円柱亭(日本イスラム教団)
 私が約十年間、マレーシア、エジプト、リビアと留学していた間に、日本イスラム界では、シャオキー二木秀雄氏率いる日本イスラム教団が突如現れ、一世風靡した。その活躍ぶりは海外へもニュースとなって届いてきていた。残念ながら、留学期間中、私はわずかに結婚報告とハッジビザ申請に帰国したくらいで、結局日本イスラム教団の方と一度も接触することはないまま、留学を終え帰国した。その後も接触のないまま、二木氏の他界により日本イスラム教団の名前は聞かなくなり、今日に至った。一世風靡した日本イスラム教団とはどういう団体だったのか、今となっては調べようにも、意外と資料が残されていない。ところが、今年になって『円柱亭日記・・・町医者”円柱”と闘う』という書籍を手に入れた。目を通してみると、当時の日本イスラム教団の様子が描かれたものをいくつか発見した。後の人に残すためにも、それらを紹介しておこう。
 まずは巻頭にあった写真のなかから、次に当時の円柱亭の様子がよく描かれている荻野須美子の『高きを吹く風のように』を全文紹介しておこう。その他の投稿も若干載せておこう。
『円柱亭日記・・・町医者”円柱”と闘う』
昭和56年6月20日発行、定価1500円、監修;二木秀雄、発行者;宗教法人日本イスラム教団、製作;さきたま出版会
東京都新宿区新宿3-21-6 龍生堂ビル7F 電話03-350-6961
在りし日の日本イスラム教団写真
円柱亭で会員に囲まれるシャオキー二木氏(中央)と二木氏のサイン。
円柱亭礼拝所でミフラーブをバックに撮影。
『高きを吹く風のように』 荻野須美子・・・円柱亭日記40ページ〜60ページ
 お正月の書初めのような紙が、診療所の待合室に垂らしてあり、「○は存在である」と、書いてあった。○をゼロとよませてある。これは、二木先生の言葉と書だということであった。○(ゼロ)の字に、禅味というか、なんともいえぬ味があり、それから、この言葉が私の脳裏を占めることになる。
 私は、主宰している北浦和文化ホームの絵画展をはじめて銀座で開催したのだが、八年ごしの腰痛がまた起り、会場で動けなくなり、この日、知人に奨められ、始めてロイヤル・クリニックへやって来たのであった。
 古びた細長いビルの、三、四階へん、通路にまで患者がひしめき、先生がたをはじめ、看護婦、職員に、きりりとした緊張感があり、つられて老いた患者たちも、ぼやぼやしては居られなくなる。
 大先生のニ木博士は、巨体にステテコ、白衣という姿で、患者の訴えに、ヨシ、ヨシ、なおしてあげるよ、と言われるお声が実に優しく、川西院長先生は、ずっと若い方だが、お二人とも、なんとも笑顔のよい人であった。この大先生が、頭痛や腹痛の患者を、順番通りに待たせておくようなことでもあると、なぜ早く廻さんのか、と、患者の面前で看護婦を、バッシバッシとどなりつけることがあるそうだ。
 ・・・・・こりゃユニークなところだ、と私ば思った。
 
 そのうち、六階で、イスラムの礼拝をやる日がある、と聞き、見学することにした。
 私は、二十年前、キリスト教の洗礼を受けてから、不思議なことに仏教や、インドの原始仏教とかゾロアスター教など興味を持ちだしていた。イスラム教にも、大いに興味をそそられたのである。
 金曜日であった。狭い部屋には、メッカの方角にグリーンの布がつるされ、男牲は白帽、衣性は白布をかぷり、日本の青年がコーランの呼びかけをし、肌の黒いい異国の人が経文のようなアラビヤ語を唱えていた。

『アラビヤ語のコーランひびかい身を屈し投げうつ祈りよ かく祈るなに』

 帰りがけ、人々の間に劇作家の阿木翁助さんのお顔がみえたので、「砂漠の民というのは、あんなに身を投げうつほどの思いで祈らねばならなかったんでしようか。何だか大げさな祈りのようも思えますが・・・」と、私は伺ってみた。「いや、あれは祈りではありません。あれは神への賛美です・・・」と、阿木先生は答えられ、この言葉も亦、私のこころに残った。キリスト教の祈りも、先ず神への賛美のことばからはじまるのだ。
ロイヤルクリニックのお二人の先生を始め、職員にもイスラム教の人が多く、患者も自由に入信する人がいる様子であった。○(ゼロ)は存在なり、と言う大先生の言葉も、ここから来ている大思想というか哲学というか、当分のあいだ、私は夜もねむれずこの言葉を考えていることがあった。たいへんな言葉に巡り合ってしまった。

