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享楽の街の中で、“DREAM”という店もその例外ではなく、暗く湿った室内には淀んだ活気が満ちていた。
「思ったよりずっと大きな店だなあ」
ラルフは素直に感心の声を上げた。
「ゲイ専門の店だっていうから、もっと小さくて奥まったとこに建ってんのかと思ってたよ。カウンターしかないみたいなさ。でも、これじゃカウンターに近づくのだって大変だ」
「キョロキョロすんな、怪しまれる!」
小さな声で叱って、ローリィは親友の頭を軽く小突いた。今夜はやむを得ぬ
事情であるから、顔には似合うけれど絶対に着たことのなかったシルクのブラウスなどを羽織り、伊達メガネをかけてラルフの腕に身体を預けている。ラルフの方も前髪を一部ピンクに染めて、破れたスリムジーンズなどを小意気に着こなしていた。頽廃的なゲイの扮装をしているつもりである。
そういう店なのだから仕方ないとはいえ、広い店内にはまるで女っ気がない。どちらを向いても男ばかり。かたやソファで身を寄せ合い、かたやフロアでチークダンスを踊る。外国人向けの穴場だということで、客層も厚かった。スーツ姿の体格のいい外人の間からカジュアルな中国人の若者の姿がチラホラと見える。こいつらみんなゲイか、とローリィなどは店の敷居をくぐったときからゲンナリしていた。
「こんな大勢の中から、麻薬の取引してる奴を探すのかよ。考えただけでもうんざりするな」
「香港中から探すよりは確率が高くなったんだから我慢しろよ」
ラルフは、やる気のない親友の脇腹をつついた。
「ロイ警部が洗い出したとこじゃ、被害者はみんなここの常連だったそうだ。だから常連狙いで、麻薬やりたそうな顔をしてみせて、取引を仕掛ければいい。そんで、“ホンコン97”を取り出したところをバッサリ御用さ。二トンの麻薬の在り処を吐かせたら、きっとトロフィーと金一封もんだぜ。そしたら二人で休暇とって、旅行でもしよう」
「……お前は元気でいいなあ。いっつも夢みてえなことばっか言っ てさ」
ラルフはニッと笑った。
「言っただろ? この仕事は、俺の夢なのさ」
明るい笑顔には、一点の曇りもない。
ローリィは密かに、ラルフのそういう前向きで芯の強いところに憧れている。ラルフが自分のそういうところに気づいていないということにも救われている。やれ家柄がいいだの顔が綺麗だのとチヤホヤされる生活に、ローリィは夢も希望も感じたことはなかった。それがラルフと出会って初めて、そんなたわいもないものを信じてみる気になったのだ。
「ホンコン・ドリーム、か」
「え、何か言ったか?」
喧騒の中で、お仕事に入ろうとしていたラルフが振り返った。
「いや、なんでもねえ。……ただ、どんな人間でも、夢がなけりゃあ生きていけねえだろうな、と思っただけさ。自分で夢を見つけられない連中は、麻薬の力を借りて仮寝の夢をみるんだろう。今からそんな奴らを探すのかと思うと、なんか哀れになっちまってさ」
ローリィは周囲に気取られぬよう、低い声で呟くように言った。 ラルフのきつい吊り目がすっと細められ、ローリィの好きな優しい表情を形作った。
「いつか覚めるような夢は、夢じゃないよ」
その、低いしっかりした声に、ローリィはホッと息をついた。
「ああ、そうだ---そうだよな」
店内の幾人かがローリィに気づいた。この麗しい若者に声をかけたそうに、踊りの輪を抜けてくる者もいる。そろそろ仕事開始だ。ローリィは感傷を振り切り、きゅっと唇を噛む。それから、ぱあっと華やかな微笑を浮かべた。まるでそれが合図だったかのように、ローリィは男たちに取り囲まれてしまった。そのうちの何人かにうながされ、ローリィは奥の一等席についた。取り巻きもそのまま移動して、あれこれローリィに話しかけている。やれやれ、とラルフは苦笑した。あの花のように綺麗な顔の下で、さぞやローリィは罵詈雑言をわめき散らしたい気分に違いない。
