「心身対話」〜心の在り処を求めて〜
デカルト『情念論』を基軸に心身相関を考える

 要約
 「心と身体はいったいどのように相関しあうのか」という問いは、古代ギリシャの頃から人々の心を捉えていた。それは“いかに生きるか”という意味において哲学の問題を包含し、さらにさまざまな宗教観を伴いながら、人々の思考を形成してきたといえるだろう。プラトンは、心と身体は脳髄において統合されると言明し、アリストテレスは感覚と感情の共通の座といえるものを心臓に位置づけた。デカルト自身は、プラトンに近い見解を述べながら、さらに精神の座として松果腺を指し示していることは知られるところである。
中世ヨーロッパの科学は、宗教的背景の中で都合よく利用されてきた事実も明らかである。そのような歴史背景を持ち、デカルトは生体としての人間の心と身体の問題について果敢に挑み、いかにそれらは相関関係にあるか、つまりそれらを科学的に分析することによって、心身合一にあるということを証明し得ると考えた。そのためには、まず哲学的(形而上学的)思惟する心を、科学的探究を試みようとする身体から分離する必要があった。このデカルトが提示した「肉体から分離した心」という概念が、永くデカルト思想の最大の問題とされてきたものである。しかしデカルトの目的は、生体としての人間の心身の統御にあったということに留意しなければならない。さらに、デカルトの人間の身体を機械論的自然観と一体化させることによって、科学的に生体を分析する人間機械論「動物機械の説」という理論もまた、当時から現代に至るまでさまざまな場面で影響を及ぼしている。しかし、人間は他の動物や機械と本質的に異なるということをあわせて明示している点も見逃してはならない。さらに、動物精気に見られる科学的検証は、現在の医学的観点から見れば極めて未熟なものであり多くの誤りを含むものであるが、それらはすべて、デカルトにおいても心身を統御するものが脳の中にあるということの論拠を示すものである。デカルトに帰される誤りの多くは、長い歴史の中で継承されてきた誤解や誤認に端を発しているという事実もまた明らかだ。
近年、科学技術の目覚しい発達により、“心の棲家である脳”“心をコントロールする脳”とも表現されるように、心を脳内現象として捉えることも可能となった。しかしそれは、けっして心を脳に預けてしまうことではないはずである。デカルトの時代よりはるかに多くの知識を得るに至った私たちは、今、心が流浪する混沌とした現実の中に置かれている。ここに、デカルトの真意を明らかにさせながら心身問題を解き明かし、「心はどこに在るか」その〜心の在り処を求めて〜歩を進めていかなければならないと考える。小さな躓きが大きな過ちとならないように留意しながら、そして、この研究がデカルトの悪評の名誉回復につながることを望むとともに、私自身の終生のテーマである“よりよく生きる”ためのヒントをその中に見出すことができれば、これ以上の成果はないと考えるものである。

キーワード:「デカルト」「心身分離」「心身合一」「人間機械」「動物精気」

目次

はじめに   1

序章 3
 
本章
第1章:潮流―デカルトに至る流れの中に心身関係の系譜を探る 6
(1)古代ギリシャ世界に見る人々 6
(2)中世ヨーロッパ世界に見る思想 8
(3)ルネサンス期に見る科学     10

第2章:論証―デカルトとの反駁・答弁の中に心身関係の展開を探る 11
(1)デカルトの主張とその思考形成過程 11
(2)デカルトとその反対者たちとの論駁 13
(3)デカルトと王女エリザベトの往復書簡 15

第3章:視点―デカルトが齎した心身関係の現代における問題点を探る 17
(1)生物学的検証とデカルトの誤り 17
(2)知識の統一と二元論の背景 21
(3)こころとからだ、その本質 23

終章 26

おわりに 29

結論・謝辞 32

引用文献・参考文献 33

はじめに
ルネ・デカルト(1596‐1650)は、神を中心とする中世アリストテレス的な世界から、合理的で科学的な思考の近代へと移行する地点に現れた科学者であり、哲学者でもある。デカルトの哲学の大部分は、伝統的なキリスト教精神の中で受容した長所と、新しい科学による説明の力との調和を目指したものである。また、デカルトの自然学は、人間の感覚知覚の視野とは独立の、物理的自然そのもののメカニズムを探求しようとするところに成立している。技術と自然科学との融合を目指すデカルトの思想は、明らかに新しい時代を反映したものであったといえよう。デカルトは、「実践的な哲学によって火や水や空気や天体や天空や、そのほか私たちを取り巻いているあらゆる物体の力とはたらきをはっきりと知り、それぞれにふさわしいどんな用途にも同じようにそれらを使い、そういうふうにして<自然の主人で所有者>のようになることができるでしょう」1)と語っている。さらに「このことは数かぎりない技術を発明するために望ましいばかりでなく、また主として健康を維持するためにも望ましいことなのです。技術は大地の果実と地上のありとあらゆる便宜を何の苦労もなく享受するようにしてくれるものですし、健康は疑いもなくこの世でいちばんよいものであり、ほかのあらゆるよいものの基礎になっているのです。」2)と付言している。デカルトが自身の哲学で言わんとしていたことは、まさに人間の身体をも含む自然全体の科学的探究を推進するところにあった。彼は、「精神さえも体質と体の器官の配置とに多分に依存しているため、人間を一様にこれまでより賢くて能力の高いものにする手だてを何か見つけることが可能だとすれば<医学>のなかにこそ探しもとめなければならないと私は信じるからです。また体の病気であれ、精神の病気であれ、数かぎりなくある病気から、そしておそらく老衰からさえも、もしその原因と<自然>が用意してくれたあらゆる医薬とについて知識をじゅうぶんに持っていたならば免れることができるだろうとも確信しています」3)と述べ、1637年に出版されたこの名著『方法序説』第6部末尾において「医学に関する今までの規則よりも確かな法則を引き出し得るような、ある種の自然認識を獲得することに努める」とし、「自分の余生をそのために費やそうと決心した」と記している。4)
デカルトが打ち出した近代科学は自然現象のメカニズムを究明することによって、それらの知識を科学技術に転用させ、デカルトのいうように「地上世界にもろもろの果実と、そこに見出されるあらゆる便宜さとを人々に享受させる」こととなり、さらに、そこから導き出された、われわれを「自然の主人にして所有者であらしめる」という考えは、環境問題等の人間中心主義的思考の根源ともされている。また、人間の身体自身はその機能がすべての器官の配置から説明できる時計や自動機械と同様の「一つの機械」である、というデカルトの見解は、啓蒙期フランスの思想家ラ・メトリ(1709‐1751)の「人間機械論」にみる唯物論の一つの源泉ともなっている。5)デカルトが提示した、さらに大きな問題である「肉体から分離した心」という概念は、西洋医学のあり方にも影響を及ぼし、宗教と科学を二極化する役割を果たしたということも指摘されている。6)しかし一方、デカルトの演繹的思考方法によって、近現代の数理科学の基礎が築かれたことは言うまでもない。さらにデカルトは、それらを自然科学にも応用して対象から心的性質や目的論的な概念を一切排除し、身体を機械論的に説明することによって、近代の生理学の見地を設定することに寄与した。
アメリカの神経学者アントニオ・R・ダマシオ(1944- )著『生存する脳』の原題は“デカルトの誤りDescartes’ Error”である。このタイトルが、「デカルトの誤りとされるものは、本当に誤りであったのか」という私の問題意識の動機付けとなった。心と、脳を含めた身体は分離していた、との示唆がまさにそれである。ダマシオは、心と身体の分離だけでなく、脳と身体の分離も同様に深刻な問題と見なす。デカルトは、精神と身体の分離(心身分離)を主張しながら、同時に両者の相互作用(心身合一)を認めることは明らかな矛盾ではないかという問いに対して、矛盾ではないとみなすのである。果たしてその真意はいかなるものか。ダマシオが人間の心的風景を、身体から切り離された脳のレベルではなく、脳と身体によって構成された「有機体」(organism)のレベルで論じようとする点を念頭に置き、近代の思想・自然科学および生命科学に大きな影響を与えたとされる、約400年前の科学者であり哲学者であるデカルトの著作を今ここに紐解きながら、「心身対話」を試みたいと思うものである。
序章
16、7世紀頃の世相として哲学者のみならず人々は、情念というものは人間の本性をどうしようもなく支配する要素であると考え、この情念を飼いならさなければ、われわれは社会の秩序を乱し、かつ社会の一員としての地位を失い社会から逸脱してしまうだろうと思っていた。哲学者にとっても情念の統御は、情念を巧みに裁いて理性を浄化し、正しい自然哲学を打ち立てることを可能にするものであると考えられた。ルネサンスという激動の時代にあってこのことは大きな意味を持っており、そうした背景を背負って哲学者デカルトは生きていた。したがって、優れた「情念論」は哲学の試金石となる多くの問題を含み、このような時代の座右の書となり得たのである。デカルト晩年(1649年)の著書『情念論』は、王女エリザベトに与えた書簡の多くをまとめたもので、整理されたデカルトの観念のすべてをそこに見出すことができる。この著書の意図は、情念の問題を「自然科学者」として説明しているところにあり、実際に知覚や心身関係の生理学的・機械論的解明を提示し、それと並行して精神の情念の分析と道徳論を展開している。デカルトはこの論文の公刊を勧めた人に、「もともとこの論文は或る王女の高見に供えるだけの目的を持って綴ったものですが…。措辞の単純簡潔なことは私の意図が雄弁家としてでもなく、さらにまたモラリスト的哲学者としてでもなく、ただ自然学者として情念を説明するにあった所似を理解させることでありましょう」(1649年8月14日、ピコ宛書簡)と答えている。7)
『情念論』第1部1に、次のようにある。「思うに、情念はいつの世にも認識が強く求められてきた主観であった。また、その主観は難問であるとも思わない。情念は、誰でもそれを自己自身のうちに感じ、その本性を見出すのに他から観察を借りる必要がまったくないからである。しかし、それにもかかわらず古人が情念について教えるところは実にわずかであり、しかもその多くは信じがたい。・・・(略)・・・新たに生起するものはすべて、一般に哲学者たちによってそれが生起する主体に関しては『受動』と呼ばれ、それを生起させる主体に関しては『能動』と呼ばれる。能動と受動とは同一のものであり、それが二つの名をもつのはその同じものが二つの違った主体に関係付けられうるからである。」8)「情念」の原語はpassionであり、受動ないしは「蒙る」という意味のラテン語から由来したものである。これは能動ないし働きactionに対して用いられてきた言葉であり、考えである。デカルトは「情念とは、精神の知覚または感覚または感動であって、特に精神自身に関係づけられ、かつ精気のある運動によってひき起こされ維持され強められるところのものである」9)とする。感覚(熱い、冷たいなど)、感じ(飢えや渇きなど)、情動や情念(喜びや悲しみなど)はみな、さまざまな生理学的な状態変化によって引き起こされる「心の受動」であり、つまりこのような状態変化が動物精気の運動を引き起こし、さらにこれらの運動が神経系を通って脳に伝達され、脳における出来事が精神に働きかけることになるのである。また、デカルトは「通常、情念というその語は、狭く精神そのものに関係する知覚のみを意味するようにさせられており、精神の諸情念という名のもとに説明を企てたのはこれらの知覚に他ならない」10)と付け加え、単純で基本的な情念は「驚き」「愛」「憎み」「喜び」「悲しみ」「欲望」の六つであるとして、それらを外的対象の感覚に関係させて分類しようと試みている。まず、何か新しいあるいは異常な対象が感覚されるとき、直接に起こるのが「驚き」の情念である。ふつうは、そういう対象がわれわれにとって善いか悪いかの感受を付け加える。そこで出て来るのが「愛」と「憎み」の情念である。「愛」は対象に有意的に合一して一体となろうとする傾向であり、「憎み」は反対に対象を避けようとする傾向である。ここへ時間の様態の区別を入れ対象が過去において、または今、現にわれわれの得るところとなっている場合、それが善いものであれば「喜び」の情念が生まれ、悪いものであれば「悲しみ」の情念が生まれる。対象が未来的なものであるときは、それに対する情念は「欲望」であり、それは未来に向かって善きものを求め悪いものを避ける傾向である。デカルトは、それらの情念の主要な効果について「情念が人間の身体に準備させてやらせようとすることを精神もそれを意志するように、精神を促しそれにしむけることである」たとえば「恐れの感覚は、逃走を意志するように精神を促し、大胆の感覚は戦いを意志するように精神を促す。」11)しかし「些細な情念にうちかつことができるが、きわめて強烈な情念には血液や精気の興奮がしずまるまではうちかてない。この興奮がさめないあいだ意志のなしうる最大のことは、せいぜいこの興奮の結果に同意せず興奮によって促される身体の運動のいくつかを抑制することである。」12)そして、それは「たとえば、怒りによって手を振りあげそうになるとき、意志は通常この手を抑えることができる。また恐れによって脚が逃げる方向に向くとき、意志は脚をとどめることができる」13)と言う。さらに、いかに弱い精神でも正しい指導を得ることによって、情念に対し絶対的な支配力を獲得し得るということを、「普通の犬は獲物を見つけると飛び出し銃声を聞くと逃げ出すが、訓練すれば獲物を見ても踏みとどまり獲物を打つ銃声を聞くとその獲物の方に走り出すようになる」という例を挙げて述べ、「動物においてさえ、わずかの馴れで脳の運動を変えることができるからには、人間においてそれがいっそう可能なことは明らかであり、最も弱い持ち主でさえも、もし精神を訓練して導くのに十分な積み重ねを用いるならば、あらゆる情念に対しまさに絶対的な支配力を獲得しうることは明らかである」14)と言及する。デカルトのこの言は、情念を抑えることは、心の動きをなくすことではなく、心の動きを身体からの受動状態から能動状態に変えることであり、一つの情念を支配するにはそれをただ抑えるだけでなく、その反対の情念をもって対抗させるのがよい、ということを意味する。さらに、デカルトにとってこのような精神の受動としての情念に対する精神の側からの実践的統御における解明は、医術に活用され得るということをも意味している。その精神についての説明として「精神は真に身体全体に結合しているものであって、精神が身体にある部分にだけあって他の部分にはないと言うのは正しくない。第一の理由として、身体の諸器官の配置は、どれか一つの器官を除けば全身に欠陥をきたすほど器官相互に密接な関係があるわけで身体は一つであり、また或る意味では不可分だからである。第二の理由として、精神はもともと身体をつくっている物質のもつ延長にも諸次元やその他の特性にもなんら関係せず、ただ身体の諸器官の総体にのみ関係したものだからである」15)と述べ、続けて「身体のうちには、精神が他の部分よりも特にその機能を果たしている部分の存することである。この部分は通常脳であると、あるいは心臓であろうと信じられている。脳であるというのは感覚器官がそこに関係しているからであり、心臓であろうというのは、情念がそこで感じられるように思われるからである」16)と説明し、精神と身体との間に両者に類似した共通性が前提された「松果腺」の存在を仮定した。そしてその関係は、あくまでも自然状態の心身結合において成り立つものであるとしている。デカルトに従うならば、心の中の矛盾とされるものでさえ、心と身体の働き合いとして客観的にみるべきだということになるのだろう。したがって、身体を理性的に取り扱う医学と無関係に、情念の理性的な扱い方を考えることはできないと思われる。
これから、デカルト以前・以後、さらに現代の視点に立って「こころ」と「からだ」について考察し、「心身対話」を推し進めながらそれらを明らかにしていきたいと考える。私にそれをさせるのは、基本的情念の一つである「愛」を伴った人間デカルトへの飽くなき興味であり、この“デカルトとともに行く旅”は、きっと実りあるものになるだろうと信じている。