 大先生の注射を、背から足先まで受けるようになって年も経ったころか、腰痛や坐骨神経痛もとうになおっており、八年間のコルセットもはずした。そのころから「いきいきした」とか、「若返った」とか言われるようになった。十五年まえ、夫の死の後、看病疲れから発病して以来、わたくし自身よりも、傍から見ていて、再起不能ではないかという印象を持った人もあるらしいのである。左足を引ずり、ときに失喀血をし、皮膚癌になり太股を二ヶ所も切るというような有様だったのだから。それ迄、人につきそわれて旅行をしたり、パリにも行ってこられたのは、独りきりになりてしまった私を、生きているうちに・・・と言う配慮が、まわりの者にもあったせいであろうと思う。驚くほどの再起がなされたのだ、と、今となっては思うのである。五年前のことになる。

昭和五十四年正月を迎えた。
そのころ、ロイヤルクリニックは、私に言わせれば、患者が渦を巻いている、という状態であった。背中の曲りや、足腰の痛み、ぎっくり腰、むら打ち症などが注射で奇蹟のようになおる、という評判のせいもあったであろう。そのうちに、竜生堂ビル七階に、イスラムの礼拝堂が移転した。そこを、大先生が円柱亭と名づけられたのである。曲った背骨を、大先生は円柱と呼ばれ、この背骨が注射によって不思議なことに伸ぴる、というのが評判になっていたのであった。

 阿木先生の解説によると、「円柱会」は、二木先生、川西院長先生のご教訓、「丸い背中を伸ばす」「足腰の痛みには、適当な運動が必要」「脳の前頭葉を働かし文化活動で老化を防ぐ」に基づいて病気を克服するばかりでなく、「若返り」と、「長生き」を図る会である。つまり、円柱亭は、ロイヤルクリニックの患者による円柱会の集りの場所となり、ロイヤルクリニックで治療の後、ここでさまぎまな文化活動に参加できる仕組みになったのである。こりゃユニークなところだ、と、また私はつぷやかずにはおられない。この円柱会に、さまざまなご用をするための世話人がきめられ、私もその人となり、時々円柱会に出かけることとなった。

『激動の陽は昇りたり’80年我ら大同イスラムをゆく』

 これは、この次の年に、年頭の賦として、川西先生の詠まれた歌であるが、「激動の陽」とは、世界状勢とか日本の状況などは勿論と思うが、さらに奇しくも五十四年から次の年へかけての、ロイヤルクリニックと円柱会におとずれた怒涛のような試練のあらし、を言い得ていろように思える。

 イスラム教は、ロイヤルクリニックと円柱会のバックボーンのようなものだから、医療活動に宗教を標榜したり、強要するようなことは少しもないのだけれど、この三つは不即不離の関係にあるから、円柱亭を語ろうとすれば、どうしてもこの三者を語ってゆくことになる。私はイス7ム教に入信しないクリスチャンであったが、ここに流れているイスラムの精神には深い共鳴を覚えていた。

 私は、週にー度のお当番の日に、先生方の話されたことをメモし続けてきた。その記録を読み返してみるとき、いつもそこに、医師と患者をむすぷ精神的なものが脈々と感じられて感激するのである。私は、ひとりの患者として、私が見てきたロイヤルクリニックと円柱会の歩みを誌してみたいと思う。

 昭和五十四年一月二十六日、ロイヤルクリニックは、大きな試練に見舞われた。
 ロイヤルクリニックは、新宿、歌舞伎町界隈に夜はたらく人々のために、夜遅くまで開いている診療所として、当時の会長藤森作次郎氏の要請によって始められた。ロイヤル会は、現在の円柱会の前身にあたる患者の相互扶助の会であったが、五十二年藤森氏は亡くなってしまった。

