世間についてのなぜ!?



 

なぜ「創価学会」は「学会」で「幸福の科学」は「科学」なのか?

 オウム事件にもかかわらず、世間では新宗教、新々宗教が盛んなようですが、これらの宗教はどうも今までの既成宗教とは少し毛色が違うようです。その理由のひとつはこれらの宗教の多くが自説の正当性を理性によって立証できるかのように主張していることです。

 この意味で気になるのが「創価学会」と「幸福の科学」の名称です。もし人の望むものが学問や科学によって立証できるなら、それは新しい科学技術に属するもので、今さら信仰するまでもない、信用すれば済むものです。多くの人は人生や健康の悩みがきっかけでこれらの宗教に入っているようですが、もしその解決だけが宗教の目的だったならば、その役割は病院や薬局の薬と何ら変わるところがないでしょう。それはお金や努力によって得ることの出来るものになるからです。オウムの場合、それらは修行に応じて与えられるものとされているようです。しかし、そうだと宗教的な救いは努力の代償ということになります。

 しかし、本来の宗教はそれを超えたレベルを含んでいます。もちろん、修行などの人間の努力と信仰が無関係というわけでもないのですが、これらは二次的なことに過ぎません。というのも、宗教は悩みを持ち、人の道を求めて努力する人生の意義そのものを明らかにするからです。あるカソリックの神父さんが「神様は取引をしない」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。私も長いこと哲学をやっていますが、学問によって宗教的な目的がかなえられると考えたことは一度もありません。学問は人が生きるためのある程度の指針を用意できても、実際に歩むのは個々の人間であり、その支えとなるのが、その歩みを意義づける信仰だからです。

 ここでは「創価学会」と「幸福の科学」を取り上げましたが、新興宗教に入っている人たちは人間の知的能力と信仰とのかかわり、更には自己の努力と救いとの関係をどのように捉えているのでしょうか。
 
 

なぜ自民党は戦後ほとんどの期間与党であったのか?

 政治の貧困が叫ばれて久しいのですが、今のところ自民党が野党に転落する見込みはいまだにありません。競争がないと腐敗が進行するのは世の常ですが、どうもこの国では政権交代が政治のために必要な過程とはみなされていないようです。。確かに東西冷戦終結のあおりを食って自民党が一時、政権から退いたことがありますが、その時も自民党から分かれた新進党が政権の中心を握っていました。

 冷戦時代ならばともかく、これはどう考えても異常なことです。普通のこのこと人に聞けば、自民党しか政権能力がないからだと答えるでしょう。しかし、今となっては日本の政治を動かしてきたのが官僚だったのは明らかです。野党は外交や防衛の問題において安保条約を認めていないからだという人もいるかもしれませんが、自民党も国民がいまだに容認していない憲法改正を綱領に掲げているのですから正当な理由にはなりません。事実、社会党から首相になった村山さんも現状を重んじて自衛隊を認め、更には沖縄の基地存続を容認しました。少なくとも冷戦が終わった今、現状の外交・防衛の枠組みを崩すのは共産党でも無理でしょう。

 その一方で、多くの人々はいつもどこの政党が政権を握っても世の中変わらないと言ってきました。しかし、本当にそうなら共産党が政権を握っても大して世の中は変わらないでしょう。少なくとも自民党以外の政権ができても安心なはずです。

 これらのことから言えるのは、今まで国民が自分たちの政治に対してあまりに無責任だったということです。裸の王様というべきでしょうか。しかし、今まで惰性で自民党を支持してきた世代が年金をもらうようになるとそうは行かないでしょう。もし若い世代から「あなたたちの世代が惰性で自民党に投票しつづけたおかげで政治に競争原理が働かなくなり、国庫は窮してしまいました。責任をとって年金をカットすべきではないでしょうか?」と問われたならどうでしょう。平和ボケだと日本を嘆く自民党支持者は多いようですが、歴史に対する自分たちの責任を感じている保守層は少ないようです。
 
 

 日本共産党の人たちは自分たちの票が伸びないことに何でもっと真剣に悩まないのか?
 

 これもかなり前から感じていた疑問です。宣伝カーであれ機関紙であれ日本共産党ほど自己をPRし続けた政党はないでしょう。実際に話をしてみても、彼らはよく勉強していて、その多くは現実に世の中を動かしている法律にも通じています。諫早湾の問題のときも、民主党の人はわけもわからずに担当者に食い下がっていましたが、横にいた共産党の人は行政がどういう指示系統で動いてきたかを知っていたので、むしろ彼をフォローしていたような記憶があります。恐らく官僚が真に恐れているのはこの政党であり、またそれなりの敬意さえ持っているのではないかと思います。少なくとも現実の政治が法律というプログラムとそれを運用する官僚制によって運営されてきたことを最もよく知っているのがこの政党です。

