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116:論理学・方法論
 




「構造主義方法論入門」 高田明典  夏目書房

 何となく著者の迷いが見えてくる本です。それは科学論における著者の立場が明快であるにも拘わらず、その現実世界との関わりがさほど判明でないからだと言えるでしょう。著者は科学的言明は外部世界を前提としないし、それを問うこともないとはっきり言いきります。また、それと同時に、常識的に考えられているように真理が客観的な実在としてあることも否定します。科学的に正しいと言われていることは、単に限定された状況の中で妥当するものとして知覚され、観測されるものの整合的体系に過ぎないのです。それは確かにそうでしょう。しかし、科学論のレベルでこのように断言できたとしても、私たちがが現実に生きる生活の場でこのことはどのような意味を持ち得るのでしょうか?

 この本ではドグマティックな独善主義者がいかに残忍になれるかということを通して、客観的な真理の実在性に固執するものの考え方の危険を指摘します。しかし、著者自身も指摘しているように(266p)、完全に客観的な真理の実在性を否定してしまったら、この独善主義者の残忍さを否定することすら出来なくなるでしょう。確かに無制限に妥当する客観的真理の実在性を主張することは危険ですが、だからといって真理を主観的レベルのみに押しとどめて、その客観性を全く無視すれば、科学論の範囲では正しくとも、現実世界では歯止めのない相対主義に陥る危険があります。

 著者の迷いの原因はまさにここにあるのではないかと思います。科学は人間の閉じた知的所産ではなく、対象に働きかけそれを変化させること(操作する)ことを前提に成り立っています。ですから科学も実践的な現実世界の一部となるのですが、科学論のレベルでは外界の実在や客観的真理の実在性を問うことはできません。しかし、人の生きる現実世界はそれを前提としなくては成り立たないところがあります。

 この矛盾はこの本の最後に理論の深層構造を論じるときに表面化してきます。一般に科学的理論は単に観測される事象の連関づけのみで成り立つのではなく、それをより普遍的な立場から説明する構造モデルを必要とします。しかし、これは直接的に観測される事象と結びつき対象を制御するわけではないので、著者の立場からは架空のものということになります。一方、著者は理性がこの深層構造を解明することを通じて社会を「理想に近づける(231p)」こともできるとも主張しています。しかし、この本のそれまでの主張からは何を以て理性が私たちの社会を「理想に近づける」と言えるのかが見えてきません。

 私は決して独善主義者のように客観的真理の無制限の実在性を認めるものではありません。しかし、その一方で、相対的な限られた範囲内での真理の実在性を認める柔らかい実在論の立場を取ります。この立場では「残忍なこと」として否定されるべき行為に歯止めをかけることもできますし、またそのことを通して相対的によりよい方向へ 、少なくともより危険でない方向へ社会を導くことが出来ます。また、理性のあり方についても、カントに習って純粋理性と実践理性とを分ければ、科学論の主張をそのまま現実世界に押し広げて、かえって現実世界を混乱させることはないと考えています。

 実は私はこの本の「構造主義方法論入門」の題名から「構造主義」独特の科学的方法論が説かれているのではないかと思っていました。日本語教育の関係で言語学の勉強をしていると、この学問がいかに言語という複雑な体系を構造的に把握しているかに感心させられます。他の学問分野でも、単に事象を連関づけるだけではなく、その構造を見出すことによって新たな発見があるのではないかと思うのですが、この構造の独自性についてこの本はあまり多くを語っていません。私は漢方医学で用いられている五行モデルや八綱弁証の方法のようなものがこの本の中に見られるのではないかと期待していたのですが、それはありませんでした。私の目からすれば、ここで述べられている多くの事柄はすでに過去、マルクス主義者から批判された実証主義者たちの主張と共通しています。違うとすれば、かつての実証主義者が著者のいう深層構造を意識していなかったことぐらいでしょう。

 この本の題名の前には「知った気でいるあなたのための」という但し書きがついていますが、私には構造主義はいまだに謎のままです。構造主義者の多くはそれまで独立して実在すると見なされていた科学的対象が実は単なる「差異」に過ぎなかった主張してその独自性を強調しますが、そのようなことは仏教ではとうの昔からなされていた主張です。構造についても仏教のマンダラや中国思想の陰陽五行モデルに見ることが出来ます。また、量子力学などの物理学の発展はそれまでの実在概念に変更をもたらし、一部の学者たちはかつてのニューサイエンスに見られたように東洋思想(正確には西洋の古い思想も含めるべきですが)に眼を向けましたが、構造主義者がこれに注目しないのは何故なんでしょう? 著者は構造を関係の集合そして規定しています(208p)が、構造は関係を部分とする全体である以上、全体としての独自性を持つものでなくてはなりません。もし、それがないなら「構造」は関係要素に還元され、構造主義もかつての実証主義に還元されるでしょう。著者自身も認めているように「パリッとした制御モデル(246p)」が提出されていない以上、その方法論も提出できないのではないかと思います。
 
 

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