 この日、院長先生のお話は、こうしたロイヤル・クリニックの成立にはじまり去年の暮から東京都の医療監査がきびしくなり、様々な面に、悪意というよりほか思いようのない程の調査が行われている、このままいったら、診療所は重大なことに立到るかもしれない、と言われた。大先生も、何かのときは皆さん頼むよ、と言われる。両先生の口調は静かであったが、なにか沈痛な胸を打つものがあった。このとき私は、なにものかに、つき動かされたように、自分でもびっくりするぽど、不意に立って前後の見境もなく発言をしたのである。どんな発言であったか、今となっては覚えていないのであるが、そのとき、座っていた患者の中から、ひとりのお年寄が、打てばひぴく、というように叫んだのである。「もし、ここのロイヤルがなくなるようなことにでもなったら、あたしたちは、死ぬんだョ、死ヌンダョ…、」いっしゅん、ぎょっとする程の、それは大きな声の響きであった。

 これがきっかけであった。患者たちは口々になにか叫ぴ、大先生は……大先生は、大粒の涙をこぼされ、両手でお顔を、じっと覆われた。それを見たとき、私の両眼も急に熱くなり、息者をふくめ、円柱亭全体に、名状しがたい震えにも似た感動の渦が走ったのであつた。ロイヤルクリニックのためなら座りこみでも陳情でもなんでもやります、まず署名だ、署名だ……、と言う声もあがった。もう一度立たれた院長先生は、「皆さん、ありがとう……」と、ひとこと言ったきり、絶句された。滂沱と涙を流されたのである。そして午後には、「ロイヤルとわれらの命を守る会」が、患者によって結成された。まるで、こんにちある事を二木先生が予見されてでもいたように、円柱会の世話人達は整然と動きだしたのであった。中根べんさんのように、商売柄人の集まるお店とはいえ、一夜で四百人の署名を集めた人もあり、三日間ほどで約二万人にのぼる署名が集まってしまった。北崎辰雄さんを代表として、都庁へ厚生省へと患著が連日陳情にゆくようになり、二月になり私も、厚生省医療課長に逢う日に参加した。北崎さんは能弁に、大臣は、いかなる理由により医療機関の取消を決定しようとしているのか。大先生のイスラム診療所は、イスラム連帯のカで始まったので、ここに働いていた十名の医師が圧力によって全部辞めた現在では、診療は事実上停止しており、このため、ゆゆしい国際問題にまでなろうとしておりますぞ、と肉迫する。老いた患者たちは、さんざ他所の病院を廻って見放された痛みが、嘘のようになおるこのロイヤル・クリニックが、もし無くなったら、私たちは死ぬよりほかはない。ロイヤルには、足をむけては寝られない有難い先生がたなのに……と、とつとつとして涙ながらに訴える。

 医者を告発する陳情には慣れている役人も、病院のために涙を流す集団にはまいってしまったのではないか。このようにして、三月には、厚生省や外務省へ、こんどの事件の抗議のために、世界イスラム会議(モタマル)のイナムラ・ハーン事務総長、前インドネシヤ首相のナシール副会長などが来られ、その甲斐もあってか、事は落ちつくかにみえた。ロイヤル・クリニックにも円柱亭にも静けさがもどり、円柱亭では玄米粥を患者に試食させ、長生きのコツなどを教えて下さる。

 私は四月から五月へかけ、中国旅行をして円柱亭を休んでいた。五月二十二日、突如、ロイヤルタリニックの健康保険取扱取消がNHKの二ュースで流れ、びっくり仰天、また円柱亭へかけつけた。しかし、これは、すぐ対応したロイヤル・クリニックの処置により、保険医取消の執行停止命令が裁判所から出されたのであった。高裁が、東京都との間に入って和解へ、との話も出たということで今度こそ、円柱亭には平和な明るさがもどってきた。

 事件の最中にも、円柱亭は変ることなく、さまざまな新しいアイデアによる文化活動をひろげていた。書道や謡曲などは、ずっと前からの教室であったが、その後、永の江瀧子さん指導のリューマチ・ダンス教室や、医学講座、日本舞踊、茶道、華道まで取り入れて、毎日、円柱亭はにぎやかであった。七月になり私は大先生の要請により、短歌教室をひらくことになった。

 七月十三日、また大先生はバクダン宣言をなさる。 本日ただいま、政治結社、第三世代党を創設する、というのであった。第三世代党は、他にさきがけてPL0(パレスチナ解放機構)を認める政党として、八月歌舞伎座において結成式、イスラム圏の大公使出席の晴がましい席で、サゥラ・サゥラ・ハッタン・ナスルの大合唱をする。こうした精神の躍動するような日を過すことによって、老いた患者の円い背骨は精神的にもシャンと立ちなおるのではないのか、三波春夫さんの歌謡の合間に私はそんなことを考える。

