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918:作品集



   「貧しい男」   松鷹憲太郎

 昔、ある経済の通俗書に「投機をやらない人は世捨て人だ」といったくだりがあったのを覚えています。バブル全盛期の頃の本なので、このようなフレーズも出てきたのでしょうが、その時、今の世の中で「世捨て人になる」ということが本当に出来るのかと思った記憶があります。現実問題として自ら進んで世捨て人になる人など今はいないでしょう。もしそのような人がいるとしたら、意に反して社会に溶け込めなかった人であり、常に純文学が表現してきた孤高の「貧しさ」を背負っている人だと思います。

 松鷹さんは、決して経済的に貧しい生活を送っているわけではありませんが、世にまみれることなく、ひたすら自らの生を探求し続けたという意味で、まさにそのような人ではないかと思います。しかし、その故に現在では見出せなくなった存在することそのものの、生きることの限界を言葉に出来る人ではないかと思います。多くの人は彼の書いたものを見て、まずその漢字の難しさに閉口するでしょう。一作目の「煩悶」にせよ、二作目の「貧しい男」にしてもそうです。一般の人たちに限らず、文芸の専門家でもその晦渋さには一種の拒否反応を起こすのではないでしょうか。しかし、芸術としての完成度もしくは普遍性はないにしても、ここにはぎりぎりで生きてきた一人の人間の現実が見て取れるように思えます。現代は社会性を重んじる時代です。肩書きで人を判断し、ブランドの名前で高価な品物を買うことを考えれば、いかに社会的なステイタスをもつことが世の中で大切であるかを理解できます。しかし、社会は所詮人が造ったものに過ぎません。私たちが生きて在ることそのものは、社会から一線を画した生の限界においてしか見出されないものです。

 松鷹さんの生きた現実はまさにその限界にあったともいえるでしょう。逆にいえば、孤高の「世捨て人」として社会の中にあってそれに積極的に参加できない立場にあったわけです。「世捨て人」を許そうとしない現代という社会は常に何らかの行為を求めてきます。「やればできる」とか「行動することが先決だ」というように、いつも人々に積極性を求めているわけです。しかし、松鷹さんはぎりぎりの生の中から観想することを自らのあり方と感じ取ったように思います。「観想」とは何かの行為を目的とせずして、ただ「観る」ことを目的として行うものですが、ある意味で、絶対値が限りなく零に近い行為とも言うことが出来るでしょう。積極性を重んじる現代にあって、この観想は常に否定的に捉えられてきました。私が専門とする哲学においても、観想は古代人の戯れとされ「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである。しかし肝要なのはそれを変えることである(フォイエルバッハ論)」とも言われてきたわけです。しかし、観想には行為そのもの、生きて在ることそのものを問い返す力をもっています。近代から現代にかけて賞賛されてきた積極的な行為、その行為が生み出した肥大化した社会のもたらしたものを考えれば、この問い返しのきっかけが求められているともいえるのではないでしょうか。

 何らかの行為をすることは他者と何らかのかかわりをもつことです。また、生きて在るということは呼吸や食事などの最低限の行為をすることを意味しています。そのことを考えれば、観想という行為においてはじめて社会とは一定の距離を保ちつつ、生きて在ることに本当に必要な最低限の現実を感じ取ることができたといえるでしょう。それは世俗からは乖離しているという点では超越的ですが、決して社会に無関心になっているわけではありません。世の中には現実社会そのものを否定し、来世のみを真実とする新興宗教もありますが、松鷹さんの立場は決してそのようなものではありません。その中から彼が見出したものが、現実を受け入れるという態度であり、ただ自らの足跡を難しい漢字に託して書き綴るということでした。何かの目的を志向し、積極的な行為を良しとする人たちにはこのような無意味ともいえる生き方を是認できないでしょう。しかし、それが彼に残された限界の生き方であることを思えば、そこには私たちが見失った足元の現実があるように思います。

 煩悶の末、松鷹さんが見出したのはこの足元にある永遠です。それは平凡の中に息づくいのちの営みと言っていいかもしれません。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである(新約聖書:ルカ6-20)」とあるように、ぎりぎりの生のうちで救いの可能性は見出されるものです。確かに松鷹さんが煩悶の末に悟りの境地を得たとは決して言えません。むしろ、彼の煩悶が癒されていないことは彼の綴る難解な漢字の端々ににじみ出ています。しかし、現代人が期待するほど人生が滑らかでないことを考えれば、その晦渋さの中に救いの可能性が秘められているのではないでしょうか。文学を専門としない私には彼の作品を批評することは出来ません。しかし、私はその中に貧しいというよりは無限の豊かさを生み得る、限りなく深い意味を汲み取ることも出来るのではないかと思います。
 

※ この「貧しい男」は一作目の「煩悶」とともに大分県在住の方でしたら晃星堂書店で手に入れることが出来ます。それ以外の方で購入希望の方がいらっしゃいましたら、私の方(iwata@oec-net.or.jp)までご一報ください。
 
 

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