言語における条理構造
 

  はじめに

 以前から、私は梅園の条理学は外界の対象を単に受動的に分類し記述するための学問ではなく、能動的にそれを再構成することにより世界のあり方を見いだそうとする試みであると考えてきました。今までもこの観点からさまざまの論考を書いてきましたが、ここでは人間だけが持つ言語の能力について条理学の観点から考えてみようと思います。言語は単にコミュニケーションの道具ではなく、人間が思考の道具として世界を再構成する器官です。この言語によって構成される文には<主語−述語><主語−目的語>などの文法的な対関係の構造が存在します。これらの対関係が一つの文にまとめられることによって、私たちは有限の言葉を用いて無限に多様な世界を再構成し他者に伝えることができるといえるでしょう。ここには条理学の《一即一一、一一即一》の原理に基づいた「粲立」と「混成」の関係が見て取れます。外界に起こる事象は文においては単に一つの言葉によって再構成されるわけではありません。単一の言葉によって表現される事象は単にその言葉によって指し示されただけであって、再構成は文によって複数の言葉が組み合わされることによって成立します。今回は英語と日本語の文法の考察を通じて、言語の普遍的なあり方の中に条理構造を見いだそうと思います。
 

1. 英文法における5文型

 英文法を習ったことのある人なら誰でも5文型というのを耳にしたことがあるでしょう。無数に存在する英語の文もこの5つの文型もしくはその組み合わせによって成り立っています。その意味で、この5文型は英語の文を分類するための基本となるものですが、たいてい英文法の時間ではこの文型の提示に終わって、それ以上これらの文型についてより深い考察はしません。どうして英語の文型は5つでないといけないのか。その中のある文型は他の文型に還元されないのか。このような疑問は英語の使用には直接関わらないため、まず英語の時間で問われることはありません。しかし、言語を外界を再構成するシステムとして考えるならば、このような問いも大きな意味を持ち得ます。

 まずは、この5文型について、具体的な例文をあげながら見てみましょう。

   *第1文型:S [主語] − V [動詞]
        She sleeps with her teddy bear.  
     (彼女はテディーベアと寝る)
     There is a bus-stop outside my house.
     (家の外にバス停がある)

  *第2文型:S [主語] − V [動詞] − C [補語]
        I was very nervous at the interview.
     (私は面接でとてもあがった)
     My mother looks young for her age.
     (私の母は年の割には若く見える)

  *第3文型:S [主語] − V [動詞] − O [目的語]
     She arranged the flowers in a vase.
     (彼女は花を花瓶に生けた)
     The crowds of the city tired me.
     (都会の人混みは私を疲れさせた)

  *第4文型:S [主語] − V [動詞] − O [間接目的語] − O [直接目的語]
     She makes me a nice cup of tea.
     (彼女は私においしい紅茶をいれてくれる)
     She gave the house a thorough cleaning.
     (彼女は家に徹底的な掃除を与えた→彼女は家を徹底的に掃除した)

  *第5文型:S [主語] − V [動詞] − O [目的語] − C [補語]
     Cats keep their surroundings clean.
     (猫は身の回りを きれいにしておく)
     An apple a day keeps you healthy.
     (1日1個のリンゴはあなたを 健康に保つ)

※ 上の例文は池田真著『快読英文法』によりました。  

 5文型において主語と動詞は必須です。これらの文型を分けているのは目的語と補語の存在です。第1文型には目的語がありませんが、これはこの文型の動詞が自動詞だからで、自動詞を「自ら」を目的語とする他動詞と解釈するならば、第1文型は第3文型に還元されます。例えば、日本語で「起きる」という動詞は自動詞ですが、スペイン語などでは「自らを起こさせる」という形で他動詞になります。

     Me levanto todos los dias a las seis.
     (私は毎朝6時に自らを起こす [起床する] )

英語でも「oneself」を使った再帰用法があるのでこのことは理解しやすいと思います。また、第4文型についても、動詞が働きかける目的語が複数にわたっていると解釈すれば、第1・第3文型と同じタイプに属すると考えられます。

