日本語教育に関する本


 このコーナーは以前 [必殺読書人] の中で紹介されていた日本語教育関係の本の紹介を独立させて [ことばのこと] のコーナーのひとつとして展示し直したものです。日本語教育以外の語学教育一般にも参考になるのではないかと思います。




  「日本語の秘密」  岸本建夫
 

 テキサスの Jarvis Christian College で日本語を教えていた時に最も参考にした本です。日本人が日本語を教える際に問題になるのは、自分たちが無意識にのうちに日本語を習得してしまったため、日本語を全く知らない人の立場に立って何を中心に教えたらいいのか分からなくなることです。言い換えれば、何を教えないかをわきまえていないといけないわけですが、この本は日本語を外国語として学ぶ人たちにとって何が本当に重要なのかを的確に指摘してくれています。

 この著者の立場は「日本語は取得しやすい、やさしい言語である」という立場を一貫して保っています。多くの日本人は日本語が難しい言語であると思っているようですが、決してそうではありません。私自身、英語やドイツ語を学び、ギリシャ語やラテン語をかじった経験からして、日本語は学びやすい言語だと考えています。名詞が活用することもありませんし、動詞の変化も限られています。また、発音については、この本にも指摘されているように、「ひらがな/かたかな」でそのまま表記できますし、その発音を示す五十音表は動詞の変化を理解する上でも極めて便利な規則性を明らかにしてくれます。

 恐らく日本人の多くが日本語を難しいと感じている理由は漢字による表記と敬語の使い方にあると思うのですが、これらは言語において本質的なものではありません。いわば、名詞や動詞の変化がその言語の基盤にあるOSだとするならば、これらはアプリケーションにあたるものだと思います。ですから、これらの習得は実際に言語を使うことを通してなされるべきであって、機械的に暗記することによって身につくものではないと言えるでしょう。この「日本語の秘密」では、まず「です/ます」形の習得すれば日本語を話すことが出来ると主張しています。実際に、その通りで、私は Jarvis では時間の関係もあって「です/ます」形でしか動詞を教えませんでした。「食べる」などの普通の動詞の形は日本語教育では辞書形と呼ばれるのですが、これは「・・・・・と○○は言った」という文の「・・・・・」の部分で使われる形として導入するのが自然だと私は考えています。つまり、文法的には接続法として導入するわけですが、この場合にも「です/ます」形がすでに定着していることが前提となります。私が Jarivis で教えたのは初級でしたが、とにかく実際に日本語が使えるのだという実感を持ってもらうことが大切でしたので、「です/ます」形で使える日本語の練習をしました。幸運にも、日本に行く機会のある生徒がいたので、「たべます」「のみます」を中心にした表現を教えたのですが、いろんな場面を想定することによって日本語の可能性を体験してもらえたと思っています。

 また、Jarvis では日本語の助詞の感覚を理解してもらうのに苦労したのですが、これについてもこの本は有益な示唆を与えてくれました。よく問題になる「は」と「が」との違いについても、この本では一般的に「は」を使うときには動詞のある述語の部分に重点が置かれ、「が」が使われるときには主語の部分に重点が置かれていると指摘しています(37p)。確かにこれは大まかな基準に過ぎないのですが、初めて日本語に接する生徒にとっては大切なものだと思います。例えば、「A、B、Cの誰が言ったの?」と尋ねる時、問いも答えも「が」を使います。答える時に「Aは言った」とは言いません。これは「が」が「言った」主語である「A」を強調するものだと考えれば理解されるでしょう。現実の「は」や「が」の違いは、実際に表現を提示しながら習得するしかないのですが、最初に大まかな基準があるのはとても有用なことだと思います。

