必殺、読書人!!

 

184:仏教の講話



 

 「老・病・死の現場から」 田畑正久   法蔵館
 

 毎月「歎異抄に聞く会」でお世話になっている東国東広域国保総合病院の田畑正久先生の著書です。この本を読んでまず私は「修証義」の次の一節を思い起こしました。

  徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、
  悲しむべき形骸なり、
  設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、
  其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、
  百歳の佗生をも度取すべきなり、
                   (「修証義」第五章)

 最近では人がその人生の最期を病院で迎えることが多くなりました。私も両親をすでに亡くしましたが、二人とも最期は病院でした。この田畑先生の本によりますと、昭和25年の段階では約90%の人が自宅で亡くなっていたそうですが、平成6年にはその割合が二割を切ったそうです(23P 厚生省の調査に基づく)。それだけ人間の死というものが病院という医療機関のシステムの中に組み込まれてしまったといえるでしょうか。

 この本ではこのような現状を踏まえて、我々の日常から「死」という現実が遠ざけられ、隠蔽されていることが指摘されています。医療は「健康で長生き」をモットーとしますが、「死」について特に配慮をしてきたわけではありませんでした。それは医療の単なる終了に過ぎず、医療の立場からすれば、そこにいたるまでどれだけの時間を稼げるかが問われてきたわけです。しかし、その一方で、人がいかに死を迎えるべきか、逆にいえば、それまでいかに生きるべきかという生の問題が医療の現場では問われてきませんでした。著者はそのような現実に対して、医療の現場から生きることの「質」について問題提起をしています。「修証義」では「一日の行持」が単にその人の人生に意味があるだけではなく、他者にもその功徳が及ぶとされていますが、実際に医療は「恨むべき日月」を延長しているだけではないかというわけです。

 田畑先生はこのような状況にある人間を「ドーナッツ人間」と表現しています。つまり、肉体的な延命措置や痛みの除去によって人生の周辺を整えられたけれども肝心の人生そのものが抜け落ちた状況にあるというわけです。確かに入院患者の多くはこのような状況に陥ってしまうのは確かでしょう。肉体的には何とか生きていくことが出来ても、自ら積極的に行動する能力の多くを失っているからです。しかし、これは病気にかかった人に限ったことではありません。「設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも」という言葉にあるように、たとえ元気で楽しい生活を送っていたとしても、自らの人生の価値を外から与えられるものによって推し量り、自らの内に見出すことが出来なければ「悲しむべき形骸」、つまりは「ドーナッツ人間」のまま生きているということになるでしょう。医療の現場はある意味でその状況を極端な形で映し出しているのかも知れません。

 そのような現実に対して田畑先生は三浦梅園の次の歌を対置させます。

   人生恨むなかれ
   人知るなきを
   幽谷深山
   華自ずから紅なり

私は梅園の哲学をある程度研究してはいたのですが、歌人(詩人)としての梅園はほとんど知りません。ですから、この歌もはじめて目にしました。

 田畑先生はこの歌の「華自ずから紅なり」の文句にからドーナッツの真ん中の部分を見い出します。それは、ただ自ずから在ることを肯定する「私は私でよかった」という心境です。自らの外に価値の基準を置く人たちは決して満足にいたることはありません。上には上があるからです。しかし、自ら生きることそのものの中に価値を見い出している人は決して絶望に陥ることはありません。最近ではストーカー犯罪に典型的に見られるように、常に他人に何かを求め、それが満たされないために凶悪犯罪を起こすケースが増えています。このような傾向を見ると、社会そのものが自らの外に人生の価値基準をおくようになったのではないかという気がします。

 ところで、聖書にも次のような一節があります。

  なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
  野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
  働きもせず、紡ぎもしない。
  しかし、言っておく。
  栄華を極めたソロモンでさえ、
  この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
                               (マタイ6:28−29)

私は今までこの一節を神の摂理はあまねくすべてのものに及んでいると解していたのですが、「華自ずから紅なり」の句から、自らの外の事柄は「思い悩む」に及ばないという見方もあるのではないかと考えるようになりました。「私は私でよかった」と思えれば、もはや今のことを越えて悩む必要はないからです。田畑先生は「華自ずから紅なり」の句の後に、「今を充実できている人」と「感謝の出来る人」とを死を受容できる人として紹介していますが、上の聖書の文句にも通じるところがあるのではないかと思います。

 最後になりましたが、母の死をきっかけに、私も著者である田畑先生たちと共に緩和ケアの問題にかかわっています。医療、それも死をその視野に入れた医療は我々の人生を問い返す重みを持っているものです。私としてはこの本を通じてより多くの人に自らの人生を見つめなおすことが出来ればと思っています。
 
 

[読書人・目次]