 問題となるのは目的語(O)と補語(C)との違いです。目的語が示していたのは主語が動詞を通じて働きかける対象でしたが、補語が示しているのは主語そのものの状態であり、主語と補語とは同一のものとして(論理学的に正確に言えば包含関係によって)結ばれています。第2文型の例でいえば、「I→ nervous /my mother → young」ということになりますし、第五文型の例では「surroundings → clean / you → healthy」という形で目的語と補語との間にこの関係が成り立ちます。このことから、英語の5文型の区分は動詞の後に目的語が来るか補語が来るかの違いによって生じたといって良いでしょう。
 

2.英語における「粲立」構造

 英語の場合、上の5文型を見ても分かるように動詞が文の基軸になっています。本来、動詞は何らかの「働きかけ」を示すものである以上、動詞を中心に<働きかけるもの−かけられるもの>との関係に基づいて主語と目的語との存在を必要とします。英語の場合は《S-V-O》の動詞を中心として主語と目的語とが文の両端に定立される、いわば「粲立」する第3文型にそれが最もよく表れています。しかし、この [V] を挟んだ構造は《S-V-C》の第2文型にも見られます。確かに目的語と補語とは異なりますが、同一性を示すためには別々の言葉を結びつけなくてはならないので、ここでも目的語と補語とは動詞を介して「粲立」することになります。

 ここでポイントとなるのは、《S-V-O》の文型にせよ《S-V-C》の文型にせよ、動詞が両端の主語と目的語、もしくは主語と補語とを別々のものとして定立しているということです。実際には主語と目的語とが同じことは自動詞に見られるように多々ありますし、《S-V-C》における主語と補語とはそもそも現実的に同一であることが前提となっていますが、文の中では一端別のものとして定立されているわけです。これは動詞による文の形式上の必然ともいうべきもので、第4文型のように目的語が2つある場合もありますが、本質的には<働きかけるもの−かけられるもの>もしくは<同一であるとするもの−されるもの>の異なった2項間の<繋ぎ合せ>によって英語の文は成り立っているといえるでしょう。

 これに対して、日本語の場合は必ずしもこのような2項関係が明確に現れるわけではありません。日本語の受動態の場合、主語の動作によって何らかの影響を受けた第三者も主語になることができますが、英語ではそれはないわけです。これは一般に(必ずしも迷惑な場合とは限らないのですが)「迷惑の受け身」といわれるもので、「雨に降られた」「隣にビルを建てられた」などの文がよく例にあげられます。また、日本語では食堂で料理を注文する時に「おれはうなぎだ」という言葉が出ることがありますが、このような表現は英文法では認められていません(1)。これは日本の言語学者の間で「うなぎ文」として定着しているもので、日本語の「… は … である」の構文が必ずしも主語と述語の同一性を示すものではなく、その場で密接に関連する事柄を結びつける機能を持っていることを示す例としてよく話題になるものです。英語と日本語とのこのような違いは、前者が文の中で結びつける核となる語を動詞を中心にして関連づけるのに対し、日本語が動詞よりも助詞などによって語を結びつけるために、必ずしも動詞の要求する2項が明確に文の構成の基軸とならないことから来ているように思われます。
 

3.日本語における「混成」構造

 それでは日本語の場合どのような形で条理構造が見いだされるのでしょうか。日本語の語順は英語に比べてかなり自由です。しかし、ただ一つ、文の主になる動詞などの用言は文末に位置するというルールがあります(2)。日本語の語順が英語や他の近代ヨーロッパの諸言語と比べて自由なのは助詞の働きによって文中の名詞や動詞などの役割が明示されるからです。語順の自由は古いタイプの印欧語でも見られるところですが、これらの言語が個々の名詞や動詞などの語尾変化によってそれぞれの単語の文中での役割を明示できるからであって、必ずしも日本語の場合と同じわけではありません。これらの語の場合、たとえ主語が省略されて英語のようにはっきりとした「粲立」が見いだせない場合でも、動詞の語尾が主語を示しているので、基本的には英語と同じように主語と目的語、もしくは主語と補語とは動詞を介して結びつけられていると言えるでしょう。

 英語においてむしろ日本語の助詞の役割を担っているのは前置詞です。英語の前置詞句が、文全体もしくは特定の語に対して、空間的な場所や時間的な前後そして目的や対立などの関係を言い表すように、日本語の助詞もこれらの内容を文に付け加えます。ただ、日本語が英語と比べて異なっているのは、英語では動詞を中心とした主語と目的語もしくは補語とに関わる事柄は動詞を中心とした語順による文の構造によって示されるのに対し、日本語ではこれらの語も助詞を介して示されるということです。