 岸本さんの立場はこのように「日本語はやさしい」とするものですが、それは実際の日本語教育においては日本語の習得は無駄なく簡単なものでなくてはならないという形で現れてきます。日本語教育以外の教育の現場でもそうなのですが、単に複雑な内容を丸暗記させて学習させたと思っている教育者が結構いるようです。そういう人たちは単に難しい学習内容に生徒を強制的につなぎ止めておくのが先生の仕事と考えているようにさえ思えます。しかし、現実には教育すべき内容が不当に難しくされている場合もありますし、また教える側がその内容の面白さを理解していないが故に、生徒に無用の感情的抵抗を引き起こしていることも多々あるようです。私は最近ある高校生から、機械的に英単語を暗記させられているという話を聞いたのですが、単語を文脈から切り離して丸暗記することほど疲れることはありません。外国語の習得は実際にその言語を使うことを通してなされるべきであるのであって、たとえ単語を暗記するにしても、ある程度その言語に慣れた状態にならないと単語を覚える意味がありません。実際に丸暗記で単語を覚えても、リスニングではほとんど使いものにならないでしょう。「日本語の秘密」では「教科書の動詞の活用表は無視しろ(88p)とか「漢和辞典で調べるのは時間の無駄(115p)という主張がなされていますが、まさにその通りだと思います。まず語学の学習に必要なことは、実際にその言語を通して人間とコミュニケーションが取れるという実感です。確かに初学者には多くの間違いがありますが、まず通じることを体験した上で、少しずつ細部を固めていくのが語学学習の基本と言えるでしょう。日本語教師は、その意味で、実際の言語使用を通してより細かい言語表現が出来るように導くのもその重要な仕事です。それは、日本語教師がその場に合わせて日本語の微妙なニュアンスを説明するためには日々の研鑽が書かせない所以でもあります。

 この他にも「日本語の秘密」には日本語を教える上で実践的な示唆を多く持っているのですが、著者である岸本さんが金融関係の仕事をされていたこともあって、文化をも含めた幅広い視点がこの本の中に見出されます。その内容にはやや常識的な偏見も含まれていますが、より広いコミュニケーションを求める立場は一貫しています。著者はよく言われる英語は明晰、日本語は曖昧という考えに立っていますが、それぞれの特徴をそれぞれの個性として受け止める立場を取っています。この本にも指摘されているのですが、世界的なコミュニケーションの広がりによって相互に影響しあい、歩み寄りながら互いの良いところを行かすべきと言えるでしょう。この本は単に日本語教育/習得のためだけではない多くの示唆を日本語教育の実践の現場から教えてくれています。
 

P.S. この「日本語の秘密」は「ひらがなタイムズ」を出しているヤック企画から「ひらタイブックス」の一つとして出されています。「ひらタイブックス」も「ひらがなタイムズ」同様、英語/日本語併記で日本語には漢字にルビがついているのですが、語学学習にはかなり良い教材だと思います。「日本語の秘密」でも日本人にとっても日本語の学習にはルビが必要だと主張されていますが、未だにコンピューターの漢字交じりの日本語テキスト文章をルビつき、もしくはふりがなつきの文章に直すソフトがないようです。ワープロソフトの逆をつくれば簡単だと思うのですが、このようなソフトが見あたらないこと自体、日本人が外国人とのコミュニケーションに対して無関心であること、しいては自分たちの言葉である日本語に対して無関心であることを痛感させられます。このようなソフトがあれば、日本にいる留学生の方たちも、無理をせず自然と漢字を読めるようになるのではないでしょうか。
 
 
 

「日本語にチャレンジ」 ウィリアム・ウッド  朝日新聞出版サ−ビス
 

 外国語を勉強する具体的動機はいろいろあると思いますが、その根本にはコミュニケ−ションの要求があり、それは実は「愛」であることが良くわかる本です。これがないならば、外国語を解することはできても、その「ことば」を本当の意味で自分のものとはできないでしょう。

