必殺、読書人!!


H:聖典・教典

ここでは各世界宗教の聖典・経典の類についてのコメントをしています
 

 (凡例:〈岩波〉〈PHP〉etc.はそれぞれ「岩波文庫」「PHP文庫」etc.、〈中公・世界の名著〉etc.は「中央公論社/世界の名著」etc.)





[仏教の経典]



 
 
 
 

「般若心経・金剛般若経」  〈岩波〉

 珍しく高校時代にまともに読んだ本の一つです。とはいっても、その読書体験はとてもまともなものとは言えませんでした。けれども、私の哲学の基本的な方向を決めてしまった本であることは確かです。

 発端は訳も分からず有り難がられているお経の中身は何なのかという好奇心でした。けれども、正直言って、中身を読んで驚き戸惑ってしまいました。というのも、その中身が「××ということは、××でないことである」という矛盾律の掟破りのオンパレードだったからです。たいていこのような非論理的な言い回しがされるときには、その論理の前提となっているものが揺らいでいる場合です。「××の前提の時はΑはΑだが、○○の前提の時はΑはΑでない」というようにです。そこで、「世は無常である」というのが仏教の教えであると知っていたので、無限の時間の長さから見れば、「ΑがΑである」ことは常のことではないと考えてみました。つまり、無限の感光時間を要するフィルムで写真を撮ったら何も写らないだろうと考えて見たわけです。更に、「ΑがΑである」ための絶対的前提はないのですから、「ΑがΑである」ためには相対的な形で他のものがその前提にならなくてはならない、つまり特定の他のものとの関わりで「ΑがΑである」ことが出来ると考えてみました。例えば、黒板に書かれた文字はチョークで書かれているので白い色をしていますが、それが文字として見れるのは黒い黒板のおかげではないかと考えてみたのです。すると、「実体はない」という般若の教えをうまく説明できます。

 これが大乗仏教の空の思想の基本をなす「相依」とか「縁起」と呼ばれる考えであることは後で知ったのですが、いずれにしても「在るものは在る」と素直に信じていた私には一大ショックでした。まさにこのことは東洋の英知であり、実体論に基づく西洋的な考えに優越しているのではないかとさえ思ったほどです。この大乗仏教の考えと西洋の実体論的な考えをいかに統一するかは、いまだに私の哲学の課題なのですが、このおかげで後に勉強することになる物理学における場の概念や言語学における形態素の概念が非常に理解しやすくなったのは確かです。確かある仏教学者の人がソシュールの言語学の考えを見て仏教的だなと書いたのを記憶しているのですが、逆に言語学やそれに影響された構造主義をやっている人たちがこの仏教の論理に無関心なのが不思議です。物理学では結構話題になっているのですが、何ででしょう? 

 また、そのほかにも難解と言われる三浦梅園の哲学が案外身近に感じられたのもこの原理を知っていたからだと思います。彼の哲学の根本は〈一即一一、一一即一〉という条理の図式に依っていますが、これは般若経を読んでいた私にはとても親しみやすい論理でした。実際のところ、梅園自身がどの程度仏教的な思想の影響を受けたかは定かではありません。しかし、彼が生涯暮らした国東の地で仏教文化の盛んであったこと、更には偏阿上人という旅の僧との関わりが彼の哲学にとって重要な意味を持ったことを考えれば、彼の哲学は仏教と無縁でなかったと思います。梅園は仏教に対して批判的な態度をとっていたようですが、案外、嫌いなものから影響を受けることはよくあるものです。

 それはともかく、この般若の論理は物理学やニーチェの哲学の影響を受けて私の中ではよりダイナミックなものとして捉え直されます。それが「医療と哲学」などにでてくる〈f(s)=m〉の図式ですが、この般若経が私の哲学思想の基盤となっているのは確かです。
 
 

「法華経」  〈岩波〉

 これも般若経と同じように人を驚かしてくれる経典です。何せ「法華経」の内容を一言でいえば「法華経を大切にせよ」なのですから・・。これを読んでいるはじめうちは、いつこの「法華経」の具体的内容がでてくるかと思っていました。ところが、最後までその中身がでてきません。キャベツの皮をむいていったら何も残らなかったという感じです。実に空の思想を地で行かれたのではないかと思いました。けれども、すでに般若経を読んでいたので、このこと程度で私は動じません。

 話は飛びますが「西遊記」の終わりに次のような話がでてきます。三蔵法師の一行はようやく苦労して天竺に赴きお経を持って帰路についたのですが、そのお経は白紙で何も書かれていなかったのです。そのことを哀れんだ天竺のお経の管理人がわざと嵐をおこしてお経をバラバラにしてしまいます。当然一行はバラバラになったお経を見てそれが白紙であることに気づき、血の気の多い悟空はお釈迦様のところに文句を言いに行きます。わざわざ命がけで天竺までお経を取りに来たのに白紙をよこすとは何事だ!というわけです。お釈迦様はあっけらかんと、人々が互いに助け合い善いことをするのが本当の経というものだと言ったうえで、どうも君たちの国ではそのことが理解されていないようだからと文字の書いてあるお経を一行に渡します。「西遊記」の話はこれで一件落着なのですが、どうもこのことは「法華経」のことを念頭に置いて書かれたのではないかという気がします。

 あちこち宗教の勉強をして分かったことなのですが、世界宗教と言われる伝統的な宗教では特に大それたことを私たちに要求しているわけではありません。福音書に沿って言えばそれは「自分やそのほかもののをを生かしてくれる神(もしくは自然)に感謝し、お互いに愛し合いなさい」ということにつきます。問題はどう言ったらその気になるかということです。世界中の聖典と呼ばれるものはそのための手段と言えるかも知れません。

