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134:ドイツの哲学
 




「続・シェリング哲学の研究」 西川富雄   昭和堂
 

 これは私の立命館大学哲学科時代の恩師である西川先生が書かれた本です。先生は以前からシェリングを中心に自然哲学の研究をされていましたが、先生の今までの研究がうまくまとめられた本になっています。「続・〜」とありますが、実質的には独立した本です。やや専門的な本ですが、内容はシェリングに限定されておらず、ドイツ理想主義を自然哲学の観点からまとめたよい手引き書になっています。

 ドイツ理想主義の哲学に限らないのですが、デカルトに始まる西洋近代哲学は自ら他に働きかける主体性を一つのキーポイントとして展開されていきます。これはデカルトにおいては物質に対する精神、スピノザでは自己原因(causa sui)、カントにあっては自発的な自由意志、フィヒテでは事行(Tatigkeit)、ヘーゲルでは絶対精神、そしてシェリングにおいては自然となります。ところが、主体性は結局、今日に至るまで哲学のアポリアとして残っています。というのも、受動的な存在である物質は、デカルトが定義づけたように、目で見て計ることの出来る存在であるのに対して、主体的存在である精神の場合、それが出来ないからです。自分自身の精神を観察することが出来ても、自分以外の外部の存在について物質のようにそれを検証することは出来ません。また、何らかの検証が出来たにせよ、物質のように計測できる対象ではありません。このような問題に対して、ドイツ理想主義の哲学者はデカルト以来の精神と物質の二元論を自分自身の精神を反省することを通じて、能動的な主体性と受動的な客体性との関係からこの二元論を克服しようとした試みだと思います。

 けれども、この試みはまず自我の壁にぶつかります。それは人間の精神活動は反省によって把握できるけれども、それをその外にある自然に適用することは出来ないからです。カントにあってはこの二元論が物自体(Ding an sich selbst)の世界である叡知界と我々が経験する世界である現象界との二元論の形で展開します。ここでカントは人間の自由意志を機械的な因果関係が支配する現象界から保護するために物自体の世界を定立したと言えるでしょう。この後の哲学者はこのカントの考えに満足することなく、二元論の克服を目指すわけですが、ここからデカルトの精神と物質との二元論は主体としての自我とその外にある自然との連続性の問題として捉えられるのではないかと思います。

 西川先生の「続・シェリングの研究」は、このような観点から読むむならば、うまくドイツ理想主義哲学の流れをつかんでいると言えるでしょう。まず、カントの判断力批判における「超感性的基礎」の問題を通じて自然と自己との関係が問い直されます。次に、フィヒテが主体と客体との間に事行(Tatigkeit)というつながりの糸を見出したことを指摘します。つまり、働きかけとしての事行にあって主体と客体とは不可分に(梅園流に言えば「一即一一」の形で)結びついているのであり、カントが自己の認識にその適用を制限したカテゴリーなどの理念も自然に適用できるのではないかと考えが進んで行くわけです。ヘーゲルがこの理念を論理として徹底的に抽象化し経験世界から乖離させてしまったのに対し、シェリングはあくまで自然の形而上学を目指すことによって理念と経験世界とのバランスを取ろうとしたようです。シェリングのテーマは常識的な科学者が考えるように物質のメカニズムから精神を導き出すのではなく、精神の側に立つ自然のオーガニズムからこのメカニズムを導き出すことでした。一見、素朴な生気論を思わせる発想ですが、自我の反省から導き出された普遍的理念を土台にしている点で考えるべき点があるのではないかと思います。

 ドイツ理想主義以降、哲学者達はヘーゲルの無力な理念の世界からシェリングが説いた経験世界へと眼を向けます。まず、フォイエルバッハが感性的実在を強調し、マルクス・エンゲルスは社会的実践の場でヘーゲルの弁証法を生かそうとします。その一方、キルケゴールは人間の内面的現実に眼を向け実存主義への流れを作ります。けれども、歴史的に見るならばドイツ理想主義の主体的自然観は科学者達の客体的自然観の影に隠れてしまったと言えるでしょう。

 環境問題などの現代的問題を考えるとき、シェリングらドイツ理想主義の哲学者達が取り組んだ問題はすこぶる現代的な問題です。今まで多くの哲学者達がデカルト以来の二元論を克服したと考えましたが、現実社会がこの問題を乗り越えていないのは確かです。かつて西川先生と同じ立命館におられた故木村彰吾先生が「デカルトの二元論は本当に克服されたんかいな、もっとよー考えないかんのやないか」とおっしゃっていたことを思い出します。ただ、この本にも指摘されているように、ドイツ理想主義の哲学はこの二元論の克服に対して重要な視点を提供したと私は考えています。まず、それはそれまでの西洋の哲学者達が自然を実体として観ていたのに対し、働きかけを軸とした機能的自然観を提示したことが掲げられます。これによって、実体として分離された自然的諸存在をが連関するものとして把握されるようになります。また、カントが提示した合目的性(Zweckmassigkeit)の概念も全体としての自然の振る舞いを解き明かすために多くの示唆を与えてくれます。機械的因果関係においては、自然の中の部分と部分との因果関係しか明らかにされませんが、「合目的性」の概念によって各部分のあり様が一定の秩序に従って自然全体との関わりで明らかにされる可能性が出てきます。これらは自然を分割して理解する現代までの科学的な自然理解に対し、自然を一つのまとまりとして理解し、人間を再びその中に位置づけ直す道筋を与えるものと言えるでしょう。

 この意味で、私は三浦梅園とC.S.パースという哲学者に関心を持っているのですが、ドイツ理想主義の関係で言えば、パースは特に重要な意味を持ってくるのではないかと思います。先にシェリングが現実の経験世界に眼を向けたと述べましたが、彼自身はそれをやはり理念の中でしか探ることが出来ませんでした。これに対して、パースは卓越した数学者・論理学者である上に有能な実験科学者でした。西川先生は自然の形而上学を探究した現代の哲学者としてホワイトヘッドに言及されていますが、科学的方法論を踏まえた上でそれを探究したという点でパースも評価されてよいかと思います。

 いずれにしても、シェリングがめざした「自然の形而上学」はむしろ最近になって科学の進歩に伴って現実味を帯びてきた観があります。西川先生はこの本で安藤昌益(三浦梅園にも少し)言及されていますが、全体としての自然を今までの哲学者達の叡知を踏まえて探究し直す時が来ていると言えるでしょう。
 
 


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