 九月になると、北崎長雄さんが、第三世代党から衆議院へ立候補した。ビラくばりなど、皆協力したが、やっぱりこの新人、選挙には負けてしまった。九月から十月へかけ、川西先生の医学ことはじめのお話は面白かった。ギリシャ医学の医聖と云われるヒポクラテスという名の医者は七人も居たとか、アレキサンドリヤ医学の最高峯であるエラシストラトスの、静脈は血液を運び、動脈は空気を運ぷという説が、古代医学のもう一人の巨像と云われるガレヌスという人に引きつがれて、生命精気説として、千年もの間、医学の主流となってきたとか、日本の古代医学では、西歴四百十四年というから千五百年以上も前に、朝鮮から全武という医者がきて、允恭天皇の潟血をしたことが一番古い記録にある、など私たちにもよく分るお話だった。

 十一月十八日、明後日にはイスラム圏へ国賓としてご出発になる大先生の壮行会が行われた。サウジのメッカの神殿が過激派に占領される事件が後に起った頃で、みんな大先生の壮途を深い祈りの心で送った。始めてまだ間のない短歌の会員が、心をこめて壮途を祝う歌を捧げたのであった。

 健康保険扱い取消の裁判は続けられているときいたが、ロイヤル・クリニックにも円柱亭にも何事もなかったように、いきいきとした毎日がもどり、昭和五十五年を迎え、さきに挙げた川西先生の歌が発表されたのであった。はじめ三名だった短歌会は十八名となり、毎週、その発表を円柱会の人々は熱心に聴いて下さるのであった。聴いて貰えることにより短歌会のメンバーの腕も上るというものである。

 この年、イスラム暦の十五世紀にあたり、ムハンマド生誕祝賀の大野外礼拝が、代々木の森の二月の寒風にも負けず、約千人が集まり挙行された。老いた患者のイスラム教徒たちも、若ものにまじり、一歩も引かじ、という態度で冷たい大地にぬかずいていた。四月、第二回コーラン世界コンテスト朗誦大会が、サウジのメッカにあるとて、サーレ後藤が初参加の予定であった。が、教団の行事多忙のため次回に延期とのこと。でも会員はサーレ後藤の日本人離れしたコーラン朗誦に讃辞を惜しまない。

・イマームのサーレ後藤の美しき声にはればれ意味分らずとも
                          大塚照子
・メッカにも続く代々木の空の下サーレ後藤のアザーンは響く
                          前田シズエ

 四月十一日、イドリスノさん(インドネシヤより派遣されている新聞記者)が、一足先にイラクから帰り、海外での大先生の活躍の有様を、慣れない日本語をあやつり熱情をこめて話す。

……大先生ハ、世界ノ大切ナ人トナラレマシタ。ミナサン、大先生ヲタイセーッニシテクダサイ」十八日。

一昨日大先生帰国。今日円柱亭でお話なさる。少しお顔がむくんでみえるがお元気。「久しぷりに帰り、やっぱり日本はいい。イスラムの凄さを悟ったが、アメリカやヨーロッパの植民地として、かって、ひどい目にあっている彼らの、日本への期待は大きい。日本を盟主にしようとしている。キプロスからイラクに入るとき、通訳のアッバス君(アラビヤ人)を入れてくれなくて困ったが、あとで聞いたら、イラン・イラクの紛争が起っていたのだ……」吉田清貫先生も語る。「大先生と、イランの飛行場で四時間待っていた。そのとき、イランのデモ隊が、イラク航空会社のガラスをたたき割って大暴れしていた。イランとイラクは昔から仲がわるくて、よくこうしたことがあるらしく、一般の人は全く無関心であった」こうしたお話を伺ったが、この年は外国のお客様が益々多くなった。

 キプロスの大統領をむかえて、ホテル・オークラでのパーティ、または、壁画のように横顔の美しいエジプトの柔道選手とか、民族衣装の珍しい大男の肌の黒いお客様は、ナイジェリヤとか、トルコ、キプロス、インドネシヤ、イラクなど、それも高位高官の人が多く能弁である。大先生も何度となく海外にお出かけになる。こうしたことが日常的に行われているので、集まる人々には、国際感覚的なものが自然に身につき、アラビヤ語なども平気で口をついて出てくる様子、短歌のなかにも当然それが人ってくる。