 日本語の文法もかつては英語などの印欧語の文法からの影響を受けて、《主語-述語》もしくは《主語-動詞-目的語》の形で理解された時代がありました。つまり、「私は男だ」という文があったとすると、「私」が主語で「男」が述語と見られていたわけです。英語でいえば、そのまま第2文型に当てはまる文ですが、ここで主語と述語を媒介していると見られる「は」は「私」を主語として特定している助詞なのでしょうか。以前はそのように見られていたこともありましたが、次のような例文の提示によってその考えは否定されています。

   象は鼻が長い。

これは1960年に三上章氏が文字通り『象ハ鼻ガ長イ』という本で取り上げた日本語の文です(3)。「は」も「が」もそれまで主語を導く助詞と見られていたのですが、この例文ではそれらが2つとも一緒に出てきています。これは従来の印欧語の文法では説明できないことです。恐らく英語であれば、この例文は「A nose of elephant is long.」と訳され、「A nose」が主語となり、日本語で「象の」と表現される部分はそれを修飾するものとなるでしょう。確かに日本語でも「が」は主格を導く助詞と呼ばれ「は」よりは主語と深く結びついているとされていますが、だからといって「は」によって導かれる句が単なる「が」によって導かれる句を修飾していると考えるのは不自然です。

 私はこの文を初めて目にした時、次のように考えました。

   象については、
   その鼻については、
            長い。

舞台のスポットライトを思い浮かべてもらえると分かりやすいのですが、最初の「は」によって「象」にスポットライトが当てられ、次の「が」によるスポットライトで「鼻」がクローズアップされます。そのスポットライトを当てられた象の鼻に対して「長い」という句が説明を加えているわけです。

 日本語ではよく主語が省略されると言われますが、この主語を導くとされる「は」や「が」が必ずしも印欧語と同じ意味で主語を導いているわけではありません。現在では「は」は主題を導く助詞とされ、「私は男だ」という文の「私」は主語ではなく、その文が言及する「主題」と見なされています。「が」の方は今でも印欧語の意味での主語を導く主格の助詞といわれていますが、これは「は」の導く主題をより強く示していると見た方がよいと思います。というのも、「が」には次のような使い方があるからです。

  何人かで食事に行った時、ウェーターが間違って私が注文したうな丼を隣の前に置いた時の一言。
   「私がうなぎだ」

「が」にはすでに示された場面をより強く特定する働きがあります。「は」と「が」の使い分けについては日本語教育でいつも問題になる点ですが、基本的には「が」によって導かれた句の方が、「は」によって導かれた句よりも強くスポットライトが当てられていることを前提に考えればよいでしょう。岸本建夫氏は『日本語の秘密』という本の中で「は」と「が」との違いを次のような例文をあげて説明しています。

   i. アメリカは大きい。
   ii. アメリカが大きい。

この本によると、(i)では述部の「大きい」の方に文の重心が置かれているが、(ii)では主部の「アメリカ」の方に重心が置かれているということです。私もこの見方を取りますが、「は」も「が」も共に英語などに見られる主語ではなく主題を導く役割を持っているといえるのは確かでしょう。

 ここで注目すべきなのは、英語《S-V-O》もしくは《S-V-C》の文型において形式上別々のものとして定立されていた主語や目的語などが、日本語では助詞を介してその文が語る共通の場ともいうべきものに<重ね合わせ>られているということです。「私は男だ」という文では、「私」という場に「男」という性質が<重ね合わせ>られていますし、「象は鼻が長い」という文では「象」から「鼻」へ焦点となる場が絞り込まれた上で、その上に「長い」という性質が<重ね合わせ>られています。前述した「私はうなぎだ」といううなぎ文が日本語で文法的に成り立つのは、「私」と「うなぎ」が食事の注文という共通の場で<重ね合わされて>いるからだといえるでしょう。私はこの<重ね合わせ>に条理学における「混成」が見いだされると考えています。