 とはいうものの、「法華経」が全くのスカで何の宗教・哲学的な内容を伝えていないというわけではありません。「法華経」は巧みな比喩を用いて、仏の教えがいかなるものであるかを分かりやすく理解させてくれます。そのようにして語られるのは、我々には救われる可能性が平等に備わっており、いずれは救われるべき存在であること。そのために仏様は常に働いておられると言うことです。大乗仏教の伝わった国々の中でこの経ほど人々に希望を与えてきた経典はないでしょう。一説によると抑圧された仏教徒の中でこの経典は生まれたということですが、それだけに現実に人に勇気を与える力を持っています。日本の仏教の多くが最澄以来、この経典を重んじているのも故あることと言えます。

 また、この経典は他の世界宗教の聖典と比べるとかなり興味ある特徴が見えてきます。これはキリスト教の福音書と読み比べてみると分かるのですが、両者とも喩えによって教えを説き、更にその喩えで救いの働きのような普遍的なものを具体的なものに託して説明しています。「法華経」ではお釈迦様は死んでも、それは姿が見えなくなっただけで、本当はいまだに説法を続けていると説かれるのですが、これは仏が具体的なブッダという歴史的実在を越えて、抽象的な法として捉えられる仏の法身思想に基づいています。これはイエスを個人としてではなく普遍的ロゴスと捉えるヨハネの福音書の立場に近いものを感じさせます。イエスの時代と「法華経」成立の時代とは大体同じなので、案外、同じような思想的背景があったのかも知れません。ちなみに、喩えについて言えば、「法華経」の方が福音書よりも整っていますが、やや出来過ぎの感もあります。なお、「法華経」の喩えについてはレグルス文庫から「法華経七つの喩譬」という分かりやすい本が出ています。
 
 

「歎異抄」 〈岩波〉〈角川〉〈朝日〉ほか

 読んでいて、なぜかほっとする本です。どうも現代人の生活は「私」「私」とうるさくて、あらゆる責任や仕事が個人そのものに覆い被さってきます。あんまり考え込みすぎると、世の中の悪いのは全部私の責任じゃないかとまで思い悩んでしまいます。「歎異抄」という本はそのような「私」が自然の流れの中の意識の結節点(Ghost in the cell 風に言えば)にすぎず、それ故に私の過ちも赦されるのではないかという気持ちになります。

 実は、以前からなぜ浄土系の仏教は仏教の中に留まっていられるのか疑問でした。いっそのこと阿弥陀様を信仰する一神教になればすっきりするのではないかとさえ思っていました。この疑問が解けたのは、「仏教聖典」(東京大學佛教青年會編集)の「印度の部」を読んでからです。つまり初期の仏典を読んで気づいたのですが、仏教というのは自然的対象については「無常」や「縁起」の概念を通じてその実体性を否定する一方、それは個々の人間が「実体として在る」ことを否定するためのものであったということです。これは「無我」と呼ばれますが、この無我を理解することによって自己にまつわる過剰な意識を制御できるのであり、これが仏教の宗教としての眼目であったと言えるでしょう。

 原始仏教の場合、その「無我」の境地に至るために特に神様を持ち出したりはしません。正しい修行をしていれば、道理に従ってそれなりの救いが得られるのです。同じ日本の仏教でも、禅宗は正当にこの伝統を受け継いでいるように思います。しかし、現実社会に生きる人間にとってこの修行による「無我」の到達、その道理の実現には障害があります。第一、世の中にまみれた人間にとってその道理そのものが見えにくく、たとえ見えたとしても信頼することが出来なくなっているように思います。つまり、頭で道理を理解できても身体で感じることが出来にくくなっているわけです。

 浄土教ではこの道理を「弥陀の本願」という形で私たちに提示します。法蔵菩薩という偉い菩薩様が最低の人間でも私の名前を唱えるものを救いたい、この願いがかなわなければ仏様にはならないと誓いをたてついに仏になります。仏になった以上、この誓いは有効なのだから、我々も念仏すれば弥陀の本願に乗じて救われるというのが浄土教の神話の筋書きです。ここで注目すべきは、阿弥陀様が本来は法蔵菩薩、つまり自然の道理であったことです。私たちがもし救われることがあっても、それは私たちだけの努力で成就するのではなく、物事の道理に従った結果にすぎないと言うわけです。

 これは「努力」と「根性」に汚染された現代人には理解しがたいことかも知れません。一般に、現代の日本社会では「努力」と「根性」の単なる報酬として救いや悟りの境地が見られがちです。けれども、実はそうではなく、私たちが自分自身の中にあり、また自然の世界にも通じる道理に従って生き努力するからこそそのような境地がえられるのであり、決して自我の行為の報酬としてそれがあるわけではないのです。

 こう考えてみると、浄土教がデフォルメされた形であっても、本来の仏教の趣旨に沿っていることが窺えます。また、もともとは神を持たない仏教が救いという現実の場においてキリスト教やイスラム教などの一神教に通じるものであることも暗示しています。私は「歎異抄」の第6章にでてくる「自然のことはり」に人を超えた救いの力が見て取れるように思います。

 ところで、私はこの本の第1章から第10章までよくドイツ語で読んでおりました。あまりドイツ語の勉強にはなりませんでしたが、永田文昌堂というところからドイツ語、フランス語、エスペラント語の訳がでています。英訳は HONGANJI INTERNATIONAL CENTER から、中国語訳は中国の文津出版社から出ているようです。一般に、外国では日本仏教というと禅と相場が決まっているようですが、国際的にも日本の浄土教にもっと眼を向けて欲しいものです。そうすれば禅もよりよく理解できると思います。
 
 



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