・イスラムの講座でおぼえしアラビヤ語マッサラーマ、ショクランと楽しく使う
マッサラーマ(さよなら)ショグラン(ありがとう)    藤松延子

・異国の肌色かわれムスリムは言葉なくとも心かよえり
                            票木かずえムスリム(イスラム教徒)

・辛やかにデンクタシュ大統領の歓迎式興奮醒めやらずゆく雨あがりの夜道
                            川田久子

 ちょうど、短歌部が出来て一周年を迎えたとき、大先生のお薦めで、とうとうイスラム合同歌集『あをのひびき』が出版されることになった。歌数二百四十四首、出詠者三十三名、感激であった。思いがけない天よりの恵みでなくてなんであろう。このように、大先生は、もっぱらイスラムのために活躍されていたが、ロイヤル・クリニックの方も、ロイヤルの診療に共鳴なさって、肝臓の大家であられる池谷潤先生が週に三度お出かけ下さり、相変らず押しよせる患者たちの間で、川西院長は、一日のお休みもなく奮闘されていた。

 七月七日、日本イスラム教団の東京大マスジット(モスク)が、江東区有明の地に出来るというので地鎮祭がある。これは、イラク共和国サダムフセイン大続領の全面的なバッグアップにより実現されたもので、イラク・オカフ省や竹中工務店、竹中土木などの協力がある、と、聞かされて、会員たちは、またもや夜もねむれなくなる程喜び合うのである。これに引つづいて、八月十五日。歌舞伎座で、「イラク共和国サダム・フセイン大統領を讃える 8月15日 INJAPANイスラーム」の会が催された。大統領の名代で来日したオカフ省ヌーリ・ファイサル・シャヒール大臣のイマーム(導師)によって、実に二干人の集団入信式が行われた。

 昭和五十六年。去年の年末から、第三世代市民大学が発足した。阿木先生の作文教室や、山本祥一朗先生の文学教室が加わり、一段と各教室の内容が深くなったようである。阿木先生は市民大学の学長であり会員は大学生といったところである。会員は定着して、毎日なにかの講座があるので、忙しく円柱亭に通う、ということになる。ちかごろ、私の身近な者たちが、いじわるを言うのである。「初めの頃は日柱亭にゆくのをしぶっていたくせに、この頃は、いそいそと通うじやないの……」

 六月に、モタマル世界平和促進会議が日本で開かれることになり、円柱亭はモタマル道場ということになった。診療所ぐるみ、円柱亭ぐるみ、いま、そのための準備に怠りない。この会議でMIPAC(モタマル世界平和促進運動)が推進されることになる。大先生と吉田先生のお役目はますます重くなるようだ。去年の秋、日柱亭の帰りに、作家の井上靖氏の文化講演をききに行った。旅の話であったから当然シルクロードの話題になった。

 アフガニスタンのクシヤン遣跡からは、ハッダの塑像やガンダーラの仏などが出て来て、拝火教と仏教が同居している。ここに世界中の考古学者が集まって掘っているが、五、六年経っても何も分っていない。西域の遺跡は、五・六十年もかからなければ分らないことばかりで、分ればアジアの歴史が変るかもしれない。紀元前一世紀にシルクロードは紹介されている。というようなことから、人生とは亡びにむかって傾斜してゆく長い過程である、と言った人があるが、文明も亡びにむかって傾斜してゆく長い過程なのだ。という話の後、こうした言葉を語ってどうかと思うが、と言い、次の様に結論したのである。それは、キリスト教文化、仏教文化が世界に文明をうちたててきたが、今後百年ののち、イスラム教文化が世界を風靡することがないとは言えない。私はこの言葉をあるとき大先生にお話をした。すると驚いたことに、井上靖氏は大先生の四高の後輩であり、シルクロードを書いている彼に、イスラムを研究せずにシルクロードを語る資格はない、と言ったのが大先生であったということである。そうか、井上がその様に云ったのか、と大先生は喜ばれたが、この円柱亭に居ると、ひたひたと揺れ動いている世界の状勢を身にじかに感ずる心地がする。