 この本の著者であるウィリアムさんはアメリカ生まれの牧師さんです。いまでこそ日本語が堪能ですが、決してはじめからそうだったわけではありません。ごく普通の外国人として初めは日本語にとても苦労していたようです。日本語は文法や発音の面では学習しやすい言語なのですが、実際にそれを使えるようになることは容易ではありません。この本でも多くの失敗談が綴られています。例えば、発音ですが、日本語では母音の数が少なく発音を覚えやすい一方、それを間違うと異なった意味に解されることがよくあります。この本には「切ってないパン」が「汚いパン」になったり、「押し入れが臭い」が「お尻が臭い」になったり笑うに笑えない話が出てきます。日本語教育能力検定試験でも「聴解試験」といって発音の微妙な差を聞き分ける試験がありますが、日本語学習者が日常生活で不自由しないようにその発音の誤りをあらかじめチェックしておくことはとても重要なことです。たとえ意味が通じても、それが身についてしまって、いわば「化石化」してしまうこともあります。その上、日本語では敬語表現が極度に発達しているので大変です。たとえ意味が通じても、言葉の使い方を誤れば相手の気分を害すことにもなりかねません。これはこの本の例ではないのですが、あのオスマン・サンコンさんがとてもお世話になった人に「大きなお世話になりました」と言ってしまったことがあるそうです。このように、この手の失敗談には限りがありません。

 敬語や婉曲の表現などはなかなか教科書だけでは身につきません。実際に日本の社会に住んでみないと使えないものですが、これは外国人だけの問題ではありません。日本人の間でもどの程度の敬語を使うかは悩ましい問題で、著者のウィリアムさんが指摘しているように、時として人の間に壁を作ってしまうこともあります。これは一般に日本語が「高コンテキスト言語」と呼ばれる理由なのですが、あまりに状況に依存して言葉の形が変わるので、外国人ならずともコミュニケ−ションにおいて神経を使うことになります。

 どの外国語にしてもそうでしょうが、このような日本語にあっては特に学習者が実際に生活の場で積極的にそれを使ってみる勇気が必要とされます。けれども、それだけでは不十分で、その人の周りの人々が広い心でその人を受け入れる心構えが必要です。一般に日本人は外国人に対して親切ですが、必ずしも彼らに対して寛容と言うわけではありません。多くの人は外国人は自分たちとは異質だと思っているので、丁寧に遠ざける、つまりは敬遠することがよくあります。人間には大ざっぱにいって、2種類のタイプがあって異質なものを積極的に受け入れ、自らのコミュニケ−ションの世界を広げようとする人々と、異質なものを遠ざけ、自分たちの閉じたコミュニケ−ションの世界を守ろうとする人々がいます。後のタイプの人々は特に強いられない限り、外国語をやろうとは考えないでしょう。

 キリスト教の言う「愛」とは異質でありながらも、コミュニケ−ションを通してひとつであり続けようとする世界の営みだと思います。それは部分のレベルでは「多」であっても全体として「一」であり続ける世界の根本的なあり方と言えます。

たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。[ヨハネ:15-4]

これは福音書のイエスの言葉ですから、「わたし」とはイエス自身のことです。しかし、ここでのイエスは単なる個人ではなく、人々の狭い世界を超えた世界そのものへの導きの門のように思えます。もしその門を無視し続け、自らの殻に閉じこもるならば、たとえしばらくは生き長らえたとしても、その人の人生の意義はその人の死と共に終わることになるでしょう。その意味で、日本語にせよ外国語にせよ「ことば」は人とより広い世界とをつなぐ大切な絆とも言えるのです。

 実際に、このことは外国語を学びそれを使って見るとよく分かりますが、この本にも次のように書かれています。

どうやら、コミュニケ−ションをする時、心がとても重要な問題になるようです。つまり、心に何があるか、です。高慢な思いがあったりすると、たとえ、どんなに言葉が流暢でも、相手には何も真実が伝わらず空虚なものになるでしょう。しかし、逆に、感謝の心を持ち、また話そうとする気持ちと共に相手から学ぼうとする謙虚な心を持っているなら、たとえ、多少の文法上の間違いがあったとしても、素晴らしいコミュニケ−ションができるでしょう。(「日本語にチャレンジ」66p )