本章
第一章:潮流−デカルトに至る流れの中に心身関係の系譜を探る
(1)古代ギリシャ世界にみる人々
 ギリシャ精神が生んだ三人の最大の思想家ソクラテス・プラトン・アリストテレスにおいて、ギリシャの思惟は類例のない高さに達したといえよう。彼らが活躍したこの時代の重心はすでに黄金時代を越え、政治的没落が見え始めるころに当たっている。凋落の影がその国全体を覆ったとき、初めてその最高の精神的成熟がもたらされたのである。
自然探求から人間探求へ−それを試みた代表的な探求者が、アテナイ生まれのソクラテス(前470‐399)であった。ソクラテスは書物を書き残さなかった。従って彼の思想を知るためには、同時代の人物が残したテクストに依拠する他ない。タレスを哲学の開祖としてギリシャの哲学を概説するアリストテレスは、『形而上学』の第一巻においてソクラテスを「倫理的方面の事柄においてはこれを仕事としたが、自然の全体についてはなんのかえりみるところもない」17)と評している(Met.987b)。若きソクラテスは、ギリシャの自然学的発想の中でも、特に古代ギリシャの自然哲学者アナクサゴラス(前500‐428)の「理性」(思惟力・精神力)を原因とする説に従って、何よりも人間を有徳にする原因(アルケー)としての知を求めることに熱中していた。ソクラテスは考える「―いったい、生物が形づくられるというのは或る人々の言うように、熱とか冷とが、ある種の腐敗にあずかるその時においてであろうか―また、我々が思考することをなさしめているのは、はたして血液が、なのであろうか。いな、そのいずれでもなくて、頭脳こそが聴くとか視るとか嗅ぐとかの感覚を我々にもたらすのであり、そうしたもろもろの感覚から、記憶と思いなしが生じ、さらにはその記憶と思いなしが定着してくるようになると、そこからまさに知識が生成してくるのであろうか。さらにはまたひるがえって、以上のものどもがいかにして消滅するかを考察したのであり、その考察はまた、天空や大地の諸事象にまで及んだのであるが…。」18)(Phaedo.96)しかし、彼は「原因・根拠(アイティアー)となるものから見放され、それを自分で発見することも、また人から学ぶこともできなかった。」19)(Phaedo.99c)若きソクラテスは、人間問題の究極原因が何であるかを知らなかったことになるのだろうか。ソクラテスは、ある究極の原因によって「天空や大地の諸事象(宇宙生成論)」が起こり、これによって「生物が形づくられ(生物生成論)」、またこれによって「われわれが思考する(人間生成論)」のであるとする。この原因によって人間は、よい・正しい・美しいと思考(判断)し、さらに有徳で善なる存在へと変化を遂げていくのである、とソクラテスは考えていた。20)70歳のソクラテスは、国家・宗教に対する犯罪・涜神罪で死刑を求刑されるが『クリトン』に登場する彼は、脱獄の勧めに対してこう答える。「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ。」21)(Crit.48B)さらに、刑死直前にソクラテスに向けられた「知を愛する者が、従容として死に行くのはなぜか」というケベスの問いに応え、第一の弁明(Phaedo.64A-69E)として「死とは身体が魂を離れて肉体だけとなり、魂が肉体から離れて魂だけとなることなのだ」22)と、答えるのである。
周知のようにギリシャ初期自然学者の多くは、宇宙のアルケーの探求において、火・風・水・土を今日のように単なる無機物とは見ず、たとえば「生命の水」というように生命の根源にあたるものと考え、その意味で神性を感じていた。また、ギリシャにはこれらとは対照的に、神的なものと物体的なものとを分離し心魂を神的なもの、肉体を物体的なものと対置して、両者を霊肉二元論的に把握しようとする思想系統も存在した。それはオルペウス教やピュタゴラス派およびそれらの影響下にあった人々であったが、これらはまた、心魂とイディアを類同化してその不死性永遠性を説いたプラトンの『パイドン』にみられるような記述ともつながっている。プラトン(前428‐348)は、魂が身体の全体にゆきわたっていると明確に述べ(Phaedo.67c)、そして魂を身体と厳しく対置させて魂の浄化と純化を説いている。23)われわれは、身体感覚的機能と精神的機能が対立する場面を日常的に経験する。そしてその対立が、魂を身体や物質から区別する証明として論じられることがある。プラトンは『パイドン』の中で、体が渇いているときに水を飲まないように、空腹のときに食べないように、身体の状態に反して魂が行動を導くことがあることを示しながら、24)身体器官が示す知的な秩序とメカニズムは、「物体」が理性と関係なくひとりでに生じさせるものではないと論じる。(Phaedo.98B‐95A)それはつまり、理性は魂を離れてはなにものにも宿ることはできないということを述べるものであり、魂が身体を動かすという場合には、身体は単なる物体ではなくすでに魂によって生きられ、組織化されているとする。プラトンにあって生きている人間とは、「魂に生かされた身体」を意味するということなのである。
アリストテレス(前348‐322)は、プラトンの『ティマイオス』を名指しして、魂が身体を動かすプラトンの自然学的説明を斥けるために批判を展開している(『魂について』407a2-b27)。25)魂は物体の第一現実態、すなわちそれは物体が生命体としての諸機能を行使する能力であり、アリストテレスの魂観によれば、すべての生命あるものには魂が備わっていなければならない。つまり、生命の能力を持っているものだけが、生きているからである。アリストテレスは、感覚的知覚に信頼を置いていた。そして、これら個々の感覚が伝えてくれる事実を、統一ある現実の像へと統合するのが、個々の感覚の上位にある特別な「共通感覚」の仕事であるとし、その「共通感覚」の座を、心臓に置いた。このように、心臓を動物のアルケーとしてあげた人には、エンペドクレス(前500-430)、デモクリトス(前460-370)などがいる。一方、理性的霊魂の座といえるものを脳にあるとしたのは、プラトン、アルクマイオン(生没年不詳、前6頃)などである。共通感覚についてアリストテレスの指摘するもう一つの要点は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感には、それぞれ固有の対象を認識するほかに、そのどれか一つでは認識できない異種の感覚対象(動・静・形・量・数・甘いもの・白いものなど)を判断する力が付帯能力として備わっているという点にある。そしてこのような種類のものを認識する場合には、個々の感覚能力はお互いに協力し合い、一体のものとして機能するということである。この共通感覚は判別という感覚器官を通じて働き、魂のいっそう高次の認識機能の発現への通路を示唆するものとして捉えられている。現代では、人間の認識の科学的説明とその哲学的分析との間に区別がなされるのが普通であり、心魂を単に人間の心理・内面的精神の問題としてのみ捉えがちな今日的傾向とは異なり、アリストテレスや彼の時代の人々は、そのような区別をしなかった。アリストテレスは、宇宙大の規模において捉える初期ギリシャ自然哲学以来の心魂観を継承しながら、持ち前の生物学的関心に照らしてその働きを植物・動物・人間(さらには天体)のそれぞれのレベルを考察し、それらをピラミッド型に階層的にまとめあげていったのである。魂の哲学者とも言われるプラトンのアカディメアに学び、また生物の研究・人間の探求を続けたアリストテレスにとって、生命の本質たるプシュケー(魂・生命−あわせて「心魂」)の問題は、彼の生涯を貫く問題であった。
その後、アレクサンドリアを中心とするヘレニズム科学は、哲学から独立して専門化が進み観測や実験が重視されるとともに、数学を道具とするような現代の科学にみるような形態に移行する。アリスタルコス(およそ前310-240)のものとなる地動説の宇宙論も存在し、ヘロフィロス(前335‐280)によって公然と解剖もおこなわれた。因みに最初の人体解剖を行った人は、クロトンのアルクマイオン(生没年不詳)とされている。エラシスラトス(前310‐250)は、宇宙的なプネウマ(気息)が肺から心臓をへて血液にとりこまれ、そのうち脳に運ばれた部分が「精気」となって神経を通って身体の各部に送られると考えていた。そして、それらは世紀を越えてガレノス(後131‐201)に至り、さらなる医学研究の統合をみるのである。