 ことしになり、大先生は少し体調をくずされたこともあり、海外のお仕事は古田宗務総長その他の方々が専心なさり、大先生はまた、全面的に医療にもどられた。特に円柱と取りくみなさり、はっきりデータを取ってみると、数回の注射で何センチか身長の伸びることがさらに立証され、改めて驚きの目をむけている人が多いのである。

 先日も、吉田総長がしみじみと次の様に語られた。「昔から大先生を知り、また開業医のことも沢山知っているが、ここの医者と患者の結ぴつきほどのことがこの世の中にあつた、ということに感動している。」美しいことだ、大切にしていかなくてはいけない」
 本当は、背骨が伸びるのと共にもっともっと、大切なこともここでは行われているのだ、と、私は思っている。高きを吹く風のように、と、私は思う。このいきいきした熟年たちの、元気な楽しげな、にぎやかさのなかに、私は、高きを吹く風のように澄んだものを、ときに感じとることがあるのだ。
     荻野須美子
砂田はるみ(72歳)・・・円柱亭日記103ページ〜106ページ
 私の腰痛は、十年前(昭和四十六年)に尾道におりました折、ちょっとしたはずみで転ぴ、尾てい骨をひどく打ったのが始まりでした。二年間、注射、牽引と手を尽しましたが、尾てい骨の極度の変形が脊髄に影響しているということで、なすすべもありませんでした。立つ、座るはもとより、歩くことも自由には出来ず、このままになってしまうのかと、歯がゆく情げない思いを幾度したことでしよう。
 その後、家庭の事情で四十九年上京、娘夫婦の住む杉並に居を定めました。
 そしてある時、不自由な私の立居振舞いをみて、同じ杉並に住まわれる今泉よしさんが、ご親切に二木先生をご紹介下さったのです。忘れもいたしません。その初めての時。「骨の変形は完全には治らないが、痛みは、とってあげるよ」と二木先生がおっしやいました。それまでどのお医者様からも、変形が原因で痛みをとるのは無理と聞かされ続けていただけに、この二木先生の一言は、私にとって何よりの支えとなりました。夢中で通った一週間、気がつくと痛みはまるで消えた様になくなっておりました。そして半年もたたないうちに、孫を昔負って歩ける程になったのです。娘も、ムコも、そして今泉さんも、本当に手を取らんばかりに喜び合い、感謝したものでした。郷里の知人達も盆暮に帰る私をみて、”姿がよくなった”とか”五つ六つ若くなった”とか、それは大変な感心のしようでした。これも”痛みをとる”ということにかけた二木先生の信念と、他の大病院や博士に真似のできない独自の治療を、私達患者に親身になさって下さるお蔭と深く感謝しております。
 この二木先生の自信にあふれた診療活動に、多くの患者はどれだけ救われたことでしょう。そんな先生のお人柄と実行力に魅せられ、私もイスラムに帰依させていただきました。ファヒーマ(分別あるもの)という荷の重いお名前をいただき、日々アッラーに襟を正し、年相応の分別を身につけたく、二木先生の後を、けがすことなく歩み続げたいと希っております。また、二木先生への感謝の気持をのべる時間も、お忙しい先生を拝見しておりますと遠慮がちとなり、同じ様な病む苦しみを待つ方をご紹介することが感謝と考え、以後、折あれば、ご紹介して参りました。
 そんな中で、私も共に嬉しかったのが今春高校に晴れて入学した一女生徒のことでございます。彼女は、幼時より喘息がひどく、ややおとろえて入退院のくり返し、父のいない家庭はママが稼ぎ手、おばあちゃまがそれこそ真綿に包む様に看病しておいででした。中学入学当初からは、病院から通学するという有様でした。そのお嬢さんをお連れして、のど元にあの痛いお注射をプスプスと打つところをみた時は、どうなるかしらと思ったものです。ところが、お嬢さん自身がお注射をしていただくと楽になるからと、積極的に通って下さって、付きそいのおばあちやまがぴっくりなさる程の回復振りでした。半年位からは、注射も間をあけてもよくなり、去年の春頃からは発作もすっかり止み、家中に笑いがもどった暮しとなりました。そして今春、目出度く高校入学がきまり誰よりも先にお報せしたいと、おばあちやまが先生のところに御報告にみえました。一人の若い女の子の人生を、あの暗い闇の毎日から光りかがやく道にひき出して下さった先生方のお力を、私どもはただ有がたく感謝いたしております。どうぞ今後共、アッラーの御加護と共に、私共患者にあまねく光りをお与え下さいます様、ここに感謝の一文を誌します。
あとがき。。。。日本イスラム教団宗務総長 ハーキム・吉田清貫 136ページ〜139ページ
 私とドグター・シャオキニ木との交友歴は三十五年に及びます。私自身、東京大学医学部の出身ではありますが、戦後、アメリカから押しつけられたインターン制度に反発し、反対運動の委員長に祭りあげられ、ひと暴れした結果、国家試験は受けずに終って、とうとう医者にはならず、畑違いの財界に身を投じて、四十年の歳月が、瞬く間にすぎた次第です。
 大学で学んだ医学に対する情熟を、発揮する場を持たずして、年を経たことに対して後悔した日もありましたが、それはそれとして波荒き財界で、七転び八起きの体験もしました。今をときめくクレジットのJCBに、当時のアメリカの信用販売システムを導入して、成功の墓盤を作ったのも私と自負しておりますし、その他にも、各種の会社を設立してまいりましたが、どういうものか、創りあげてしまうと、興味を失い、後進にゆずってまた創業する、というくり返しでした。そしてよくあることですが、大きなつまづきを経験したことも、今の私に、大変プラスになっているようにも思います。また、自分自身、他人ごとのように思っていた交通事故に遭い、生きているのが不思議に思えるくらい、生死の間をさまよったりしたものです。