これは実際に私も経験したところであり、私自身が日本語教育に関心を持った理由でもあります。「愛」を知る人は決して「ことば」に無関心であるわけにはいかないのであり、人々が苦労しながらも外国語を学ぶ本当の理由もここにあるのです。
 
 
 
 

「日本語は国際語になりうるか」 鈴木孝夫 講談社学術文庫
 

 題名の通り、この本の内容は日本語は国際語になりうるか、またなるべきか、なるとすればどのようなことを考えなくてはならないかということを教えてくれる本です。結論からいいますと、日本語は国際語になりうるし、軍事力によって国際的な日本の地位を安定させることができない以上、それはやらなくてはならないというのが著者の主張です。

 普通、日本人は日本語そのものにある種のあきらめを持っています。日本語は難しいし、表現も曖昧で英語などに比べて分かりにくいと思われていることが多いようです。この本ではそのような世間の迷信を否定し、その上で日本語がどうあらねばならないかを論じてくれる数少ないありがたい本です。

 この本を読んで意外だったのは、アルファベットを使う国々においても機能的非識字者(文盲と呼ばれてますけど)が意外に多いこと、そして英語圏にいて専門用語を理解できる人が少ないということです。たとえ、アルファベットが漢字に比べて簡単であっても、読む訓練をしなくては文章を読めないことをこの本を読んであらためて気づきました。ラテンアメリカでは機能的非識字の人がたくさんいるのですがその理由がこれだったのですね。それから、専門用語のことですけど、英語の場合、専門用語の多くがラテン語やギリシャ語からの借用語のために、一般の人はその言葉を見ても意味が分からないそうです。鈴木さんの主張によると、日本語は漢字の訓読みのおかげで難しい専門用語でも意味が類推できるので漢字は便利だというわけです。

 ただ、漢字についていえば、私は漢字教育を廃止すべきではないが、新しいローマ字表記も検討すべきだという立場に立ちます。鈴木さん主張の通り漢字によって日常語と専門用語とが繋がれているのは確かですが、一方、多くの日本語を勉強している外国の方々が英語で読み書きできても、日本語で読み書きできない現実があります。もちろんその理由は漢字だけではないですが、「行方不明」などの語を考えればそれが大きな理由での一つであるのは確かでしょう。日本語のローマ字表記に問題があるとすれば、次の2点になります。まず、母音もしくは母音もしくは子音とがセットになってできている日本語の拍のリズムが表現できないという問題があります。このため、日本国内の日本語教育ではローマ字は補助的にしか使われていません。しかし、これは国内では漢字仮名交じり文が標準であり、実際に必要があるからひらがなから入ることもあるのでこれは決定的なネックではありません。問題は、むしろローマ字表記では同音異義語の区別が付かなくなる点でしょう。日本語は母音・子音ともにレパートリーが少ないのでどうしてもこうなるのです。例えば、「コウセイ」と発音される語には、「攻勢」,「構成」,「校正」,「後世」,「恒星」,「厚生」,「公正」,「更正」、「後生」などのたくさんの同音異義語が対応します。これについては、「k」や「c」などのアルファベットをもとの漢字に対応する形で使い分けたり、アクセント記号やウムラウトなどの補助記号を使うことでで区別したりできないものかと考えています。実際は、漢字の学習はさほど外国人にとっても難しいわけではないのですが、複雑な漢字を表記しなくてはならないこともあるので、やはり工夫が必要だと思います。正直に言うと、手で直接漢字を書かない今の日本人が本当に漢字文化を維持できるのかという問題もあります。

 話はだいぶんそれましたが、これからの日本人はタイの人と中国の人とが日本語でコミュニケーションするような場面を想定しなくてはならなくなるでしょう。日本語は発音や文法の面では比較的簡単ですので、将来の国際語の有力な候補だと思います。ただ、国際語としての日本語が敬語の使用の仕方などを含めてどのようなものになっているかは分かりませんけれども・・。
 
 

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