 にもかかわらず、この党の自己宣伝はあまりにもワンパターンでした。そう感じるのは、何の確認もなく「革新=善」であることを前提に自己宣伝をしているからです。革新が善であることは自明の理ではありません。票はそれを人々に納得してもらうことによってはじめて得られるのです。いずれにしても、自明であれば票は自然に日本共産党に流れてきたでしょう。

 共産党が政権に近づけない理由は外交・防衛の問題にあるのでしょうが、これについても日本共産党は本音で論議をしてきませんでした。本音で論議をすれば、日米安保条約を破棄することがどれだけのコストがかかるかを正確にはじき出し、それを破棄することが得だと国民に説得しなくてはなりません。しかし、この党はむしろ道徳的な立場からそれを論じてきました。確かに理想からすれば全面講和を前提とし、安保条約を破棄することが善なのでしょうけれど、経済的軍事的にどれだけ大変なことかは国民にとっては自明の理でした。政策は善悪ではなく国民の福利が先立つものです。

 もし私が共産党の立場だったらこう主張したでしょう。本来ならば、安保条約は破棄されるべきである。しかし、日本の立場を考えればそれは今は不可能なのもまた真である。日本が島国の中で多くの人口を抱えている以上、表ではどう言おうとも、アメリカと対等な立場に立てるとは思わない。しかし、最低限の自己主張はそれなりにさせてもらう。こう言えば、政治に無関心な一般国民も共産党の言い分に少しは耳を傾けざるを得ないでしょう。そのうえで、アメリカに対しては、その民主主義の伝統を評価しつつ(半ば誉め殺しで)、筋を通して行くしかないのです。You are democratic partner. I understand you need to put your miritary base in Japan to guard democracy. But, therefore, I demand you to obey democratic rule, especially in the case of American solider's crime in Japan. という風にです。

 何故このようなことが言うかというと、アメリカ人の性格と日本共産党の性格は結構近いものがあるからです。共に理念を重んじ、筋を通す性格、更には日本的な「裏でこそこそ(パトレイバー2の南雲さんのセリフ)」を嫌う点などはよく似ています。以前話題になったヴォルフレンさんの「日本権力構造の謎」を読むと分かるのですが、そこでは共産党関係の本が結構参考にされています(ヴォルフレンさん自身はオランダ人ですけど)。

 にもかかわらず、共産党が世間の信頼をいまだ得ていないのは、彼らの現実感覚が新興宗教と同様、世間からずれていると見られているからでしょう。ただ、これについて言えば、共産党以外の人が共産党の人とまともに論争しなかったことがより大きな原因だったと思います。つまり、彼らに現実主義の立場から「なぜ」を素直にぶつける人がいなかったことによります。実はここにも共産党の人たちが自分たちの票が伸びないことを真剣に悩むべき理由があります。

 私は政策にはあまり詳しくないのですが、他に日本共産党の考えについて2点疑問がありますので、ついでに提示しておきます。

 ひとつはイデオロギーに関することですが、共産党は「科学的」という言葉をどのような意味で使っているのでしょうか? 「科学的」というためには何らかの形で検証可能なことを前提としています。その検証の基準とは何でしょう。これは政策の良し悪しを計る基準ともなってきます。多くの共産党の人たちは自分たちの票の伸び悩みを反共宣伝のせいにしているかもしれませんが、世間の人たちはそんなに共産党を意識して生きているわけではありません。たくさんの阻害要因によって自己の正当性を維持できるなら、占い師と変わるところがないでしょう。

 次には、民主集中制の問題です。市場経済が社会的経済活動の前提となっている今日、この民主集中制は何を集中させるべきだと主張しているのでしょうか? 非常時以外の権力の集中が危険であるのはもはや明らかなことですし、経済活動においてもインフラを集中させ大量生産をする時代はもはや過ぎ去りました。政治にしても経済にしても、集中する余地を残しながらも分散させるのが良いシステムという認識が出来つつあります。このような中で共産党のこの主張には何か意味があるのでしょうか? 私は資本論を読みましたが、本質的にマルクスの主張は市場経済と矛盾するものとは思いませんでした。市場の無秩序は否定されるにしても、社会主義社会が国家による管理社会であるべきだとは主張されていないのですから。

 というわけですが、共産党の将来は次のような本音を持つ国民の支持が得られるかどうかにかかっていると思います。

 貧乏人が麦を食うことがあっても、人民を飢え死にさせてはならない。

 強国との力関係には一時的に服さなくてはならないが、忍耐を以って筋を通す努力を怠るべきではない。
 
 

 日本人はなぜ残業を社会悪と見なさないのか?