 このような経過のうちに、ドグター・シャオキニ木には、時には励まされ、ある時には叱られ、深い敬愛の情を感じてきました。折も析、私が挫析感に打ちひしがれていた某日、「0(ゼロ)は存在である」というイスラムの教義を、彼、ドクター・シャオキから聞かされました。その大きな宇宙観に、私はそれまで以上にドクターを信頼し、尊敬して、直ちに入信しました。そして宗務総長という大役に、身の細る思いながら、 政財界、医学界にも、多少の友人知人もわりますので、ドクター・シャオキの大きな使命感に立脚した仕事に、微力ながら少しでもお役に立てばと、積極的に行動している毎日です。そんな明け暮れの中で、円柱亭でのドクターと患者さんとのやりとりを目のあたりにみることが多くなりました。かって、自分が医者として世に出たらばと理想に燃えた日があります。その後も、友人知人の開業医の中に、仁術ならぬ、あからさまな姿に接したこともあります。また、ドクターの医療方針を、直接、見聞するに及んで、幾度、目を見張る思いにさせられたことでしよう。ただ、今の日本の医療制度の中で、これほど真摯に、患者の痛みを解り、そして文字通り日曜祭日もなく、治療に専念している医者がいるでしょうか。そんなドクターの話を伝え聞いて、都内はおろか関東一円、遠く北陸中部、いや日本いたる所から、往復何万という旅費をかけながらも、「あそこに行けば、治るんダ」と、人が人を呼ぶ。そしてここ円柱亭には、そんな熱い感謝のまなざしをドクターに向ける、多くの患者が集まり、美しいふれあいが生れています。私は、今の医療制度の中では、けっして生まれ出ることのないであろう、この関係が、私がかつてドクターを信頼し、尊敬し入信したように、あまたのイスラムへの入信という形になって感謝が具現されていくことに、宗務総長として、この上ない喜びを感ずるとともに、今後のイスラム教団発展のためにも日々、円柱亭に見える患者達と交流しながら心のひだを埋めるお手伝いをして行く心算です。
 昭和五十六年六月二十一日から四日間、モタマル世界平和促進運動(MIPAC)国際セミナーが、東京・京王プラザホテルで開かれます。このセミナーには、イスラム世界の実力者が三十六力国から百名あまり参加して十億人のイスラム教徒を背景とする新しい平和運動が、ドクター シャオキにより提唱されますが、その意義は、永く歴史に刻まれることになりましょう。その成果については、いずれ次の機会に詳しくご報告いたします。そして今、苦しみから喜びにかわった体験記と、生々とした円柱亭の日々を一冊の本としてまとめる運びとなり、編者、荻野須美子さんを始め、さきたま出版の星野和央氏、また資料と原稿の整埋に忙しい中を御協力項いたロイヤル・クリニックと円柱亭スタッフの皆さんに厚く御礼申し上げます。