必殺、読書人!!

 

161:宗教学・宗教思想
 





「宗教なんかこわくない!」 橋本治  ちくま文庫
 

 日本における宗教の矛盾をそのまま現わしている本です。この本はオウム真理教事件を通じて現代日本社会と宗教について鋭いコメントをしていますが、一般の日本人同様、宗教そのものを感覚的に捉えられないために宗教不在の宗教論になっているような気がします。それは社会現象としての宗教現象を的確に説明しているにもかかわらず、肝心の宗教は必要かどうかについてはっきりした答えを見出せないところに見て取れます。

 著者は今までの宗教の伝統に対しては無視することはできないという立場をとっていますが、その立場は明らかに既成の宗教に否定的です。これは一般の日本人の考え方とも言えるのではないでしょうか。この立場はこの本の「なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」という章題に示されていますが、その中の次の部分にも見て取れます。

 世の中には、“十分に自分の頭でものを考えられる人間”と、“ロクに自分の頭でものを考えられない人間”との二種類がいる。宗教は、その両方にまたがらなくてはならないから、一方では合理的でなくてはならないし、一方では非合理的でもあらねばならないのである。だから、こういうことだって言えるー「宗教とは、頭の悪い人間によって汚されてしまった、合理的で明晰な思想のなれの果てでもある」と。(273p)

この引用個所の問題点は「十分に自分の頭でものを考えられる人間」です。著者は「十分に自分の頭でものを考えられる人間」として宗教を語っているのですが、もし「十分に自分の頭でものを考えられる人間」だったら、「十分に自分の頭でものを考える」ことが自分ひとりで出来るなどとは思わないでしょう。宗教とはそもそも自分を超えた存在に人の眼を向けさせるものですから、もし本当に「自分でものを考えた」ことがあるなら、常に自分を超えたものを意識し、それに対する配慮を欠かさないはずです。確かに宗教には常識的に信じられない話も多いですが、そもそもこの世が存在し、自分が生きていることが奇跡なのですから、宗教そのものを「合理的で明晰な思想のなれの果て」というのはやや一面的ではないかと思います。

 このように書くと、私が著者である橋本さんにかなり批判的なようにも思われますが、必ずしもそうではありません。恐らくこの著者ほど宗教について多くを知っている人はそういないでしょう。また、より以上に今の日本の社会問題について的確な指摘をしています。例えば、宗教そのものについて著者は「生産を奨励する宗教」と「生産を奨励しない宗教」とを分けています。これは「民族全体の繁栄を目指す宗教」と「個人の救済を目指す宗教」とも言い変えることが出来るでしょうが、確かにこれは歴史的に見て宗教の重要な分類と見ることが出来るでしょう。また、オウム信徒の分析についてはマインドコントロールという言葉に頼らずに、その現実感を喪失した心理状況を的確に指摘していますし、その他にも今の日本の社会について「生産の空洞化」の問題など(208p以下)重要な指摘をしています。これらのコメントは宗教に対するものとしても、現代日本社会に対するものと鋭いものだと言えるでしょう。

 私は最初にこの本について「日本における宗教の矛盾をそのまま現わしている本」と書きましたが、それはこのような社会的な宗教現象に対するコメントが実に当を得たものである一方、それではどうすれば良いのかという点において、何ら踏みこんだ発言をしていないからです。橋本さんは「橋本教」が出来ることを恐れているので、読者を突き放すためにこのようなコメントを避けているのかも知れませんが、ただ「自分の頭でものを考える」ことを主張するだけで十分なのでしょうか。「考えること」は「行動すること」もしくは「生きること」と不可分に結びついています。

 宗教について言うならば、宗教がかつて果たしていた機能を私たちは必要としているのか否かにはっきり答えられない点がこの本の最大の弱点です。宗教は近代において十分機能しない、このことは確かでしょう。しかし、「自分の頭で考えよう」で済むのでしょうか。たとえ、自分が宗教をこわがらずに「自分の頭で考えて」生きていけたとしても、すべての人がそうなるわけではありません。少なくとも「自分の頭で考えることの出来ない」人々と共存しなくては私たちは生きていけません。少なくとも、今宗教が機能していないことが、そのまま今宗教が不要であることを意味しているのではないのは確かです。

 そもそも、著者である橋本さんが宗教を<おとなーこども>の軸でしか捉えていないではないでしょうか。しかし、本来、宗教は<人間ー人間を超えたもの>との軸で捉えられるべきものです。

 宗教は解体された。だからこそ人間は、今や信仰抜きでも“美しいもの”を作り出すことが出せる。“宗教”とは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された“生きていくことを考えるための方法”」なのである。だから、「まだ考えられないところは、“信じる”ということにしなさい」という“保留”がついている。宗教は、捨てられるものではなくして、人間達によって解体され再吸収されることを必要とする“子供のときの美しい記憶”なのである。そう思っているのは、仏教徒だけではない。実はキリスト教徒の方にだって、そういう考え方はある。「子供のときに神様を信じていた」は、どこにだってある事実なのだから。(265p)

 <人間ー人間を超えたもの>の関係が「こども→おとな」の関係によって時間軸によって変わっていくのは確かです。また、私自身、「宗教は、捨てられるものではなくして、人間達によって解体され再吸収されることを必要とする」とも思っています。しかし、この<人間ー人間を超えたもの>の関係そのものが時とともに否定されることはないでしょう。もしそのことから眼をそらし「宗教なんか怖くない!」と言い続けるだけならば、「宗教は人間の進歩と共に無用になる」と考えた傲慢な近代人と同じ道を歩むことになるでしょう。

  宗教の示す物語には、単に事実であるかどうかを超えた、物語としての真実が含まれています。それは、著者の記述を借りて言えば、「生きていくことを考えるための方法」を示すものであり、具体的に私たちに「○○しろ」と命じることはありませんが、現実の人生の中で何らかの壁にぶつかったときにそれを切り開くための力を与えてくれるものです。現代人に欠けているのはこの生きるための物語ではないでしょうか。正直、私がオウム信者の人たちに感じるのは単に「自分の頭で考えられない」ことよりも、何らかの宗教的物語から積極的に自らの生きる支えを読みとることの出来ない“弱さ”の方です。いずれにしても、この物語の問題にまで踏みこまなければ、宗教現象を論じることは出来ても、宗教そのものを論じることは出来ないと私は考えています。
 
 

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