 無論、助詞による日本語の<重ね合わせ>は必ずしも英語のような2項関係を<重ね合わせる>ものとは限りません。「象は鼻が長い」という文のように、3つ以上の事柄も一つの文で同時に<重ね合わされる>ことはむしろ普通です。しかし、日本語も言語として動詞の「働きかけ」を基軸に成り立っている以上、《S-V-O》もしくは《S-V-C》の英語の文型によって示される関係をその中に内包するのであり、日本語ではその関係が他の修飾関係と区別されない形で表現されていると考えるべきでしょう。

 むしろ、ここで目を向けるべきは、日本語では動詞などの用言が常に文末に位置しているということです。「私は男だ」という名詞をつなげた文でも、「だ」という終助詞が最後についています。これは「だ」などの終助詞が文全体を文末でまとめているからです。確かに名詞どうしをつなぐ文では「だ」をつけなくても意味は通じます。しかし、これがないと全体のまとまりに欠けた印象を受けます。日本語では文末に来る用言、もしくは終助詞が文全体を一つの統一体として締めくくる働きがあると考えるのが妥当でしょう。この意味で、英語において「粲立」の働きをしていた動詞は日本語において「混成」の働きをしていると見ることができます。
 

3.【一】の日本語、【-二-】の英語

 日本語の「混成」構造と英語の「粲立」構造との違いがはっきりと現れるのはその文全体が対象化される場合です。具体的には否定疑問文に関する日本語と英語との違いを見るとよいでしょう。

   Didn’t you do the sight of Kyoto?
   (京都は見物しなかったのですか)
         i. Yes, I did. (いいえ、見物しました)
         ii. No, I didn’t.(はい、見物しませんでした)

否定疑問文に対する答えにおいて、日本語と英語とでは「Yes/No」「はい/いいえ」が逆になることは広く知られています。上の例に従っていえば、日本語の場合、「京都を見物しなかった」という文全体(命題)の真偽に対してメタ的に「はい/いいえ」という答えがなされているのに対して、英語の場合は、文中の動詞の肯定/否定が「Yes/No」を決定しています。
 日本語では語尾に来る用言がその文を締めくくりますが、そのあとに助動詞や終助詞が付け加わると、それまでの文全体についてメタ的な言明がなされることになります。たとえば、可能などのモードを表す助動詞を例に取ってみると次のようになります。

   私は東京に行ける [=行くことができる]。
   私は東京に行けない [=行くことができない]。

可能の助動詞の場合は「こと」を用いてそれまでの文を名詞句にして表現できるのでこのことがよりはっきりしていると思います。
 また、終助詞の多くは話者の感情を表すことが多いのですが、これもそれまでの文の内容をメタ的に修飾していると見ることができます。

   私は東京に行けるのだ。
   私は東京に行けないのだ。

「のだ」という終助詞によってそれまで語られた内容全体を強調しているのが見て取れますし、また、話者の態度もこの語から読みとることができます。日本語の敬語が発達したのは文末にかなり自由に語を付け足して文全体のニュアンス、ひいては話者の態度を明らかにすることができるからだといえるでしょう。特に口語では任意の音を終助詞として付け加えて話者の独自性を強調することもしばしばなされています。

   私は東京に行くのだびょ-ぅん!

 英語でも日本語と同じように文に特定の語を加えてモードやニュアンスを出すことがあります。

   I can understand what you say.
   (君の言うことは理解できる)
   He does resemble his father.
   (彼は父親に実によく似ている)
   

英語の場合も日本語の場合と同様に、これらの語は動詞に付加されることになりますが、その動詞のみを修飾するのであって、文全体をメタ的に修飾しているわけではありません。仮に英語において文全体に対して何らかの付加をメタ的に行うとすれば、「It is *** that … 」というようにItの構文を使って《S-V … 》の枠を外から付け加えることになります。

   It is sure that he will go to Tokyo.
      (彼は東京に行くに違いない)

 ただ、いずれにしても、動詞が文の要(かなめ)になっているということはできると思います。違いは、「粲立」の構造を取る英語の場合、それが文全体に内在的な形で働きかけるのに対し、「混成」の構造を取る日本語の場合、外から文全体につまりメタ的に働きかけるという違いがあります。しかし、「粲立」も「混成」も《一即一一、一一即一》の条理の相即的な各側面であって、互いに独立したものではありません。その意味では、日本語も英語もどちらかの側面に偏しているというだけであって、実在そのものを再構成する基本は同じです。