(2)中世ヨーロッパ世界にみる思想
中世の人々は、人間の魂・心が身体から切り離されても(つまり人間が死んでも)存在し続け、そしていつの日か、再び身体と結びつくこと(すなわち人は復活すること)を何らかの意味で信じていた。中世前期の思想家に利用された古代末期の文献は、いずれもプラトン主義の強い影響下にあり、それはその西欧思想史の根幹をなす一大潮流であった。
北アフリカに生まれたアウグスティヌス(後354‐430)は、古代世界の情熱的な真理探求者であった。アウグスティヌスは、人間精神の基本的機能を反省し徹底した分析によって、その固有の本質を際立たせようと試みた。彼は、人間本質の哲学的な解明と規定にあたっては、プラトンに従った。「人間とは何か」という問いに彼は、プラトンとともに次のように答える。「人間とは魂と身体とからなる理性的な実体である。」26)さらにアウグスティヌスはこう語る。「魂が身体に命令すれば身体はただちに従うのに、魂がそれ自身に命令すれば魂は服従を拒む。魂が手に動くよう命令すれば、命令と服従とがほとんど区別されないほど容易に実行される。しかもこの場合、魂は魂であり、手は身体であって、両者は同一のものではない。ところが、魂が自分にむかって、あることを欲するように命令するとき、それは同一のものでありながらそのことをなさない。この奇怪なことは何によるのであるか。また何のために起こるのであるか。・・・(略)・・・、欲しながら欲しないということは、奇怪なことではなく魂の病気である。魂は真理によって起こされながら、習慣によって抑えられて、全体としてたちあがることができないのである。それゆえ、二つの意志が存在するのはその一つが完全なのではなく、一方の意志に欠けているものが他方の意志に具わっているからである。」27)彼は、自己を眺め、自己の神秘性に思いを凝らし、自己なるものとの関連において人間の心の働きに注目していった。心は人間の身体と結びついており、その意味で情念にも結びつき、したがって最も感応しやすいものとなる。しかし、心はそうした感情の器だけに終わるものではもちろんない。心は情念の近くにありながら、むしろ情念を超えようとする傾向をもっており、それは情念よりは何らかの不動のものを目指しているからだ、とアウグスティヌスは言う。彼がプラトンらのギリシャの思想家と区別されるのは、彼が鋭い心理学的な洞察よりも、最もより内面的なもの、人格的なものを露わにした点にある。自己省察と自己批判への情熱と、大著『告白』にみる懺悔においてそれらを人々の目前に繰り広げる率直さは、特にギリシャ人には無縁のものであったといえよう。アウグスティヌスにおける―われ思う、ゆえにわれあり―という命題は、「おまえはなぜ外を彷徨しようとするのか。おまえ自身に立ち帰れ。というのは内面的なものにのみ真理が宿っているからである」28)という内面的経験・精神的洞察を言表している。プラトンの影響を強く受けたアウグスティヌスの証明は、「われわれの主要なものは精神である」「人間は身体をもつ理性的な魂である」とするものである。アウグスティヌスは、人間はアリストテレス哲学の教えるように精神的物理学的な合成体ではなく、身体を有する理性的な精神であるという立場をとる。彼は生粋のプラトン主義者として、事物の世界とは異なるより高い非感覚的な対象世界、つまり可知的世界を認めたといえよう。
トマス・アキナス(1225‐1274)に先立つ人々が、「魂は身体の形相である」というアリストテレスの説を採用しなかった理由の一つは、魂の不死性を擁護したかったからであった。トマスは、12世紀ルネサンスを経てもたらされた多くの古代ギリシャおよびアリストテレスの翻訳書を基にして、アリストテレス哲学を始めとする古代ギリシャ哲学と、アウグスティヌス的伝統神学の統合を試みた。そして、人間の認識の成立する「場所」は魂であるとして、個々の精神の力あるいはその能力に関する理論において、彼はアリストテレスの弟子であった。人間の魂は自存するものであり、かつ質料を伴わない形相であると述べることに対して、明らかな反論があることをトマスも承知していた。彼は、アリストテレスが語った「水先案内人が船に乗っているように」(『霊魂論』第2部第1章413a、8‐9)を用い、プラトンに反駁して魂と体との実体的結合を主張した。29)「人間における実体的形相とは、ただ知性的魂だけである。そして、この魂が感覚的魂や栄養摂取的魂を潜在的に含んでいるように、この魂より下位にあるすべての形相を潜在的に含んでおり、そのより不完全な形相が人間以外のものにおいてなしていることを、この知性的魂がそれだけでなしているのである。」(『神学大全』第1部76問4項反対異論)30)トマスによると、身体と結合している人間知性の固有な対象は、何かそれ自体で存在しているイディア的なものではなく、質料的なものの中に実在する本質であり、つまり人間の知性的魂はその力の内に、感覚能力を含んでいる。トマスは、人間の魂が事物として自存することの証明を、魂の認識能力に見出した。あるものが他のいかなるものの助けも借りないで、そのような活動を行うことができる場合、そのものは固有の働きを持つ―あるいはそのものは自体的に働く―という。知性認識は、身体器官を使わない活動である。したがって人間の知性的魂は固有の働きを持っているといえるが、その働きを遂行するためには、事物から感覚を通じて獲得した可知的形象によって現実化されなければならない。アリストテレスは、理念の全体を現実の存在世界へ移して、それを事物の存在原理(本質形相)とすることでイディア界をほとんど顧慮しなかった。トマスの場合もまた、プラトン主義とは異なり、人間の知性的魂にとっては身体を媒介として知性的に完成してゆくことが本性的なのである、とするものであった。
中世哲学において、真理と判断(認識・知)の問題は、存在し生きそして知性認識する魂の営みの場として、それも第一真理である神との関係において捉えられていた。アリストテレス哲学の中世に及ぼした影響は甚大であり、それが大きな契機となっていわゆるスコラ哲学が形成されていくことは周知の通りである。この時代には、アラビアとギリシャの科学文献の流入を背景として、自然をそれ自体として研究の対象にしようとする関心が高まり、自然の構造と機能を探求する試みが現れた。そうした中で、自然とは独自の構造と機能をもった力であり、その法則と原因は理性によって理解することができる、という革新的な自然観が生まれるに至るのである。

(3)ルネサンス期にみる科学
デカルトが生まれた1596年は、彼の生国フランスのルネサンス期である。12世紀ルネサンスが神の栄光を確かめようとしたのに対し、15世紀ルネサンスにあっては、神の栄光を求めながらも人間が主体となる新しい秩序が追及され始めた。それは政治的・社会的な観点からは中世に近いが、精神史的にいえば近世に近い。特に、当時次々にイタリアの諸都市に設立された大学は、科学の発展に寄与した。コペルニクス(1473‐1543)の地動説は、地球中心説を支持するキリスト教が支配していた時代という不利な条件の中で、彼の10年に及ぶボローニャ大学への遊学中に端を発する。彼がギリシャの遺産を引き継げなかったら、ヨーロッパの科学が地動説に到達するのにどれだけの歳月をついやすことになったであろう。なかでも、自然現象を原子の運動で説明しようとするギリシャにおける原子論の復活は、世界は機械仕掛けのようなものであるとする機械論と結びつくことになり、さらに、機械論的な自然観は人間観にもおよび、アンドレア・ヴェサリウス(1514‐1564)らによって、解剖により生命の原理を明らかにしようとする新しい医学を発達させ、その道を拓いた。ヴェサリウスは、1543年に解剖学図を載せた『人体の構造について』を刊行し、その中でガレノスの血液の理論のポイントであった、心臓の右心房と左心房の間に想定されていた小穴の存在を否定せねばならない、との所見を述べている。また、血液循環理論を提唱したウィリアム・ハーヴェイ(1578‐1657)は、1615年までに血液循環についての明確な考えに到達し、1628年『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』を刊行した。ハーヴェイも、右心房と左心房の間の小穴の存在を否定し、さらに、心臓の方向にだけ働く静脈の弁と、心臓から出て行く方向にだけ働く大動脈の弁の存在も実験的に明らかにした。そして、彼はこのようなメカニズムを持つ心臓をポンプに譬えた。デカルトも彼の理論に心を動かされ、『方法序説』第5部のなかで「イギリスのある一人の医師」の理論として紹介している。31)ハーヴェイの理論に学びながら、デカルト自身は心臓を熱機関と考え、その機械論を完成させようと試みている。ただし、人間の身体は、まったくの機械であるが身体とは独立な存在である精神を持つ、とデカルトは言う。ルネサンスで譲成されたこのような機械論的な自然観は、人間が自然の力を利用して技術にそれを利用でき得る、との確信を強めることに及ぶものであった。
「科学の父親」とも呼ばれるガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、自然法則の出現(自然の真の姿)は、思考実験(理想状態)のうちにのみ成立すると考えた。それによって、自然の真の姿は人為によって初めて出現する、という思想が明確にされることになった。彼が行なった、科学分野で実験結果を数学的に分析するという手法は、彼以前のヨーロッパには無かったことである。ガリレオは、自然科学に対する数学の適用の必然性を主張するのと同時に、感覚的な質の概念にもとづいたアリストテレスの目的論的自然観をも否定しようとしている。ガリレオは、科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、それによって1633年6月宗教裁判で有罪の判決を受けることとなる。デカルトは、同年11月ガリレオの裁判を聞きおよび、自然の体系をまとめた自身の論文『世界論』の出版をやめることを余儀なくされている。ガリレオは、その晩年を軟禁状態のまま送ることとなったが、現代の物理学・化学・分子生物学・医学等およびそれに基づく各分野での先端技術は、彼の思想の延長線上にあるといても過言ではない。

第二章:論証−デカルトとの反駁・答弁の中に心身関係の展開を探る
(1)デカルトの主張とその思考形成過程
デカルトは、生まれて間もなくカトリックの洗礼を受けた。10歳から19歳まで在学したラ・フレシュ学院も、カトリックのイエズス会の経営する学校だった。そこで受けた哲学の授業は、イエズス会の学校の規定どおり、トマス・アキナスによって解釈されたアリストテレス哲学に終始した。法律と医学はそこでは教えることが禁じられていたため、デカルトはそれらをラ・フレシュ学院卒業後、ポワティエの大学で学んだ。「理解力のなかにあって、まず、はじめに感覚の中になかったものは何もない」32)これは、アリストテレスからスコラ哲学に受け継がれ格言のように言いならわされている考え方だった。デカルトは、このトマス的伝統から離れてアウグスティヌス的伝統に近づいた。デカルトの目的は、哲学を普遍的な数学にすることであり、すなわちそれは、最も簡単な根本概念から厳密な演繹の方法ですべてのことが解決される学問にするということであった。デカルトは、そのために第一に必要なことは、学問・知識の統一であると考えた。たとえて“デカルトの木(哲学の木)”と称されるその木は、根は形而上学(第一哲学)、幹は自然(科)学、三本の枝はそれぞれ中心に道徳、左右に機械学・医学が配置されてある。「機械学」とは、いわゆる機械的技術の知である。今日で言うところのテクノロジー(工学)にあたり、この技術知は自然科学によって支えられている。この言葉が「力学」という意味に用いられるようになったのは、18世紀頃のことである。デカルトやガリレオの少し前までの時代では、技術は職人すなわち下層階級の領分に属する卑しい手仕事であり、自然学あるいは一般に学問は身分の高い人々(特に僧侶)の独占物だった。「自然学」は、世界がいかにあるかを示すものであり、その中で力学的世界観が述べられ、これは今ならば「物理学」と訳される言葉である。デカルトの自然学は、いまだ素朴な形ながら物理学と化学とを含んでおり、それはさらに、生物を一種の機械と見る彼の見解によって生物学に接続されることになる。一方「医学」は、単に身体の健康のためのみならず、精神の健康のためにも必要であるとされていた。また、デカルトにとって「道徳」は、他の学問の完全な認識を前提するものであり、知恵の最終段階であった。機械学によって人間の支配下に置きうる自然の力も、医学によって得られる健康もなお悪用できるものであるため、それらは「道徳」によって正しく導かれなければならない。人は何のために真理を求め(つまり学問をして)、それを通して真の道徳を求めるのか。デカルトにとって、これは科学と道徳という関係だけの問題に留まらず、つまり人間の生き方を問うものなのであった。デカルトの置かれていたルネサンス期は、既存の知識を一つにまとめるような形式を求めるのではなく、雑多と混乱の中に新しい知見を切り開くべき状況にあったといえる。それゆえ、デカルトが求めていた方法と形式は、新たな真理を発見する方法と形式でなくてはならなかった。デカルトにおいて理性の正しい使用とは、その真理探究のために自身の方法に従いながら新しい知識と技術の開発に努め、より積極的にこの世と関わることをも意味していたのである。
ソクラテスは、自然学や技術知とはまったく無関係に道徳的知恵を求めたが、デカルトは、道徳的知恵は自然科学や技術知を必要条件とする。すなわち人間は、自然科学によって自然を認識し、それに基づいて自然を技術的に支配することによって善く生きること、すなわち真の幸福という究極目的を実現することができる、とデカルトは考えたのであり、これはまさしく近代物質文明における人間観でもある。現代世界の状況が17世紀の科学革命によって根本的に規定せられていることを認めるならば、その科学革命に居合わせた西洋正統の哲学者としてのデカルトの思想が、現代でも重要性をもつことは当然であるといえるだろう。

