法学についてのなぜ!?

 
 

なぜ法学の中に法言語学や法論理学が存在しないのか?
 

 法学という学問は言葉を通じて現実の社会を操作していこうとする学問です。にもかかわらず、法学の中に法言語学とか法論理学という学問分野がないのでしょうか? あるのかも知れませんが、元公務員の私は寡聞にしてそれを知りません。もしそのような学問があれば、おそらく哲学の世界にもそれなりの影響を及ぼしているのではないかと思いいます。何せ哲学では言語や論理は大きなテ−マですから。

 普通、理科系の学問では数学があらゆる学問の基本となります。物理学、化学、生物学など自然科学においてはその階層に従っていくつかの分野がありますが、いずれも数学の成果をそのツ−ルとしています。これらの科学が近代において飛躍的な発展を遂げたのは一定の方法論に基づいてこのツ−ルをうまく使いこなしているからだと言えるでしょう。このことの発端にはデカルトの方法論的自覚があります。

 哲学をやっていると「哲学は何の役に立つのか?」とよく聞かれます。けれども、法学をやっている人達に「法学が何の役に立つのか?」と問いかける人はいません。ですから、「なぜ法学が役に立つのか?」などと法学部の人間が自分自身に問いかけることもないのでしょう。それが法学の基礎をなしている「言語」や「論理」に対する無関心につながっているのかも知れません。かつて経済学は自然科学に憧れて、やたらと数式で武装しようとした時代がありましたが、法学にはその必要すらなかったようです。けれども、オートポエイシスの思想を紹介した「知恵の樹」という本の案内文にこの思想が「社会や法律、現代思想に大きな影響を与えた」とありますから、法学の分野でもある程度哲学的に自らを反省しようという人々がいるのかも知れません。

 私が法学と哲学の関係を意識したのは公務員をやっていたからでもありますが、イスラ−ム世界は法学者が同時に哲学者でもあり、法学の探究を通じて論理や言語の問題を扱っていることを知ったからです。考えてみれば、これはあたり前のことで、法学が人の生活に直接結びついている分だけ、その根底にあるものに関心が向けられるのは自然なことだとも言えるでしょう。現代における法学の自分自身にたいする無関心はやはり異常ではないでしょうか。
 
 

なぜ法学の中に行政工学なる分野が存在しないのか?
 

 公務員をやっていると法律のややこしさには参ってしまいます。私以外の人達はそうでもなかったようですが、一般人にとって法律は依然面倒なものです。けれども、不思議にこの法律のややこしさを計る基準がありません。私は以前、論理学の真理表の原理を用いて法律の適用にあたって真偽を判定しなくてはならない条件をいくつ含んでいるかでそのややこしさを計れるのではないかと考えたことがあります。けれども、こんな簡単な発想でさえ法学の分野では存在しないようです。

 行政改革が叫ばれてすでに久しいですが、これが思いどおりに進まないのもこの行政工学の不在が原因となっているように思います。もしこれがあれば、規制の多さとその効果との比較ができ、即座に改革がどこにどれだけ必要かが客観的に明らかにできたでしょう。少なくとも、全国の地方公務員を苦しめている「地方振興券」なるものは登場しなかったと思います。不思議なことに、中央のエリ−ト公務員の人達は規制の操作には長けているようですが、規制そのものを原理的に云々することはできないようです。

 工学とはインプット(原因)とアウトプット(結果)との関係を定式化し数量的に関係づけることによって対象を操作しようとする学問です。法学はもっとドロドロとした人間を扱うのでこのような工学的な発想になじまないと思われがちです。けれども、行政に関して言えば、工学と同じ状況が存在します。コンピュ−タ−は現代、最も工学的な存在ですが、このコンピュ−タ−も行政も人の書いたプログラム、すなわち規則によって対象を操作することに違いはありません。確かに実際の法律の運用は人による解釈や裁量の余地があるので、コンピュ−タ−のように機械的に判断を下すわけには行きませんが、少なくとも法律の整合性と複雑さは工学と同じように客観的に評価することができます。これによって行政に何ができるかできないかがはっきりするきっかけになるでしょう。それが最も大切なことです。

 行政によって統治される社会も工学によって操作される社会も原理的には同じです。にもかかわらず、法学においてはこの〈操作するもの〉と〈操作されるもの〉との関係が意識されてきませんでした。これは行政を過度に複雑化し肥大化させる一方、それによって運用された人間社会の暴走を招いたように思われます。
 
 

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