必殺、読書人!!

 

C:古典的著作
 
 

ここでは古典的哲学書についてのコメントをしています
 
 
 

(凡例:〈岩波〉〈PHP〉etc.はそれぞれ「岩波文庫」「PHP文庫」etc.、〈中公・世界の名著〉etc.は「中央公論社/世界の名著」etc.)


[古  代]



 
 

  プラトン 「国家」  〈岩波〉

 この本を私が読んだのは大学の哲学科に入ったばかりの時で、正直に言うと、中に何が書かれていたのかほとんど思い出せません。ただ、「正義」という言葉をネタによくもまあこんなに長い話が出来たものだと感心した記憶があります。私の場合、確かにその内容から直接影響を受けているわけではありませんが、その対話の乗りにはかなり影響を受けました。以前からそうだったのですが、私は何かを考えるときに、まず手がかりになるキーワードを見つけ、それを徹底的に分析することを哲学的な思考のやり方としていました。プラトンの対話編は、その意味で、このよい見本で、言葉の考察を通じて世界を解明する訓練をさせてくれたと思います。

 この「国家」では「正義とは何か?」というのが根本的なテーマなのですが、この内容を検討するときに、過去の偉い人の言ったことではなく、個々の意見が現実に照らして検討されます。世間でよく耳にする「正義は力だ」などという考えが、正しいかどうかを実際にあらゆる場でシュミレーションしながら吟味して行くわけです。プラトンの対話編ではこの姿勢が一貫していて、「ティマイティオス」などでも、「真理とは何か」というテーマをネタに、この手の吟味が延々と続きます。一般に、哲学というと今では文献学が主になってしまいましたが、現実に照らしてみること、三浦梅園風にいえば「自然を師する」ところにその原点があります。

 ところで、プラトンといえば、イデア論が有名ですが、この思想もこの正義を基礎づけ、ひいては「正義」のあり方がが日常生活に根づくための込み入った舞台装置とでも言えるかもしれません。最近は怪しくなりましたが、「正義」の内容を自明のように考えている日本人には、「正義」を守るためにこのような大仰な理論を作ったことを理解できないかも知れません。けれども、当時、「人間は万物の尺度である」というような価値の相対論が幅を利かせていたことを考えればプラトンのこの「正義」を守る戦いもあながちオーバーだとは言えないでしょう。この状況は今の日本とも無縁ではありません。何せこの国では子供が「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われてまともに答えることが出来ない大人が多い国ですから。ちなみに、私は小学生の時まともにこの問いに取り組んで、「社会契約説」に思い至りました。つまり、人殺しを容認すれば「万人の万人にたいする戦い」になって夜ゆっくり寝られなくなるから、「人を殺すべきではない」と思ったわけです。今だったら、「命の大切さ」とか「人権」などの言葉を使って考えるかも知れませんが、これらの言葉もプラトン流に現実的にシュミレーションして考察できなければただの空文句になるでしょう。

 皮肉なことに、この「国家」ではスパルタ風の超社会主義的な思想が語られることになります。「婦人・子供の共有」などはその典型ですが、理想を追い続ければこのような極端な世界に至ることになるかも知れません。ま、そこまで言えるのが自由のよさなのですが、少なくとも哲学者としては常識を以て人の思考を制約して欲しくはないものです。
 
 

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