(2)デカルトとその反対者たちとの論駁
 デカルトの最大の論敵として第一に挙げられるのは、デカルト『省察・反論と答弁』において第5反論執筆者として、実名で長文のラテン語反論文を書いたガッサンディ(1592‐1655)である。彼はデカルトと生没年をほぼ同じくする過激な反デカルト主義者で、デカルトが数学的でありプラトン的であるのに対して、ガッサンディは物理的でありデモクリトス的であったという点が注目される。デモクリトス(前460‐370)は「いかなるものも計画なしに生ずることはない。いっさいのものは意味からそして必然的に生ずる」という師のレウキッポス(生没年不詳)の原子論を受け継いでいる自然科学者である。33)ガッサンディは、デモクリトス、エピクロス(前341?‐270)の原子論を物質理論として採用して感覚的性質の主観性をみとめる立場をとり、さらに、原子に内在する力の発現として生命を理解した。彼によれば、真理の第一基準は感覚であるが、これは誤ることがある。理性は、それを訂正して判断しそして普遍的なものをとらえる。常に感覚と理性は伴って進み、感覚や想像の混入しないような純粋な思惟などない、とする。さらにガッサンディは、デカルトの主張の中で当時の人々を驚かせた「動物機械の説」−人間と動物とを峻別する−というものにも反対した。動物を人間と峻別しない自然主義は以前からあり、それは18世紀のリベルタン(自由思想家)に及んでいる。ガッサンディは、自らは僧として静隠の生を送り、教区の人々には「聖者的」として崇められた人でありながら、その倫理思想の根においては、協会側から不信者としてたえず攻撃されたリベルタンに通ずるものをもっていた。デカルトにとって動物機械に対する関心は、すでに1619‐20年ごろから認められ「動物のある行動がいかにも完全であることから、われわれは動物が自由意志をもっていないと推測する」34)と記している。デカルトは、宇宙の形成過程から自然現象一般を機械論的に説明しようという宇宙論的自然学を展開する中で、あらゆる身体の機能をもまた、自然学あるいは機械学と同じ物質的原理によって説明しうると考えた。デカルトは『方法序説』第5部において、物理的自然や動物や人間の身体を全体として機械と同一のものとみなしうるという見解を提示したあと、人間精神の話に及び、人間の精神は動物や自動機械と本質的に異なることの理由を明示する。その一つは、人間は臨機応変の言語活動の能力と自己表示能力を持つことであり、他の一つは、人間は汎用の普遍的理性を持つことである。35)そのデカルトの主張からは、動物への差別や偏見につながるものを見出すことはできない。
ガレノス以来の古い医学では、「精気」(pneuma、spiritus)を三種のspiritus naturals「自然精気」、spiritus vitals「生命精気」、spiritus animales「精神精気」に分けていた。血液が食物の消化によってできるのに対して、「精気」は、血液に加わる生命物質であって、それは肺臓を通じて空中から摂取されると考えられており、ガレノスにおける「精神精気」は、動脈の血液が脳にのぼると加えられる心的作用をいとなむ精気であった。当時一般的に「動物精気」と呼ばれていた活動的な微細物質を、ガッサンディも想定しsubstantia spirituosaと呼んだ。意識作用を非物質的な精神の作用と考えるデカルトにおいて「動物精気」は、血液とは別の生命物質ではなく、動脈の血液が左の心室で温められてその一番微細な部分が蒸留され分離して脳へあがるとされるものであった。つまり、それは精神作用をいとなむものではなく、感覚神経と運動神経とを流れる流体にすぎず、脳の働きと体の運動の仲立ちをする物質にほかならないものであって、それだけでは意識を交えない反射的行動のみの説明原理となっている。このようにデカルトは、外的感覚や内部欲求のすべての対象について、それが引き起こす反射的な身体運動は純粋に生理学的に理解可能であり、呼吸したり歩いたり食べたりするといった動物に共通する人間の活動は、ちょうど時計の運動がただのゼンマイの力とそれの車輪の形態によって生じるのと同様である、と考えたのである。ガッサンディは、精気が身体を動かす仕方はデカルトのように人間と機械との関係になぞらえて考えるのではなく、身体各器官に固有な生命力があって、精神はそれに命令するだけで実在的な機械力を及ぼすことなく身体を動かすことになる、とした。ガッサンディはデカルトを「おお、魂よ」、デカルトはガッサンディを「おお、肉よ」と呼んだ、とある。36)
「デカルトかパスカルか」と相対する両極にたとえられるパスカルは、17世紀フランスが生んだ天才的思想家であるが、彼は幾何学者としてデカルトの幾何学に反対し、ガッサンディを背景とする自然学の実験的研究に専念した。デカルトにおいて物質は延長をもって定義され、彼は限りなくひろがる三次元の空間そのものを自然的宇宙と考えた。「われわれは空間世界の一角に、小さな物体をわが身体とよびつつ生きているのであり、この事実を認めるほかはない。」37)身体のあり方は、われわれの精神に働いていろいろな情念を生み、このような感覚や感情の存在において、われわれは精神が身体と直接に合一していることを知らされるのである。さらに、その身体を機械として支配し、感情や想像の偶然性に結びついて精神の中に生ずる情念を、意志の内的努力と身体の支配とによって統御し、考える者としての自由を最大限に発揮することが肝要である、とするデカルトに対してパスカルは、宇宙空間そのものにおいて無限性の謎を感受し「この無限の空間の永遠の沈黙が、私をおびやかす」38)と言う。理性によって根拠を求めるとき、われわれの見る世界が夢ではないかという疑いは充分理由をもつものであるが、世界は「自然」と「理性」とが張り合い、いずれも相手を承服させないままで対立している、とパスカルは考える。さらに、われわれは精神であると同様に自動機械であるとする。「自動機械」(automate)とは、字義通り自ら動くもののことであるが、パスカルにおいてそれは自発性を意味し、人間のうちにあって習慣によって発達し機械的に動くもの、つまり知性の自発的なすべての作用を含んだ身体と同意義であるとされる。パスカルは、著作『パンセ』の中で「機械作用」(la machine)という言葉を、デカルト派が用いた動物機械説とは別の意味で用いている。それは考慮された思想からではないすべての心理的なもの、必然的にメカニズムに属し身体に起源を有するもの、したがって想像や情念としてあらわれるものである、とする。人としてなすべきことは、そのような機械作用を善用して信仰の障害としてではなく、手段とならしめることである、というのがパスカルの見解であった。「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。」39)パスカルは、われわれはよく考えることに主として専念しなければならない、として「私はデカルトを許すことができない」40)と言い放つに及ぶのである。デカルトは、すべての知識が単純な要素の明らかな直観を複合してなったものと見ようとした。それは、すべてを分析して単純者に至り、そこから総合によってさらにすべてを透明に再構成する、という方法によってあらゆる知識を貫き得るとするものであった。パスカルは、実験的検証を何よりも大切であるとして理論は事実に従うべきものと考え、さらに、一つの方法がすべてに通ずると考えるよりも、おのおの特殊な対象についてそれぞれに適した特殊な扱いをせねばならないと感じていた。メルセンヌ派の人々や、とくにパスカルの場合に見られるような実証主義の立場においては、自然の個別的現象についてすぐれて精密な数学的力学的解明を与えることはできたが、その立場ゆえに神の秘密を奪いとるかに見えるデカルトの巨大な発展的自然像には到達できなかったのである。

