サナトロジーについての私的考察
2006/7/29 うんむらふま
サナトロジーとは、死についての研究領域を総称する言葉である。ビオス(bios=生命)について語る学問が“生命科学”であるならば、サナトス(thanatos=死)について語る学問は“死科学”と言えるだろう。では“死とは何か?”全身死は生物の生活現象の永久停止、固体individualの消滅であり、固体の消滅は、固体の代謝の停止である。死は生の終焉でもある。サナトロジーの研究対象は「死(death)」と「死にゆく過程(dying)」の両面をもっている。
『平家物語』に見る死の受容は興味深い。「死の受容」は病気に限ったことではなく、戦いにおいて死ぬ者にとっても否認・怒り・取引・抑鬱・受容の五段階のプロセスがあると考えられる。壇ノ浦の合戦において、宗盛は猶予のない戦場で死を「否認」し続け、挙句の果てに生け捕りになってしまう。宗盛の生命に対する執着の見苦しさは、人間本来の本能でもあろう。教経は「怒り」を炸裂させ無益な殺傷を続け、挙句敵を両脇に抱え興奮の中に入水する。死を素直に受容できない死の「否認」である。一方、覚悟のできていた知盛はいささかの見苦しいところもなく、親族の死を見届けながら自身も武士としての名誉を守り、身辺の整理を終えて死を迎えるのである。清盛の死に際して時子は、清盛に遺言を聞く。死の告知はタブーではなく当時としては常識であり、死ぬことに対して本人にそれを伝えなくなったのは医学が進歩した近代以降のことである。死ぬ前には、それなりの身辺整理もあり、また死後の魂の平安のためにも特に霊的な面での死の準備は必要である。
『太平記』に見る、善玉の象徴的人物である楠正成は、従来の仏教倫理に反して極楽往生より輪廻を繰り返す人間に生まれ変わることを、そして魂の平安の世界より汚れた煩悩に満ちた世界であっても人間としての人生を、選択する。いかに武士としての死を全うするか…死後に戦う武士としての人間を選ぶのは仏教では罪深いことであるが、このように仏教でいう極楽往生は当時の倫理に沿った建前で、本音はあくまでも人間の世界にあるのである。自分自身の死を考える時、自分らしい死の選択も一つの方法である。どのような死を選ぶか…名誉ある死・誇り高い死・一人の人間としての死・個人の意志が尊重される死…。日本人の精神伝統としての「生死一如」における生と死は非連続的な連続であり、死は時間の流れの中の“点”であるが、また同時に連続した“線”でもある。この点と線は非連続でありながら、深い次元において“連続”している。この“連続”という深い次元において、<魂>が重大な意味を帯びてくる。
日本最初の仏教説話集『日本霊異記』に見る、当時の死後の世界観は「肉体は滅びても霊魂は滅びず、ただ肉体から遊離するのみ」とある。また蘇生説話においては、誰もが生前の悪業により地獄に堕とされるが、善業によって蘇生するパターンとなっている。その蘇生の絶対不可欠の条件として“もがり”による遺体の保存が考えられていた。蘇生説話には死体の保存を示す遺言・託言を残す場合が多くみられ、蘇生までの日数も最長が9日というぎりぎりの日数が示されている。(その後“もがり”は禁止された。)
梅原猛は「魂こそが生あるものを生あらしめているものであるが、死はこの魂が生あるものから去ることを意味し…、魂が生あるものから去るがゆえに、それは“死ぬ”のである。」と語っている。そして、縄文文化が日本の基層文化と考え、その文化を明らかにすることによって日本人の魂の構造を考えようとしている。
フロイトもまた“魂の構造”や“魂の組織”について語っている。フロイトは無神論者ではなく、紛れもないユダヤ人であり、もちろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちを持ちながら、社会的にはカトリック教会にも親近感を持っていた。フロイトは第一次世界大戦によって、これまで最も信頼をおいてきた近代的知性に対する幻滅を味わった。フトイトは生涯を通じてユダヤ人ゆえの差別や社会的な制限に強い不満を抱きながら、精神分析がユダヤ人の特殊な思想として見なされるのではなく、広く世界に受け入れられることを何よりも望んでいた。フロイトの仕事は、人間の魂の世界をできるだけ完全に理解することに向けられており、精神分析は魂にささげられた心理学の一分野だったのである。
ソクラテスも魂について多くのことを語っている。死刑が宣告され脱獄を促す弟子たちに対して、ソクラテスは「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくてよく生きるということなのだ。」と、自ら毒杯をあおる死を選択した。「思慮と真実に気をつかい、魂をできるだけすぐれたものにするように心を用いよ。」という言葉通り、それは“自分が自分であろうとする魂のあり方に従った”行為だったのであろうと思われる。
“明日のことを思い煩うな、明日は明日の風が吹く”−今日と決別して新たに明日を生きることは、洋々として前途に向かってゆくポジティブな生き方を示しているように思われる。また一方、“今日できることを明日に残すな、今日を精一杯生きよ”−この命には終わりがあり、それがいつどこでということを私たちは知り得ない。死を平安と共に迎えるために、今日という日を充実して生きるということもまた、ポジティブな生き方といえるだろう。死後の世界に想いをはせずとも、死後の魂の行く末を案じなくとも、あえて死と相対的に生を論じなくとも、“よく生きること”を思考することは可能である。生きることは包括的に死の受容を含み、死に際して自分がどのようでありたいかという想いを内に秘めている。死をどう受け入れるかは、どのような生き方をしてきたかということに集約されるのではないだろうか。あらゆる場で死をタブー化せずに、“如何に生きるべきか”と同じように“如何に死すべきか”を語り合う姿勢が、現代を生きる私たちには必要と考える。きっとそこから、さらに深い意味を持つ“サナトロジー”が展開されていくに違いない。


参考文献
関根清三著『死生観と生命倫理』東京大学出版会、1999年
佐伯雅子著『中世の日本文学』人間総合科学大学、2000年
宇佐美正利著『思想史』人間総合科学大学、2001年
島田涼子著『人間関係論』人間総合科学大学、2001年
北畠知量著『ソクラテス−魂の教育について−』高文堂出版社、2000年


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