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133:英米の哲学
 



「パース」  岡田雅勝  清水書院

 C.S.パースという哲学者の名前は一般にはあまり知られていないと思います。せいぜいアメリカのプラグマティズムの元祖ぐらいの認識ではないでしょうか? しかしながら、この人はヘーゲル以降、最も注目すべき哲学者であり、ある意味でドイツ理想主義哲学の正当後継者(北斗の拳のケンシロウのような意味で)と私は考えています。今までもこの人については幾つかの専門書が出ていたのですが、このほどようやく清水書院の<人と思想>のシリーズの一冊に取り上げられました。

 パースが生きたのは19世紀の中頃から20世紀のはじめにかけての時代です。この時代は哲学者にとっては受難の時代で、ニーチェやキルケゴール同様、この人も大変な人生を送っています。天才肌ながら危ない性格、それに伴う生活の不安定などはニーチェに似たところがあります。また、周りに差別主義者が多かったのも妹が反ユダヤ主義者だったニーチェに似ています。今まで、パースの哲学については時折語られていたのですが、その生涯についてはこの本が最も詳しく述べているようです。殊に、当時の(今もそうかも知れないですが)新国家を造ったアメリカ人の選民意識がパースの時代にあったことは彼の思想を探る上で参考になりました。

 ところで、私自身はかなりパースに関心があり、その思想からかなりの影響を受けているのですが、パースの思想を理解しているとはとても言えません。例えば、このHPの「医療と哲学」や「環境ホルモンと疎外の論理」で出てくる<f(s)=m>の図式はエンゲルスの「反デューリング論」の中で<G→W→G'>のマルクス経済学の説明を読んでいたときに、パースの人間記号論のことを思い出して閃き出たものなのですが、これもいい加減なパースに対するイメージが幸いしたものです。本書を読んで、私が想像していたとおり、パースが記号論を存在論の領域まで広げて考えていたことが確認できて嬉しかったです(本書168P)。

 この記号論の例だけでなく、カテゴリーや実在論の問題など私の思考そのものがかなりパースの思考とシンクロしているのは確かです。恐らく、それはパースも私も(もちろん梅園も)自然を師としてそれを堅実に一定の方法論に基づきながら探究しようとしているからですが、更にカントの哲学がその基盤にあるからだとも言えるでしょう(これはスペインのガニベーの場合もそうです)。パースは後に出てくるホワイトヘッド同様、カント哲学を足がかりに自然哲学の可能性を追求します。とは言っても、幸か不幸かパースは若い時代ヘーゲルに関心がなかったので、彼の衒学的言い回しに惑わされずに済んだようです。これはソシュールなどにも言えるのですが、先駆者の思想の混乱を後継者がそのまま受け継いでしまって、ますます“ドつぼにはまる”というのが哲学の世界ではよくあります。殊に、ヘーゲルの場合は、社会主義運動と絡まって、政治的イデオロギーに振り回されたため、彼の哲学のキーワードである「弁証法」は大変な迷惑を被りました。一般にはヘーゲルの弁証法は<正→反→合>で通ってますけれど、ヘーゲル自身はそうは言ってないのですね。

 パースの思想を観ていると、ある意味で独自にドイツ理想主義の哲学をトレースし直したという感じがします。彼のカテゴリーの一つである「第二次性」のところでフィヒテの「非我」の概念が出てきたり(本書173P)、パース自身「大論理学」という本を書いている(本書103-107P)ことからしてもそれが窺えます。ただ、彼は単にそれをトレースしただけではなく、実験的な科学者の立場からそれをやり直したという点に重要な意味があリます。マルクスもそうでしたが、ドイツ理想主義の哲学をいかに現実の場で生かせるものにするかは、ヘーゲル以降の哲学者達に残された大きな課題でした。かつて「弁証法」というと世界のことを何でも説明してくれる有り難い概念のように用いられていましたが、これは大嘘で、ヘーゲルやマルクスの段階では何となくイメージがつかめたにすぎず、その実用化は大きな課題だったのです。パースはその意味でそのための大きなヒントを与えてくれたと思います。ただ、マルクスが社会運動のために「論理学」を書けなかったのと同様、パースもその個人的な事情からこれをまとめ上げるには至らなかったのは残念です。

 パースも梅園と同様にかなり個性が強く、そのテキストのクリティクも完全でないのですが、この「パース」の著者である岡田先生はかなりコンパクトにその思想をまとめていらっしゃるように思えます。出来得れば、ドイツ理想主義哲学とパースとの関係についてもっと触れていただきたかったのですが、恐らくこれは今後の研究者の課題となるでしょう。 
 
 

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