(3)デカルトと王女エリザベトの往復書簡
 デカルトの後の近世哲学の流れは、確かに心身関係の問題を重要と考える方向で発展したが、デカルトは心身関係そのものをあまり問題としなかった。むしろ彼は、心身の相互作用を与えられた当然の基礎事実として認めたうえで、それに基づいていかに自己を統御するかに議論を集中させた。デカルトの時代においては、「よく生きる」という問題は、心身問題より重要と思われていたのである。
デカルトはオランダに住んだ20年間に、この地の貴顕や学者とさまざまな交渉を持った。その中で、この哲学者と最も内面的な交渉をもったのは、一人の貴女ファルツ公主エリザベト(1618-1680)であった。エリザベトは、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世の王女としてハイデルベルグに生まれた。母エリザベス・スチュアートは、国王ジェームズ1世の娘である。王女エリザベトは、シェークスピアの演劇を好み、仏・独・英3カ国語を自由にあやつり、数学・自然科学・形而上学等の諸学についても深い造詣の持ち主だった。デカルトとエリザベトとの初めての出会いは、1642年デカルト46歳、エリザベト23歳の時であり、当時すでに、エリザベトはラテン語で『省察』を読了し、これに対し多くの疑問を抱いていた。二人の手紙のやり取りは、1643年からデカルトの死の前年にいたる8年間に及び、その書簡の数々はデカルトの思想と人格の内面をあますところなく露呈している。また、1644年に出された著書『哲学原理』は、王女エリザベトに献ぜられたものである。最初の1643年5月16日エリザベトからの手紙は、デカルトの形而上学の難問である心身の関係を衝いている。エリザベトは「(思惟実体にほかならない)人間の精神は、いかにして身体の精気が意志的な運動をするよう決定し得るのか、どうかお教え下さい」41)
と問う。デカルトはこれに対し、自分は今まで心身の区別のみを考え、相互関係についてはよく考えていなかったと率直に告白して、1643年5月21日エリザベト宛にこう答えている。「じっさい人間の魂には、ふたつのものが存在していて・・・(略)・・・そのひとつは、考えるということであり、いまひとつは、魂が肉体と結びついている関係上、肉体に対してはたらきかけたり、肉体からはたらきを受けたりすることに他なりません。」さらに加えて「われわれのなかにはある種の本源的な概念が宿っていて、それがいわば元になり、雛型となって、他のすべての認識が形づくられると考えます。・・・(略)・・・つまり、存在、数、時間、等々、われわれの思いうかべることのできるかぎりの、すべてのものに適合する最も一般的な概念のほか、あととくに肉体に関しては、拡がりの概念と、またそこから出てくる形と運動の概念しかございません。一方魂だけについていえば、われわれのなかには思考の概念しか存在しませんが、その概念のなかには、悟性の知覚や意志の動向なども含まれております。最後に、魂と肉体とを合わせた場合、われわれのなかにあるのは両者の結合の概念だけで、この概念に、魂が肉体を動かしたり、肉体が魂にはたらきかけてその感情や情念をひき起こしたりする、力の概念が依存しているわけでございます。」42)したがって、人間のすべての知識はこれらの概念をよく区別し、それら各々の概念をそれが属しているものにのみ帰属させることに存する、とデカルトは述べている。しかし、エリザベトはこれに満足せず、1643年6月20日の書簡でさらにその理論的説明を求めている。デカルトは説明不足を認め、改めて純粋知性、想像、感覚の働きを区別した上で、「魂は、純粋な悟性によってしか理解され得ないのに対し、物(肉)体すなわち拡がり、形、運動は悟性だけによっても理解することができますが、悟性に加えた想像力の助けをもってすると、ずっとよく理解されるのでございます。・・・(略)・・・魂と肉体の結びつきに関する事柄について申しますと、これは悟性だけでは、あるいは悟性に想像力の助けを借りた場合でさえ、ぼんやりとしか知ることができないものであって、きわめて明瞭に知るためには感覚によるのでございます。」と1643年6月28日エリザベト宛で答え、加えて「形而上学的な思考は純粋な悟性をはたらかせるため、魂の概念をわれわれに親しいものとするのに役立ちます。また数学の勉強は、主として想像力をもちいてさまざまな図形や運動を考察いたしますので、物(肉)体に関するきわめて判明な概念をいろいろとつくりあげることができるよう、われわれの精神を慣らしてくれます。・・・(略)・・・魂と肉体との結びつきは、ただ日常の生活と日頃のひととの交わりを通じて、しかも思索や想像力を必要とする事項の勉強をさしひかえることによって、はじめて理解できるようになるのでございます。」43)このようにデカルトは、心身の区別は哲学的省察の次元のことだが、合一は哲学以前の人間の次元のことであり、区別と合一とを同時に主張しても矛盾にならないと考えていたのである。しかし、心身問題の理論的解決にならないとして、エリザベトは1643年7月1日の書簡において一層の解明を求めている。
王女エリザベトは、侍医よりもデカルトに多くの信頼をよせ、ヒポクラテスの誓いを守るように求めたうえで日常的な健康問題について、事あるごとに相談をしている。デカルトは、指や腕の腫瘍、湿疹、閉塞症、空咳、微熱、憂鬱症、瀉血、胃病などについての治療法として、症状に応じて節食・下剤の使用などを勧め、さらに鉱泉についてもそれらの成分の分析に関心を示し、その効用についても書簡の中で述べている。デカルトの注目すべき点は、心身の相関関係を前提として、身体的な病気の一因を精神的なものに求め、その原因を取り去ることで病気を治すことができると考えていたことである。デカルトは、エリザベト宛1645年5月18日において、エリザベトの病気を気遣い、健康を回復するためには自らの精神を満足させる工夫をする以外にないと説き「高潔偉大な魂の持ち主と、卑俗な魂の持ち主とのあいだのちがいは・・・(略)・・・情念の赴くままにひきずられ、その幸も不幸も、ただたまたま身にふりかかってきた出来事の快不快に依存しているのが後者であるのにひきくらべ、前者はその理性のはたらきが、きわめて強靭かつ強力であるために自身またさまざまの、しかもしばしば凡人たちより、さらに激越な情念の持ち主であるにもかかわらず、つねに理性を主人とし、苦しみさえをも甘露に変えて、この世の生を得て以来享受しつづけてきた至福のまろやかな味わいに、一段の風味を添えようとするのでございます。」44)と書き送っている。さらに、1645年9月15日の書簡でエリザベトに「すべてわれわれの情念は、われわれの目に幸せを見せつけて、それを追い求めずにはいられなくするけれども、ありのままの姿にくらべると、ずっと大きく見えるにすぎないこと、また肉体の喜びは断じて魂の喜びほど長続きせず、じっさい手に入れてみると、けっして焦れているときに映ったほど、大きくもないということ、われわれはこれらにくれぐれも留意して、なんらかの情念に動かされていると感じたとき、それがいったん静まるまで判断を停止するよう、そしてこの世の中の幸福のいつわりの外見に、たやすく欺されてしまわないよう、心がけなくてはなりません。」と語っている。45)
59通(現在残されているもの)におよぶ書簡は、王女エリザベトの憂鬱症(それを一家の不運の反映とデカルトは見る)への医学的所見・対処法も伴い、『情念論』の形成過程を示す貴重なドキュメントとなっている。

第三章:視点―デカルトが齎した心身関係の現代における問題点を探る

(1)生物学的検証とデカルトの誤り
デカルトの関心は『哲学原理』以後、生物および人間の研究に傾いていく。1647年から1648年にかけて書かれたと思われる『胎児の形成について』さらに『生物の発生に関する第一考察』の他、解剖学、薬学に関する論考もある。そして、『情念論』もデカルトにとって生物、人間研究の一環であった。
デカルトは、自身の生理学において心臓の熱から有機体の活動を説明し、その熱は密度の違う血の混合から生ずるとした。デカルトを誤らさせたのは、当時依然として支配的勢力のあったガレノスの生理学が、脳髄に達した最も純粋な血液が動物精気を与えられ神経の作用を営むとされていたことに、強く影響を受けたためと思われる。また、デカルトの発生学的考察は今日の知識からみれば苦笑を禁じ得ないようなものではあるが、特に微細な観察が必要な分野において文明の利器ともいえる顕微鏡の欠如は、まさに致命的だったといえよう。デカルトがその発生学において、初めに胚子に血液循環と心臓が出現し、これから神経系およびその他器官系が発生するとしたのは誤りであった。この点に関しては、発生学の創始者ともいえるアリストテレスが、心臓と血管の出現を最初の器官形成であるとする説に起因している。極めて貧弱で、しかも不正確なデータによって得られた結果は失敗に終わるものであったとしても、成体の器官やその器官系の形態や構造を物質の運動によって生理学的に考察し、さらに、物質レベルで胚からの成長の過程を発生学において考察する、という方法は注目に値する。「人間が子供をこしらえるような重要な現象をも、そのような些末な原因(物質的原因)に帰するのは何という滑稽なことだ、と軽蔑していう人があるかもしれない。だが自然の永遠なる法則よりも偉大なる原因をわれわれは持つことができようか。偶然にも何かの精神(の干渉)によって生ずるといえるであろうか。どんな精神によってか、直接に神によってか、ではなにゆえにときどき奇形なものが生まれることがあるのか」(AT.XI.p.524.I.17-22)という言葉にデカルトの強い思いを感じる。46)自然の摂理・真理を知ることによって人間の探求に至るのであり、これは現代医学における遺伝病・先天性疾患に対する科学的観点からの原因追求の姿勢をも促すものである。
デカルトが「理性の座」を松果腺であるとした理由は、『情念論』の中にこのように記載されている。「すなわち、脳の他の部分はすべて対をなしており、これはわれわれの眼も手も耳も二つずつで、つまりはわれわれの外的感覚の器官がすべて対をなしているのと同様である。ところで、われわれは或る一つのものについて同時にはただ一つの単位の思考しか持ちえない。・・・(略)・・・これらの像あるいはその他の印象が、脳室を満たしている精気を介してさきの腺において一つになることは容易に考えられる。」47)彼によると、眼から入った光の情報が松果腺に伝えられ、そこで思惟され、それによってできた活動物質が神経の管を通して筋肉に送られ行動として現れる。また一方、デカルトは著書『哲学原理』189においては「人間の心は身体全体に命令するものであるが、そのおもな場所を脳髄の中に持ち、そこでだけ理解し想像し、さらには感覚もするということである。・・・(略)・・・かように神経によって脳髄の中に起こされた運動は、脳髄と緊密に結びついている心あるいは精神をその運動自身が多様であるのに応じて多様な仕方で変化させる」さらに「身体の各部分に起こることを心が神経の働きによって感覚するのは、心が身体の個々の部分にあるからではなく、ただ脳髄の中にあるからである」48)と記し、その証明として、ただ脳髄をおかすだけのさまざまな病気があらゆる感覚を奪ったり、混乱させたりするという事実や、たとえ脳髄に傷がなくとも身体外部から脳髄へのびる神経の道が途中で妨害されると、それだけでその身体部分の感覚が消失するという事実、さらに、身体のある部分に痛みが感じられても、痛みの原因はその部分にはなく、その部分から脳髄へ通じる神経の通る途中の別の部分に原因があることがあるという事実等をあげて述べている。これに関しては、プラトンが『ティマイオス』の中で「髄(脳髄のこと)は身体の他のあらゆる組織の生成にとって源と始原であり、他の器官はその周囲に形成される。魂の理知的・気概的・欲望的な部分は髄に植えつけられ固く結ばれる。魂に神的部分の円運動は、脳の丸い髄のなかに格納されている。その円運動から自己意識が生まれる。外的対象から発する運動が血液を通して脳に伝えられると、それが理知的な魂の運動を妨げる。」(36E3‐4)と述べ49)、脳髄は心身の合一に対して働くものでありその魂は精気という実態に近いものであった、という見解に影響を受けたのだろうと思われる。さらに『情念論』においては、「精神はその首座を脳の中心にある腺のうちに持つといえよう。精神は、そこから、精気や神経や、さらには血液を介して、身体のすべてに運ぶことができる。その腺はまた精神によってもさまざまにうごかされうるのであり、そして精神は、その腺のうちに起こる運動の多様に応じた、腺のなかの多様な印象、すなわち多様な知覚を受け取るようにできている」50)と述べ、「心は一つであり、その内に精神と感情を含む」ということが論点であったとしても、スピノザ(1632‐1677)が評する「デカルトが松果腺に与えた性質ほど不明瞭不可能なものはない」(『エチカ』第5部序言)との言は、当然と思われる。51)
松果体については下等脊椎動物のそれに、長い柄があって腺体そのものが頭の皮膚のすぐ下まで伸びていること、さらにこの組織には、眼の中の網膜にあるのと同じような光を感知する細胞があること等がわかった。皮膚を明るい色に変える化学物質が松果体にあることは、1917年にマクコードとアレンによって発見されたが長く無視されたまま、1957年アメリカのラーナーが松果体の有効なホルモンとしてメラトニンを取り出した。松果腺には、セロトニン(5‐ヒドロキシトリプタミン)が多く含まれていて、暗くなるとその量が減り、メラトニンが合成される。それは、メラトニンの生成酵素の一つであるセロトニンN‐アセチル転換酵素が日周リズムによって変動することに影響を受けるためである。この酵素活性の日内変動を起こすのは体内時計である視交叉上核である。視交叉上核は、左右の眼球から出た視神経が脳底で交叉する部位のすぐ上に位置し、視神経の線維の一部がその中に入り込んでいるため、目に入った光の情報はこの視神経の細胞の働きに影響を及ぼすことになる。セロトニンは、アミノ酸のトリプトファンからできたアミンで、脳内では中脳の縫線核という部位の神経細胞ででき、この神経核から出る神経線維によって広く脳全体にゆきわたっている。縫線核郡とは別に、松果腺において、セロトニンという生物活性物質が変化してメラトニンになる一連の過程は、視交叉上核からの夜の信号が上顎神経節を経て松果体に伝えられると、そのニューロンの末梢から松果体細胞へノルアドレナリンが放出され、これが刺激となって松果体の細胞のサイクリックAMP量の増加が起こり、セロトニンN‐アセチル転換酵素の活性が起こることによる。夜にメラトニン合成が盛んになる仕組みは、このように説明されている。52)しかし、鳥類では松果体自身がメラトニン分泌の自律的なリズムと、光に対する反応性を有していて、脳の他の部分からの情報なしで制御されているといわれている。また、動物実験でメラトニンの生理作用を調べると、性腺の活動を抑えることが明らかになった。逆に、手術で松果腺を取り除いた動物では性腺の働きがさかんになる。このような変化は、メラトニンが視床下部に働いてゴナドトロピンの放出に影響を与え、このため性腺の活動を変えるという複雑な仕組みによっている。極地の動物は、冬の数ヶ月間太陽の光をまったく受けないからメラトニンの分泌が増え、性活動を営まないため松果腺が非常に大きいという。メラトニンにはこころを安らかにする働きがあり、脳が自らつくる精神安定剤として役立っている。
ヒポクラテス、アリストテレスの時代、からだには「液性物質」という神秘的なものがあって、それが筋肉の収縮を起こし情緒を揺さぶり行動を変えると考えられていた。そして、神経はこれらの液性物質をそれが作用する組織へ運ぶのに役立っているとされた。しかし、神経が液を運ぶ管ではなく、血管内の血液が物質の運搬にかかわることがわかったとき、この古い考え全体が疑われるようになった。イギリスのベーリスとスターリングは、1902年に十二指腸の粘膜から特殊な化学物質が血液中に分泌され膵臓に運ばれて膵液の分泌をうながすことを発見し、それをセクレチンと名付けた。53)そのような正常の細胞で分泌されて血液によって隔たった場所に運ばれ、他の器官なり細胞なりの活動を刺激するものをホルモンと呼ぶ。これは、ギリシャ語の「刺激する」「興奮させる」という言葉に由来する。当時は、非常に広い意味で使われ血液中の炭酸ガスやブドウ糖もホルモンとみなされていた。各種のホルモンは、高等動物に限らず両生類にも昆虫にも、さらには単細胞生物にもその元型がみられ細菌もホルモンを分泌しその受容体を持っている。
近代解剖学の開祖といわれるヴェサリウスは、脳の働きによって魂ができ、それによって生じた不要なものが脳の底にある漏斗で濾しわけられ、下垂体に集まり棄て去られると考えていた。54)1955年には、視床下部の神経細胞から分泌されて下垂体の活動を調節するホルモンの研究が始められた。視床下部と下垂体とを結ぶ茎部にある細い何本かの特殊な血管については、1724年にフランスのリュートーによって記載されていたが、それより200年後ルーマニアのルイナーによって再発見され、1930年には視床下部下垂体門脈系としてこの血管の存在が改めて発表された。6年後にはハーバード大学ウィスロッキーらが、その血液は視床下部から下垂体に向かって流れていることを実験によって証明した。55)下垂体後葉には視床下部からきた神経線維がたくさんあるが、下垂体前葉にはほとんど神経がきていないため、下垂体前葉の働きは脳の支配を受けていないかのような印象をうける。しかし、視床下部の神経細胞で顆粒が作られ、それがその細胞から出る神経線維に沿って下垂体の後葉に入り、線維の末端に貯えられることがわかった。また、後葉ホルモンを分泌する細胞は、視束上核と室旁核だけでなく視交叉上核という神経核にもあって視床下部のあちこちに散在しており、さらにこれらの細胞内にできたホルモンはただ後葉だけに送られているのではなく、脳の中に広く分布していて延髄から脊髄にまで運ばれていることも明らかになった。デカルトにおいては、動物精気として二つのものがあるとされており、一つは神経を介するもの、もう一つは血液に乗って運ばれるものである。それらはすべて松果腺に集まり、その量や働きの調節をすべて小さな腺がおこなっているという。56)「それは一つのきわめて小さな腺であって、脳の実質の中心に位置し、また、脳の前室の精気が後室の精気と連絡する溝の上に垂れていて、その腺におけるごく小さな運動も精気の流れを大きく変化させることができ、また逆に精気の流れに起こるごく小さな変化もその腺の運動を大きく変化させることができるようになっている。」57)「脳にはいりこむ血液の粒子についていえば、それらは脳実質を養い、維持するばかりでなく、そこで動物精気と名づけられる一種のきわめて微細な風を産出するのに役立つ。・・・(略)・・・心臓から血液を運んでくる動脈は、まず無数の小さな文脈に分かれて小さな織物を形作り、まるでつづれ織りのように、脳の空室の底に広がった後、また集まって、脳の空室の入り口のすぐ近く、脳実質のまん中あたりに位置している小さな腺<松果腺>のまわりを取り巻く。」58)デカルトにあっては、誰もまだ言及していない心身を統御するものがほしかったのだろうと推察する。そしてそれは、脳の中でなければならなかったのである。
ソクラテス以前、さらにはアリストテレスの時代から近年に至ってなお、情動・情念というものが研究対象とされている。人の脳の神経細胞は、およそ140億あると推定されているが、これはすべて胎生期にできる。幼若な子どもで脳が発達するということは一つには、神経細胞が大きくなり、細胞から細い突起が出て細胞と細胞とを連絡する網の目、すなわち神経回路をつくることを意味する。神経細胞がそれぞれの細胞に特有な化学物質、すなわち酵素や広い意味でのホルモンをつくる機序において、どの細胞がどんなホルモンをつくるようになるかは、その細胞ができる前からすでに企画済みであり、その計画通りに発達していく。情動反応には経験と記憶そして想起の過程が結びついており、情動の形成は、人間形成の基礎的要因であると言っても過言ではない。