 最近の不景気にも関わらず、日本の企業・会社での残業はあまり減っていないのではないかと思います。確かに「時短」の名の下にかつてのような無制約の残業はなくなってきているかもしれませんが、この不景気でむしろ実質的な労働量は増えているのではないかと思います。私が不思議に思うのは、日本人の多くが意にそわない残業を受け入れつづけているということです。確かに個人は会社などの企業に比べて力の弱いところがありますが、このことは別に日本に限ったことではありません。発展途上国ならいざ知らず、先進国といわれて久しい日本において残業が恒常化しているのにはそれなりの理由があるといえるでしょう。

 「時短」についてよく言われたことですが、残業は家族と働き手である父親との距離を大きくします。また、ヨーロッパの人たちに言わせると、日本人は会社などの社会的活動には熱心だが、家族や地域のコミュニティーに対する活動には無関心であるとのことです。確かに生活のために残業が必要な人もいるでしょうが、多くの人たちが特に残業を望んでいないのも関わらず、残業が減らないのはこれらの会社以外での活動に対する評価が低いためとも言えるでしょう。しかし、このことは教育問題がマスコミなどで大きく取り上げられていることを考えるとますます不可思議です。というのも、誰もが教育やその地盤となる家庭の問題を重要視しつつも、企業での活動を減らして、その分家族や地域にその力を振り向けようという議論があまり起こっていないからです。

 残業がこの国において社会悪とは見なされていない現実がここにあるといえるでしょう。確かに企業活動以外の活動も重要であるが、企業活動はそれ以上に重要であるとの「常識」がこの国では暗黙に出来あがっているように思います。しかし、当の企業活動にとって残業は本当に利益をもたらしてきたのでしょうか。この答えは最近の不況を分析すると<否>ということになります。なぜなら、現在の不況の真の原因は新しい産業に動向に適応できる人々がいないということに起因しているからです。

 履歴書を書くときに職歴を書く欄があります。と同時に、そこには特技や資格等を記入する欄もあります。もしあなたが人事担当者だったとして、一般的な総合職の経歴と特技や資格のどちらを重点的に見るでしょうか。時と場合によるでしょうが、普通、3年程度の社会人の経験があれば後者の方を重んじるでしょう。特に、35以上の年齢の場合は、体力的に単純でも複雑な事務をこなす能力が低下していますから、後者の方を重んじることが多いかと思います。ところで、会社などで残業している場合、この特技や資格は身につくでしょうか? 専門的な仕事をしているならともかく、人事異動の盛んな一般職ではそうではないはずです。このことから言えることは、今までの企業は体力勝負の仕事を若い時代にたくさんさせる一方、彼らが若いうちに辞めないように賃金体系を年功序列にしておくことによって、発展してきたということです。ところが、情報化の進展に伴い体力勝負の仕事が減る一方、団塊の世代が中堅になると共に日本の企業の生産性は極めて低くなっています。もし若いときに残業をさせずに、いろいろの能力や資格を取れる余裕を社会が与えていれば、企業も段階の世代の労働者も苦しまずに済んだでしょう。

 私はいまテキサスにすんでいますが、アメリカではたとえある企業に雇用されていたにせよ、自分の能力は自分で管理することが建前です。ですから残業にしても日本のように惰性で背負い込むということはあまりないようです。このような社会ですから、個々人のレベルで社会の変化にとても敏感です。この国が他の国と比べていち早く情報社会に乗り込めたのもこのような背景があるからでしょう。

 日本の残業に話を戻すと、それが本当に何らかの利益を生み出してきたのかは疑わしいところです。多くの場合は他企業とのシェアー争いのために、また一部の人たちの名前を上げるためのものだったのではないでしょうか。言わば、これらはゼロ・サム・ゲームでしたが、多くの日本の労働者は給料がもらえる以上、それは少なくとも自分たちにとっては有益な仕事と考えていたのではないでしょうか。しかし、これははっきり言って無責任なエゴイズムによる自己の正当化です。たとえ無益な仕事をやらなくてはいけないにしても、残業をそれ故に社会悪とみなすことは出来るはずです。ところが、この国では残業を敢えて社会悪とみなすことを怠って来ました。このことが日本の今日の苦境を招いてしまったような気がしてなりません。

 このことの背景を考えると、日本人には、たとえ無益な仕事であっても仕事そのものが価値を持つという考えを持っているのではないでしょうか。私はこれを通俗的「労働価値説」と呼びますが、この前提には「人間努力は無条件に尊いものである」という考えが潜んでいると考えています。しかし、考えてみればこれほど傲慢な考えはないのではないでしょうか。もし「人間努力は無条件に尊いものである」とすれば、オウムなどのカルトの努力も「尊い」ものになりますし、また人間が努力の対象を選ぶ際には決して間違うことがないことを前提にしているようにも思えます。事実、日本のカルト信者の無意識の思考の前提にはこの通俗的「労働価値説」があると思えるのです。

 よく日本人は農耕民族だから努力を重んじるが、西洋人は牧畜民族であるからそうではないと言う話を聞きます。しかし、現代社会に有益なことは農耕民族とか牧畜民族とかに関係なく有益です。私は残業を悪とせず人々の努力を無制限に貴んだ古代の人の過ちの上に西洋人の道徳が成り立っているのではないかと考えています。このように考えると、日本人は自らがいかなる思考の上に行動しているかに無自覚だったように思えます。
 
 

[なぜなぜ!?]