の心は分からないという信念を必ずしも日本人が支持していないということを主張しているのだ。確かに一昔前なら、日本語のうまい外国人(この場合は西洋人だが)怪しまれることもあったが、最近は日本語のうまい外国人がテレビに出ることもあって、日本人も彼らに慣れた感がある。私の友人でデンマーク語が出来る友人がいるのだが、彼が地元デンマークでデンマーク語を話したら逆に怪しまれたという話もある。珍しいとそうなのだろう。この論文の著者は日本人論が説く日本特殊論もさほど日本人には受け入れられていないと説くが、このような偏見は慣れとともに弱まって行くのだろう。でなけでば、私がテキサスまで来て日本語を教えている意味も怪しくなる。
 

11月6日(土)
 ここ2、3日、気温が上がり、半袖でいることが多くなった。日本もそうだが、ここも季節の進展が一様ではない。
 ところで、新約も「ヨハネの福音書」まで読み進んでいる。スペイン語なので、一節ずつさらっと日本語に目を通した上で音読するのだが、ようやく調子が出てきた。旧約からのつながりがあると、新約もちょっと違った視点から読めるものである。旧約では神とユダヤ民族との契約、つまりは律法の遵守が強調されるのだが、新約ではそもそも何のためにそれがあるかが問われているようである。目的も知らずに律法を守るのは律法そのものに反している。すでに旧約の終わりの部分では神がユダヤ民族だけの神ではなく、普遍的に人類の神であることが強調されているのだが、だとすると律法を守ることが宗教の普遍化に役立つもの出なくてはならないだろう。ここに至ってユダヤ民族も神の前に他民族との競合を余儀なくされる。

11月5日(金)
 キシャちゃんが来ない。今週2回目である。これからしばらくの間、木曜日を補習に当てねばなるまい。これもヨダキイ(面倒な)ことではある。
 久しぶりに、日本語が少し分かるムニールさんとお話をする。日本語の敬語の難しい所は、人間関係全体を理解した上で、自分と話している相手と、話題になっている人との関係をきちんとつかまなくてはならない点だ。「〇〇君いますか」に対しては「〇〇君いますよ」で良いのだが、「〇〇先生いますか」に対しては「〇〇先生はいらっしゃいません」と答えなくてはならない所が面倒なのである。恐らく、外国人どうしの日本語会話ではこの非対称の敬語表現は摩滅するだろう。外国人の間にまで日本の社会性を求めるわけには行かないのだから。
 日本語やハングルは敬語が発達していることで有名だが、必ずしも今まで日本人のすべてが同じような敬語を使っていたわけではない。方言ついて言えば、漁村においては敬語は摩滅していることが多いようである。日本人は学校で漢字を習い、企業で敬語を学ぶ。いずれも細かいチェックを受けることになるのだが、その度に人に従うことを強制される。外国に出て、人間関係が軽くなったと感じる人が多いようだが、敬語がそれに一枚かんでいるのは確かだろう。かく言う私もそうである。老子風に言えば、規則多くしして、気に病むこと多しというところだろうか。日本語の敬語表現を誇りに感じている人々に敢えて文句は言うつもりはないが、企業を通じて複雑で形式的な敬語表現が一般化することには疑問を感じる。

11月4日(木)
 Mangram さんの世界宗教の時間では今週から中国の宗教に入っている。中国といっても、儒教と道教が中心なので哲学との境が曖昧なのだが、とにかく現世的宗教ということで話は進んでいる。今日、「仁」の漢字の意を聞かれたので、「人」+「二」で human relationship と答えておいた。漢字が読めるのは大変ありがたいことなのだが、その読みが現代中国の読み方と違っているのは困りものである。英語は当然中国の読みに従っているからだ。Wellmon さんの授業でもそうなのだが、中国人の呼び名が分からないのは苦労する。毛沢東が「マォーセーツゥン」で蒋介石が「シャンカィシー」なのは理解できたが、ほかはいまいちである。これは日本の世界史の授業の意外な落とし穴である。

11月3日(水)
 今日はなぜか Statser さんご一家が早めに教室に来てくれたので、結構、日本語以外のことも話をした。私はいま経済学に取り組んでいるのだが、そのことについて面白い本があるということである。今度貸してくれることになったが、英語なのでどのくらい読めるか不安である。
 一雨ごとに秋が深まるという感じだが、この前の雨以来、秋本番というところである。
 

11月2日(火)
 ここ2、3日寒くなったのだが、寒気がする。私にしては珍しく目覚し時計のお世話になる。どうも疲れが出たようなので、午後ゆっくり寝た。夕方には大体回復したが、無理は禁物なので、おとなしくしている。
 ところで、午前中に Wellmon さんのメキシコ旅行の発表会があった。何人かの学生と一緒にメキシコに旅行したのだが、スライド(コンピューターによる)により、各学生と共に結果報告をする。私も裏方として手伝いをする。ここではラテンアメリカに対する関心が強く、外国語の学習経験者の半分以上はスペイン語であるし、メキシコなどのラテンの乗りもかなり一般的だ。ここからメキシコは、大分から関西ぐらいの距離しかないから、こうゆうこともできるのだが、日本だとさすがに学生を連れてとは行かないだろう。先生がアジアまで足を伸ばすことはあるようだが、出来うれば日本に来る学生がいてほしいものである。
 

11月1日(月)
 Statser さんのお招きで、サムエルちゃんのボーイスカウトの仲間の前で、日本の話をする。非常に有意義であった。最後に英語が少し息切れしたが、それなりに日本を紹介できた。先日使ったばかりのゴジラの話や日本史の教科書も使ったが、こういう時に英語のHPを持っていると有利である。会場はアメリカの簡易裁判所のような所なのであるが、アメリカ民主主義が司法を軸に展開されたことを思うと感慨深い。
 このおかげで、帰りは5時過ぎになったのだが、冬時間の関係で夕食時が急に暗くなった。突然、季節が変わった感じである。
 
 

[ことばのこと]