(2)知識の統一と二元論とその背景
デカルトのもっとも重要なビジョンは、究極において数学に抽象化できるところの相互に結びついた真実の体系としての知識だった。そしてこの概念を物理学から医学に、そして生物学にさらには道徳論にも適用できる、とデカルトは考えたのである。彼は正確な演繹法を使っていかに科学を実践するか、各現象をいかに徹底的に切り取り、骨組みだけにするかを示した。論理学のための方法として、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば、もっとも複雑なものに達しうると考え、4つの規則を『方法序説』第2部において提言している。59)@-明証、A-分析、B-総合、C-枚挙・吟味として知られているものである。これは還元主義的・数学的考えの規範ともされている。また、二つの実数を平面上の点の位置(座標)によって表すという方法を用いて、世界は三次元であるから世界に対する認識を三次元座標の枠にあてはめよう、とデカルトは考えた。これが今日「デカルト座標」と呼ばれているものであり、後の解析幾何学の発展の基礎ともなった。デカルトの遺産は、還元主義の提唱にあるといわれているが、還元主義的思考方法は古代ギリシャまでさかのぼる。アナクサゴラスは「物体は限りなく分割されうる」とし、この無限に小さく無限に多い最も微小な構成要素を「スペルマタ(種子)」と呼んだ。60)デカルトのそれも、同じように世界(物体)をばらばらに分解し、それぞれを別々に分析できる物質部分の集合とするものではあるが、むしろデカルトは、それらを統合・吟味するということにより重点を置いている。それは、今日でいうところの「還元主義」とは、その内容を異にするものであるといえよう。また、デカルトは、根本的なところでは形而上学に譲歩していた。彼は終生カトリック教徒であり、絶対的に完全な存在としての神を信じていた。神の存在は、その存在を観念することによって明示されるものであるとし、だからこそ、その思考の上に立って精神と物質の完全な分離を主張することができたのである。彼の二元論は、宇宙を物質的に説明しながらも、なお敬虔さを失わずいたことでその時代の哲学と科学に内包され、それは形を変え今なお私たちの眼前に存している。
現在、脳と精神の二元論が数人の卓越した科学者によって擁護されている。アメリカの脳外科医ワイルダー・ペンフィールド(1891‐1976)は、脳を電気的に刺激された患者が「腕を上げているのは自分ではない」と意識していることを指摘し、神経網と根本的に異なった決断の中心、つまり「交換台と交換オペレーター」を仮定する。61)これまで精神作用について実験的にわかったことは、すべて脳が脳自身を理解するためにできた機械ではなく、生存のためにできた機械であることを示唆しているが、脳とそれに付随する腺には、非物質的な心が宿れそうな特定の部位はどこにも見当たらない。
生理学者ジョン・エクルズ(1903‐1997)と哲学者カール・ポパー(1902‐1994)は、精神が脳のモジュールからあるものを選択しそれらを読み取り、それらを統合し次に他の脳回路を修正すると考えた。彼らは、行動が意図的かつ意志的に開始されるときにのみ、運動野におけるインパルス(衝撃)より前に、それが補足運動野に現れることを指摘する。「連絡脳の神経機構への作用という点での自己意識の能動的役割は、相互作用論の基本的特徴である。体性感覚皮質の直接刺激は、微弱刺激では0.5秒も遅延して意識体験をもたらし、また同様な遅延は鋭い微弱な末梢皮質刺激でも観察されることを、アメリカの生理学者リベットがヒトの脳での実験で示している。」62)エクルズとポパーは、デカルトの二元論そのものではなく、三つの世界(世界1・世界2・世界3)を定義して「二元論‐相互作用説」を展開している。エクルズは「自己意識が世界1(すなわち物質界ならびに生物界の特殊な部分)でないとすれば、それは異なる基本特性をもつものと思われる。それは新皮質の特定領域と連絡しているけれども、それ自体、空間的に拡がる特性を持つ必要はない。明らかに、自己意識は活動中の新皮質の多様に散在する構成要素から読み取ったものを瞬間的に統合するのである。しかし、自己意識がどこに局在するかという問いには理論上回答不能である。このことは、自己意識のいくつかの構成要素を考えてみれば理解できる。愛や憎しみ、喜びや恐怖、あるいは心理的評価に当てられる真、善、美といった価値観がどこに局在するかと問うても無意味である。これらは体験されるものなのである」63)と述べている。
今から3世紀以上も前に、デカルトは、意識経験が物理現象以外のものではないと考えるなら人工の人間精神を創造するのはひょっとすると可能ではないか、と考えた。しかし、そのような人工知能は不可能である理由として、それは絶対に確かな二つの基準により、機械は「目の前で言われたことの意味に応じて、表現を変えるというどんな愚かな人間でもできること」ができないし、「人生のあらゆる出来事において、理性が私たちにふるまわせるように行動する」こともできない64) としたこの考えは、1950年にイギリスの数学者アラン・テューリングによって実践的に練り直され、今日一般にテューリング・テストと呼ばれている。テューリングは、人工知能は数年のうちに可能だと考えていた。アメリカの哲学者で教育者のモーティマー・アドラーも本質的に同じ基準を提示し、人口知能の実現可能性だけでなく物質主義の哲学全体を吟味の対象とした。しかし、敬虔なキリスト教徒であるアドラーは、そのような人工の存在が創造されるまでは人間の存在がまったく物質的基盤によるとは認められず、そのような機械は永遠に不可能であるというデカルトと同じ結論に達している。「人工の心に人間の属性をそなえさせるには、個人の心を生涯にわたる経験−情動のニュアンスがこめられた視覚や聴覚や、化学受容器や触覚や運動覚の経験−でいっぱいの記憶装置とともに模倣しなければならない。それから社会的経験、数え切れないほど多くの人との知的・情動的経験がなくてはならない。また、これらの記憶には意味もなくてはならない。つまりプログラムに与えられる言葉や感覚情報がどれもこれも拡大したつながりをもっていなくてはならない」65)生物学者エドワード・オズボーン・ウィルソンは、そう明言している。