 次に掲げたのは梅園の「経緯剖対図」ですが、人間の言語によって綴られる文は1つの【一】から分岐する2つの【−】【−】とその間にある【-二-】によって構成される三角形の系列と対応しているように思われます。英語の場合、2つの【?】【?】が主語と目的語もしくは主語と補語に対応し、その間にある動詞は【-二-】に対応します。日本語の場合、分岐する以前の【一】が他を包含し、文末の用言がそれを示しているというわけです。いずれにしても、動詞が文の核となるわけですが、それは「経緯剖対図」の中心から放射状に広がる直円のラインに沿って交互に現れる【一】か【-二-】のいずれかに寄っているといえるでしょう。

 また、英語の文には基本的に能動/受動の動詞による「働きかけ」のラインが走っていると見ることもできますが、私はこのラインを「文の脊髄」と呼んでいます。

    【−】──────【-二-】──────【−】
   (主語)       (動詞)    (目的語もしくは補語)

これに対して、日本語は分岐以前の【一】によって全体を包括しているので「非脊髄言語」とも呼ぶことができるかと思います。この中で確かに動詞の能動/受動の「働きかけ」の関係は重要な意味を持っていますが、他との決定的な違いはありません。このことは、すでに述べたように、日本語の受け身の主語がこのラインからはずれていたものであっても可能な事からも分かるでしょう。

   【一】【一】【一】【一】【一】・・・
    ↓  ↓  ↓   ↓   ↓
     [【一】(+は,が)→【一】] +α(です、ます、た、etc.)

この【一】を文によって表現される諸事象と考えるならば、日本語では1つだけの語にそれを締めくくる語を加えれば文は成立します。日本語教育で最初に教える自己紹介の仕方では、「私は○○です」という言い方ではなく、単に「○○です」という言い方を教えます。それは日本語には必ずしも主語が必要ではないということを生徒に理解してもらう必要によるのですが、そもそも日本語では何らかの事象(事物)を示す内容があれば1語でも「です」をそれに付加すれば文章が成り立つからです。
 言語学の世界では、チョムスキーの提唱以来、あらゆる言語の根底に普遍的な深層構造があるのではないかと考えられるようになりました。しかし、現在のところ、その研究の範囲は印欧語に偏っているところがあります。条理学の観点から、英語を【-二-】日本語を【一】の立場に立つ言語システムと考えれば、人間の持つ言語をより広い観点から捉えることができるのではないでしょうか。
 

  おわりに

 梅園がその著書『玄語』で展開した条理モデルはカテゴリーとそれに基づく自然解釈です。しかし、梅園の段階では、条理学が提唱した抽象的な諸カテゴリーのレベルと具体的な事物のレベルとの区分が十分自覚されていなかったように思われます。人間の言語システムは、それ自身としては具体的な事物の内容を規定しませんが、事物を再構成することを通じて、それらの本質的なあり方を示唆しています。今まで多くの哲学者たちが自然の普遍的なあり方を探究してきました。しかし、それらの試みが単に思弁的なものにとどまらず、具体的再現性を持つためには言語についての考察が不可欠です。その意味で、梅園の条理学は言語の考察を通じて現実的な応用の可能性を持つのではないかと私は考えています。
 
 

註(1)実際にはうなぎ文も英語を母語とする人たちの間で、「I'm coffee」のように、時折使われているそうです。日本語と同じように自分と自分の注文したものを結びつけて発話するからだと思いますが、それらだけをそのままつないだのでは英語の文としてのすわりが悪いので、BE動詞を間に挟むことになるのでしょう。しかし、このようなBE動詞の使い方は動詞としての使い方から、助詞としての使い方に移行している感があります。

註(2)日本語の形容詞は活用するので、形容詞(形容動詞も含む)も用言として動詞と同じ種類と見るのが適当です。印欧語の場合、形容詞はBE動詞を伴って文に現れますが、日本語では形容詞それ自身のうちに述語として何らかの内容を陳述する働きを持っています。

註(3)「象ハ鼻ガ長イ」三上章  くろしお出版 1960年
 

  参考文献

「快読英文法」池田真  ベレ出版
「日本語の文法(上)」国立国語研究所  大蔵省印刷局
「日本語の秘密」岸本建夫  ヤック企画
「総解英文法」高梨健吉  美誠社
 
 

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