(3)こころとからだ、その本質
意志決定の自由を含む精神は、その成長を遂げるにおよび自らの内(こころ)に大きな問題を秘めることになった。それは、決意することが自由である時に、どのような基準をもって決意するのかということが自身に問われるからである。エウリピデス(前485-407)のギリシャ悲劇は、決意の自由そのものに宿る悲劇をえがいている。前431年に上演されたエウリピデスの『メディア』という物語の内容は、「夫イアソンに情熱的に尽くし、夫のために祖国コルキスを捨て、実の弟さえも殺した主人公のメディアが、夫とコリントスの王女グラウケとの婚約によって自分が追放されることを知るや、ひそかに夫に対する復讐を計画し、夫の婚約者を毒殺し夫と自分の間に生まれた二人の子供を殺すことで、夫を苦しめてやろうとする」というものである。メディアは、こうつぶやく。「どんなひどいことを仕出かそうとしているか、それは自分にもわかっている。しかし、いくらわかっていてもたぎり立つ怒りのほうがそれよりも強いのだ。これが人間の、一番大きい禍の因なのだが―。」(1030-1080行)66)劇中の彼女は、外からの情念に取り付かれているわけでもなく、神々を恐れて畏縮しているわけでもない。ギリシャ人はいつも、情念におそわれる体験をなにか神秘的で畏怖すべきものであり、自分にとりついてくるある力の体験と感じていたが、メディアは彼女自身の理性と感情の葛藤によって動いており、自分の内なる感情を冷静に見つめた上で損得の計算をしつつ、その先のことも思案している。その意味でメディアは、現代人に限りなく近いといえる。良くも悪くも、彼女は自身の理性と感情を調整しながら自分の思うように生きているのである。
ソクラテスもまた「僕という人間は、自分でよく考えてみて結論とし、これが最上だということが明らかになったもの(ロゴス)でなければ、僕のうちの他の感情や欲望などのいかなるものにも従わないような人間なのであって、これは今に始まったことではなくていつもそうなのだ」(Crit.46B)と語っている。67)その言葉の中には、三つの自分が明示されている。@-感情や欲望に従おうとする自分、A-そんな自分を否定する自分、B-これら二つの自分を見渡すことができる「僕という人間」自分、である。つまりソクラテスは、徳(善いこと)に関してBが有すべき知(規範知)であるところの「自分でよく考えてみて結論として最上だと明らかになったもの(ロゴス)」によって、@とAを調和させ、全体としての自分〔@=A=B〕形成を目指そうとしている。フロイトの心理学の源泉を、ここに見出すことができる。
著書『ヒトのからだ−生物史的考察』の中で、三木成夫は次のように語っている。「われわれヒトでは受容‐伝達‐実施の過程が、自然の意のままに行われる動物とはちがってその伝達の過程において、ある種の“待った”がかかる。自然の流れをせき止めるこの働きは、一般に<精神>と呼ばれるが、これが動物性過程に侵入して感情および運動との二つを大きく支配するようになる。このようにしてうまれた精神の働きが、ヒト“自我の意識”をもたらす。そしてヒトは、自我的にものを見(理解)、自我的にふるまう(行為)。つまり感覚と運動の過程の上に、自我という絶対者がいつのまにか君臨することとなる。」68)
そして、さらに「人類の標識とも思われるこの自我の働きは、とどまるところを知らない。おくれて現れた“精神”の世界が、いわば先輩格にあたる“心情”の世界を侵略しつくそうとしている。精神の働きが、その本来のすがたにとどまったとき、そこには人類にしか見られない理知的な性能が現われ、心情とみごとな調和を保つ」69)と言及する。
正常な身体を持ち体はどちらかの性に属しながら、自分の脳が認識する性と体の性が一致せず、しかし、率直に自分の脳が認識する性と一致して生きたいと悩む「性同一性障害」というものがある。脳の性中枢は、左右の視神経が交差する部分より前の視床下部の前端、つまり視索前野にある。性中枢では雄と雌の間で神経細胞の数、神経線維の数、またシナプス(神経線維の接合部)の数も違っており、弓状核(視床下部の腹内側に位置する神経細胞群)のシナプス数にも正常雄雌間にその差がみられる。視床下部の内側視索前野は、アンドロゲンによる視床下部・下垂体・副腎皮質系の機能を支配する場所である。脳を雄化する仕組みは、アンドロゲンが脳内に入りエストロゲンに転換され、その転換されたエストロゲンによるものである。そのエストロゲンの生成は、脳内アロマターゼ(芳香化酵素)が脳内に入ってきたテストステロン(男性ホルモンの一つ)を、芳香化(テストステロンのステロイド核のA環とB環の間にあるメチル基を離脱させること)することによって行われる。雌の子では、エストロゲンは独特なタンパクと結合しているから脳で受容されず脳の雄化は起きないが、大量のエストロゲンは一部その独特なタンパクと結合することなく脳内で受容されるため、脳を雄化することになる。オランダのスワーグらは分界条床核(BNST)の中心のVIP(血管作用性腸管ペプチド)に濃染する細胞群に注目し、分界条床核の大きさに性差があるとして、異性愛男性・異性愛女性・同性愛男性・同性愛女性間のその違いを統計的に示した。動物実験の結果、ラットのSDN‐POA(視索前野の性的二型核)と同じように、分界条床核の大きさは周生期のアンドロゲンの作用によるということが示され、それによって性的志向の同性愛とは神経的機序に差があり、それらは同じものではないことは明らかである。身体的には正常であり内・外性器の発達にもアンドロゲンが十分作用しているのに、脳はどうしてそのようにならなかったのかということが最大の問題である。70)さらに、脳が感じる心がその表象である身体と合一ではないということは、アイデンティティーの問題と相まって大きな意味を含んでいる。脳の認識と体の認識は、どこか深いところで重なり合い、乖離し合っているように思われる。私たちは、それらを「心という在り処」で認識し、統合する必要があるということなのだろうか。

終章
今日、神経と内分泌そして免疫の、三つの相互作用および相関関係が注目されている。神経−内分泌系の細胞から放出される神経伝達物質、神経ホルモンおよび神経ペプチドは、神経調節物質として他の神経細胞や内分泌細胞に作用して、それらの細胞の機能を調節するほか、免疫系の細胞にも作用して免疫細胞の機能を調節することがわかってきた。生体の内外の情報監視機構という視点では、神経系は免疫系の抗原情報の伝達機構と類似している。また、免疫系は神経系と同じように感覚器官ともいえる。神経系ならびに免疫系はいずれも生体の恒常性を維持する生体機能の一つであることに変わりはなく、しかも相互に情報を交換していることから、ストレスが免疫系の機能に影響していることは明らかである。物理的ストレスである拘束、騒音、外科手術、火傷などによって免疫応答は抑制され、また生体リズムの乱れや社会的ストレス、さらには精神的ストレスの負荷によっても免疫応答が低下することが報告されている。このようなストレス負荷によって、グルココルチコイドやアドレナリンのほかACTH、セロトニン、プロスタグランディン、エンケファリン、エンドルフィンなどの中枢神経系からのオピオイドペプチド、サブスタンスP、ソマトスタチンやVIPなどが末梢神経から放出される。また免疫細胞から産生されるサイトカインの中に中枢神経のニューロンに作用して、神経系の生理作用に影響するものがあることがわかっており、たとえばIL‐1βは、睡眠中枢に作用して睡眠を誘発し、発熱中枢に作用して体温を上昇させ、さらに満腹中枢のニューロンに作用して食欲を減退させること、鎮痛作用のあることなどが明らかとなっている。71)リンパ球の一種で腫瘍細胞、ウィルス感染細胞を攻撃するナチュラルキラー(NK)細胞は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の程度が強い場合その値が低下することがわかっている。免疫系に特に強い影響を持っている視床下部の中でも視束前野/前視床下部(PO/AH)と呼ばれる部位を破壊するとNK細胞活性の低下をはじめとして種々の免疫反応が抑制される。このPO/AH破壊による脾臓のNK細胞活性の低下は、脾臓に達する交感神経を切断すると見られなくなってしまう。そのことからPO/AHは交感神経を通して免疫系に信号を送っていることが理解されよう。視床下部は免疫機能を抑制する交感神経の働きをさらに抑えることによって、結果的に免疫機能を活性化する方向に影響を及ぼしている。このことからも、情動が身体に大きな影響を及ぼしうることが見て取れる。最近、視床下部の受容体は、セロトニンにより調節されていることがわかった。すなわちセロトニンが多いと受容体が多くなり、これによってCRHの放出は抑制される。そしてその結果、副腎皮質からのストレスホルモンの放出は減少される、という機序に及ぶこととなる。
『情念論』102に次のような記載がある。「悟性がある愛の対象を考えると、この思考が脳のうちにつくりだす印象は、動物精気を第6対の神経によって腸や胃のまわりの筋肉の方へ導いていく。」72)この「第6対の神経」とは、当時知られていた頭の中の「7対の神経」中、第6番目のもので、胸部、腹部に分布する迷走神経につながるものであった。したがってこのことからも、愛の感情は胸のドキドキをひき起こし、体重の増減にも関係してくることが理解できよう。デカルトは、エリザベトに宛てた書簡の中で「健康について」次のように語っている。「精神をあらゆる悲しい考えや、諸学問についてのあらゆる真剣な思索からさえもまったく解放しなければならないこと、そして森の緑、花の色、鳥の飛翔など、どんな注意も要しないことがらを眺めて、何も考えていないと思っている人を手本にすることだけに専心しなければならないということです。それは時間を失うことではなく、むしろ時間をよく用いることなのです。というのも、こういう仕方によって完全な健康を取り戻すであろうという希望によって、自ら満足することができるからです。」73)(1645年5月または6月)
プラトンの医学思想(ピタゴラス派の医学)の影響を受けたギリシャ人著述家プルタルコス(後46か48‐127頃)も、「健康について」著書『健康のしるべ』にこのように記している。「つまり、身体が苦労して休息を必要としているのに、緊張を弛め骨休めすることを少しも望まないでいると、遠からず発熱や眩暈に襲われて書物や言論や研究をあきらめることになり、身体とも病気を患って苦しみを共にすることを強いられるだろう。プラトンが、魂をともなわないで身体を、身体をともなわないで魂を動かしてはならず、いわばその一対の間の均衡を注意深く守らねばならないと勧告したのは正しい。」(137D-E)74)
デカルトの『情念論』は、第三部212章で終わりをむかえる。それは「人生の善悪はすべてただ情念に依存している―精神は精神独自の快楽を持ちうる。しかし、精神が身体と共有する快楽についていえば、それらは、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最もよく動かされる人間が、人生において快さを最もよく味わうことができるのである。確かに、こういう人間は、もし情念を善く用いる術を心得ておらず、かつ、運にも恵まれない場合には、人生においてまた最大の苦さを見いだすことがあるかもしれない。しかし、知恵の主要な有用性はまさに次の点に存するのである。すなわち、みずから情念の主人となって、情念を巧みに処理することを教え、かくて、情念のひき起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべての悪からかえって喜びを引きだすようにさせることである」75)というものである。「よく行うには」よく判断しなくてはならない。そして意志をその判断に従わせねばならない。そのために、デカルトは自然の探求をした。「よく生きるためには」自己統御ができなければならない。それが可能であることを示さねばならない。それために、デカルトの『情念論』がある、私はそう考える。
ダマシオは、人間の心的活動は「身体」と脳とのダイナミックな相互作用を通してのことであり、身体を考慮せずに情動も感情も、合理的な意思決定も自己も意識も説明することはできないと考える。ダマシオにとって身体とは「生きているという感覚の基盤」であって、けっして脳に信号を送るだけのあるいは脳から指令を受けて動くだけの機械的付属物ではない。「脳は身体に起きていること、そして脳それ自体に起きていることを熟知していなければならない。脳はまた、その有機体を取り巻いている環境についても熟知していなければならない。その結果、有機体と環境との間に適切かつ生存可能な適応が達成される」76)とダマシオは言う。またダマシオは、情動や感情はけっして曖昧なものではなく、神経学的に具体的に記述することが可能であると考えている。認知に関する科学的説明が認知システムを扱うとき、情動や感情は思考の明晰な内容と場をともにするには適さないとすることや、脳科学における、情動と感情は脳の下方つまり極めて皮質下的なプロセスの中で生じていてそれらの情動と感情が修正を加えるものは新皮質であるという見解を支持することはできない、とダマシオは付言する。77)さらに、情動や感情の背後にある生理学的メカニズムを理解することは、情動や感情こそ人間的価値であるとする考え方と完全に両立し得るものである、と明言している。「デカルトの『情念論』によるところの、われわれを人間たらしめているものは思考、理性、意思による動物的傾向の抑制である、という点に同意する」とダマシオはその著書において述べ、「しかし、デカルトが非物質的媒体によってなされる抑制に目を向けているのに対して、人間という有機体の中に構築されている生物学的作用を思い描いている」との見解を示している。78)

おわりに
数年前から、「なぜデカルトは、悪の元凶のように非難されるのだろうか」と、疑問に思いながら「デカルトは、悪くないのではないか」と、擁護したい気持ちになっていた。デカルトが槍玉に挙げられるのは、彼の取り上げた論題が実は様々な多くの問題を含んでいるからであることを知った。それらはすべて私たちに対する問題提起であり、投げかけられた私たちはそれに立ち向かっていくか、あるいはそれを避けて通るか、いずれかの選択を強いられることになる。そして、その逃げ道は「そんなことをいうデカルトが悪い」ということになってしまうのだろう。私は、デカルトの著書『方法序説』にある「明証ならざることの論証」79)を、彼自らが行うはずが無いという確信から、検証を重ねその真意を明らかにしようと試みてきた。
ダマシオの論点は「それは思考、そして思考の自覚が、存在の真の基盤であることをほのめかしている。また、デカルトが思考を身体から完全に分離した作用であると考えていたことからしても、確かにそれは心、すなわち考えるものと、思考しない身体、すなわち延長と機械的部品を有するもの、との分離を公言している」80)、さらに、「私は心を脳と身体から分離したデカルトの二元論的概念に対しても、そしてその現代版、たとえば心と脳は関係しているがそれは心が脳というコンピューターのハードウェアの中を走るソフトウェア・プログラムであるという意味においてであるとか、脳と身体は関係しているが、それは後者の生命維持作用なしに前者は生きられないという意味においてであるといった考え方に対して懸念を抱いている」というものである。これはデカルトの心身分離の命題「われ思う、ゆえにわれあり」81)について述べるものであり、形而上学の問題に含まれる。これに関しては、先にも述べたとおり、アウグスティヌスの著書『告白』の中にも同様のものを見出すことができよう。また、諸子百家の思想家荘子の『斉物論篇』の寓話の中に、「わたし荘周は、自分が胡蝶になった夢を見た。ひらひら、はたはたと羽を動かす胡蝶である。この夢を見ているあいだ、とても楽しくて、自分が荘周であることなど完全に忘れていた。が、ふっと目が覚めてみると、自分は、あたりをキョロキョロと見まわしている荘周である。そこで考えたのだ。荘周が胡蝶になった夢を見ていたのか、胡蝶が荘周になった夢を今見はじめたのか、と。荘周と胡蝶のあいだには、明確な区別があるはずだと思いたいのだが、こういう区別があるのだと、どこで線を引けるというのか。これは、ものの変化とか、生死とか、すべてについて言えることである」82)と、よく似たものを認めることができる。「思う」ことは同時に「疑う」ことでもあり、デカルトが言うところのそれは、自分の思考の内の悟性を追求していけば、残るのはそのように思惟している自分だけであり、デカルトはそこから出発し、そこにデカルトの原点を見出すことができるだろう。さらに、ダマシオ氏の論点として挙げられている「つまり、ヒッポクラテスの時代からルネサンスまで優勢だった有機体的、心身一体的アプローチから医学の向きを変えることに一役買ったのである」83)に関していえば、むしろデカルトは、ヒッポクラテスに近い考え方であったのではないかと思われる。ヒッポクラテス(前459‐350)は、コス生まれのギリシャ最大の医者であり、在来の神院や民間の祭儀的・迷信的療法や思弁的医学に対して、経験的・科学的医学を創始した人であった。個々の患者の臨床的、観察的研究を第一とし、個人の特質と場所、年齢、風土、頻発的観察による予後の診断、そしてエンペドクレスの4元素論に結びついた血液・黄色胆汁・黒色胆汁・粘液の4体液の混合具合により健康と病気を区別する病理学、および自然の治癒力を助ける自然療法を考え、また、食餌を薬剤より重んじている。解剖については、動物と傷害などの偶然的内臓露出時の観察に限るとした、とある。84)デカルトは、ヒッポクラテスに類似した科学的であると同時に、未病医学ともいえる自然治療を行っている。記述によるとデカルト自身は、医者にかからなかったとある。口癖は「30歳を過ぎたら、自分の体は自分で管理できるものである」であったが、肺炎を併発して亡くなる時には自らの診断が誤りであったと告白している。デカルトは「私は、寿命をたもつ秘訣を発見するかわりに、もっとずっと簡単で、確実なべつの方法を発見しました。それは死を恐れないということです。」85)と、シャニュ宛の書簡(1646年6月15日)の中で語っている。最後に「もしアリストテレスが知っていたら、どれほどデカルトに悩まされたことだろう」というダマシオ氏の指摘は、私の見解と異にする。アリストテレスが一番心を悩ませたことは、自分の理論がキリスト教に利用されたことではなかったか、と私は推察する。アリストテレスは自然研究者であり、その探求者としての眼は、空間と時間に拡がった現実を常に見つめている。デカルトは多くのことを、彼に学んだ。科学は、古いものの上にさらなる研究を重ね、そこに新たな真実を積み上げて行く作業である。アリストテレス自身もそうであったし、またデカルトもそう望んでいたに違いない。プラトンは、ピタゴラス派の影響を受けて死後の魂の輪廻を考えたが、アリストテレスは、プラトンのような輪廻を否定し、死後の魂の行方を問わなかった。これは、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の思想を思わせる。アリストテレスは純粋に生命について考え、それを緻密にそして科学的に理論付け、人間のあり方として「何より中庸が大切である」と『ニコマコス倫理学』の中で述べている。86)そして、デカルトは、「愛」をモデルに実践的社会的道徳を説き「人はただ一人では生存できず、実は宇宙の一つの部分であり、この地球の一部分であり、この国、この社会、この家族の一部分なのであり、つねにみずからがその一部分である全体の利害を個人としての自己の利害よりも優先しなければならない。そうして自分を公衆の一部とみなすことがすべての人に善をなす喜びとなり、それが、人間が行うすべての最も英雄的な行為の源となり起源となるのである」(1645年9月15日)と書き記している。84)この現在の世界の状況をデカルトが垣間見たならば、どれほど嘆くことだろう。彼にとって自然的認識を推進することは、同時に人間の生来の人間中心主義を除去し、むしろ人間がこの宇宙の一部に他ならないということを認識させるものでもあったのである。これを付言しておきたいと考える。
ダマシオは「身体状態こそが、それが脳に戻って提示されたとき私が生きているという感覚の基盤とみなしているものを構成するものである」87)とし、心はたぶんある種の身体統合なしに考えることはできないと言う。ダマシオはその著書『生存する脳〜デカルトの誤り』をこのように結んでいる。「日常われわれが人間としてできるもっとも重要なことはわれわれ自身が複雑で、脆弱で、有限で、ユニークであることを思い起こすことだろう。魂の気高さと、重要性を保ちながら、それを架空の台座からどこかべつの場所に移す。魂の質素な生い立ちと傷つきやすさを知り、それでいてその導きを求める。それをしないなら、デカルトの誤りを正さないほうがよっぽどいいだろう。」88)
心は、感情(情動も含む)と精神をその中に包含しながら思考を形成し、一つの実体の中に存在している。身体は可分的であり、精神は不可分的であるというデカルトの言葉を借りるならば、身体の一部を失っても精神をも同時に失うわけではないとしても、身体と同じように精神も傷つくという事実は見逃せない。人間としての崇高な理性とともに、また傷つきやすい心を持ち合わせているという人間の特性は、社会を作り他者と共存して生きるという現実の中で、十分に考慮されなければならないと考える。
デカルトが私たちに提示した多くの問題は、未だ取り残されたままである。批判だけに留まることなく、私たちは深く人間の内面を探究しながら、“心の在り処”を明らかにしていく努力を続けていかなければならない。脳に心を預けてしまうことは容易であるが、それですべてを済ませてしまうわけにはいかない。「心と体は相関している」ということは疑えない事実である。そして私たちは、過去の賢人の途に学び、多くの新しい知識に触れながら“小さな躓きが大きな過ちとなる”ことのないように、心して歩を進めて行かなければならない。「われわれは、あらゆる点について確固たる証をもつことはできないにせよ、それでもやはり実生活上で起こってくるすべての事柄に関し決断し、かつ最も真実らしいと思われる意見を選ばなければならないのであって、それというのも行動するか否かが問題であるときにけっして不決断におちいらないことこそ肝要であるからでございます。じっさい未練や後悔のもととなるのは、この優柔不断をおいてほかにはございません。」(1645年10月6日デカルトの手紙)89)
このデカルトの言葉を肝に命じ、論文の終焉に記して、これを閉じるものである。

結論
ダマシオが言うように、感情のプロセスを考える時、情動や気分に関係する化学物質を発見しても、それはわれわれがどう感じるかを説明するのに十分なものではない。また、特定の化学物質が特定の感情を引き起こしていることを知ることと、どういうメカニズムでそういう結果が生じるかを知ることとは同じではない。このことを認識しておかなければならないと考える。「ある化学物質が特定のシステム、特定の回路、特定のレセプターとニューロンに作用しているのを知ることは、われわれがなぜうれしく感じたり悲しく感じたりするのかの説明ではない。それらが明らかにしているのは、物質・回路・レセプター・ニューロン、感情の作用関係であって、どのようにしてうれしくなったり、悲しくなったりするかではない」90)とダマシオが述べているように、感情の理解には身体を理解することが何より必要である、という結論に及ぶものである。心は何かとどこかで繋がっていなければ、その存在は明らかにされない。浮遊する心はどこか繋がる場所を求めているのかもしれない。

謝辞
いまだ完成されていない幼稚な思考を持ってデカルトという途方もない大きな対象に挑み、終始右往左往しながら進める論文作成にあたって、常に適切な助言と大きな心でご指導くださいました大東先生はじめ諸先生方に、心よりの篤い感謝を申し上げる次第です。あらゆる観点からの詳細なご指導は、私の狭い視野を広げさせ、それによって見えていなかった多くの発見を得ることができました。研究内容はまだまだ発展途上にありますが、これからも、さらに深く「よりよく生きること」の探究に努め“心の在り処を求めて”日々研鑽に邁進する所存です。
長きに渉るご指導ご鞭撻、ありがとうございました。

引用文献
1)デカルト著作集第1巻.方法序説第6部、p.62、白水社、東京、1973.
2)デカルト著作集第1巻.方法序説第6部、pp.62‐63、白水社、東京、1973.
3)デカルト著作集第1巻.方法序説第6部、p.63、白水社、東京、1973.
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10)デカルト著作集第3巻.情念論第1部25、p.178、白水社、東京、1973.
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参考文献
(科学関連書籍)
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多田富雄:免疫の意味論.青土社、東京、2006.
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J・O・アームソン(雨宮健訳):アリストテレス倫理学入門.岩波書店、東京、1998.
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S.プリースト(河野哲也訳):心と体の哲学.勁草書房、東京、2000.
ダニエル・デネット(土屋俊訳):心はどこにあるか.草思社、東京、2002.
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池田善昭:心身関係論.晃洋書房、京都、1999.
種村完司:心‐身のリアリズム.青木書店、東京、1998.
ジル・ドゥルーズ(鈴木雅大訳):スピノザ‐実践哲学.平凡社、東京、1997.
上野修:スピノザの世界.講談社、東京、2005.
服部英次郎訳:聖アウグスティヌス告白(上)(下).岩波書店、東京、1985.
市川浩:精神としての身体.勁草書房、東京、1998.
シュテーリヒ(草薙正夫・長井和雄共・長井和雄他訳):世界の思想史(上)(下).白水社、東京、1969.
北畠知量:ソクラテス‐魂の教育について.高文堂出版社、東京、2000.
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野田又夫:デカルト.岩波書店、東京、1998.
山田弘明訳:デカルト=エリザベト往復書簡.講談社、東京、2001.
小林道夫:デカルト哲学とその射程.弘文堂、東京、2000.
野田又夫:デカルト.岩波書店、東京、1998.
小林道夫:デカルト入門.筑摩書房、東京、2006.
近藤洋逸:デカルトの自然像.岩波書店、東京、1965.
森有正:デカルトの人間像.筑摩書房、東京、1979.
デカルト著作集(全4巻).白水社、東京、1973.
朴一巧:二コマコス倫理学.京都大学出版会、京都、2002.
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(計見一雄訳):肉中の哲学.哲学書房、東京、2004.
犬竹正幸:人間観.人間総合科学大学、埼玉、2001.
アンリ・グイエ(中村雄二郎訳):人間デカルト.白水社、東京、1990.
パスカル(由木康訳):パンセ.白水社、東京、1990.
荒川紘:東と西の宇宙観西洋篇.紀伊国屋書店、東京、2005.
荒川紘:東と西の宇宙観東洋篇.紀伊国屋書店、東京、2005.
プラトン著(田中美知太郎訳):ソクラテスの弁明ほか.中央公論新社、東京、2002.

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