一人になったラルフは、人込みをかきわけてカウンターまでたど り着いた。童顔で人好きのする彼に声をかけてくる男もいないわけではなかったのだが、そこはうまくかわして隅のスツールを占領する。彼の仕事は、バーテンと仲良くなって常連の名を聞き出すことである。だが、カウンターをのぞきこんでがっかりした。大きな店だというのにバーテンは若い男が一人きり。彼はあっちこっちから酒の注文を受けてキリキリ舞いしている。とても話しかけられる雰囲気ではない。
困ったなあ、と座っていたら、いきなり隣にでかい黒人が座ってきたので仰天した。彼の目的はあきらかにラルフらしい。その証拠に、両手もったカクテルのうち片方を、カウンターに置いたラルフの手をとって握らせた。ぞっとして、ラルフは手を引っ込めた。逃げだしたかったのだが、そこは壁の隅。追い詰められた形になる。
黒人の方は、そんなラルフの態度を、恥ずかしがっているのだと手前勝手に受け止めたようだ。いかにもなれなれしげに歯を剥いて笑いながら、身体をすりつけてくる。
「ボーイ、一人ぼっちで淋しそう。ワタシ、最初からキミを見てたヨ。キミのカレは浮気者ネ。ボクのカレもそう。淋しい者同士、慰めあおうヨ」
下手な廣東語で話しかけられて、ラルフは骨の髄まで震え上がった。チラリとローリィに救いの目を向けたが、ローリィの方も迫り来る男たちの相手で忙しいらしく、自分でなんとかしろ、という目くばせが帰ってくるばかり。あいにくローリィのようなクソ度胸のを持ち合わせていないラルフは、それでパニックになりかけた。
その目線のやり取りを、またしても黒人は自分の都合のいいように解釈した。
「ホラ、キミのカレもボクたちがフォーリン・ラブでオッケーと言っている。そんな悲しい顔しないで、二人でハッピーになろう」
そういった後、突然その男はため息をついた。
「ボクのカレも、あのときそう言ったネ。でも、カレはハッピーになるクスリをもってたから、誰とでもハッピーになれた。そして、ボクじゃない男と死んだ……悲しいネ。ボクは悲しい思い出、早く忘れタイ。キミとならクスリなんかなくてもハッピーになれそう」
陳腐な口説き文句であったが、聞いていたラルフは驚きのあまり叫び声を上げるところだった。なんと、労せずしてすごい手掛かりが飛び込んできたではないか。こいつは、殺された男のうちの誰かの、恋人だったというのだ。
「その、クスリって……」
焦りのあまり、ラルフは咳き込みながら言った。
「あんたの恋人は、どこから手に入れてたんだ!?」
直截な質問に、黒人は目を丸くした。
「い、いや……ボクは聞いたこと、ないヨ。彼は内緒にしてタ」
そこへ、新たな騒動が飛び込んできた。
最初はガラスの割れる音だった。続いて、派手な破壊音。ラルフはとっさに、音のした方を見た。入口の両脇を飾っていた色ガラスが無残に砕け散っている。そのかけらの中央で、血まみれのものがうずくまっていた。ワッと人垣が別
れた。
「なめてんじゃねえぞ、“幸運星”!」
続いて、どやどやと男たちが店内に乗り込んできた。黒いスーツをだらしなく着こなした彼らは、どう見積もっても黒社会の用心棒連中である。全部で五人はいるだろう。どいつも、人の一人や二人は殺したことがありそうだ。
店内は静まり返っていた。その中で、リーダー格の男が血まみれの若者の髪の毛をつかんで引きずり起こした。露になった男の顔を見て、ラルフはハッとした。間違いない。幸運星と名乗った、あの謎の若者だ。チンピラヤクザの兄貴分は、引き起こしたシンの頬を、ナイフでピタピタと叩いた。
「もう逃げ場はねえぜ、おとなしく白状しな。……心配すんな、白粉(麻薬)の在り処を教えてくれりゃ、殺しはしねえよ」
「……知らねえって言ってんだろ」
その途端シンの頬から血が弾けた。ナイフの跡が斜めに走った。 かなり深い。店内から悲鳴が起こった。だが、シンは一言も声を漏らさなかった。あふれる血を押さえようともせず、男たちをキッと睨み上げた。
そのシンを、兄貴分の男は容赦なく床に叩きつけた。起き上がろうとする頭を、靴の底でふみにじった。たちまち、頬から流れだす血で床が真っ赤に染まった。
「和誠興のシマで勝手に白粉を売りさばいてりゃ、そのうちこんな目に合うことはわかってたんだろ? ええ、シンよ。いいから、強情張らずに喋っちまいな。今ならまだ命だけは助かるぜ」
「知ら……ねえっ………!」
男たちの目に凶悪な光が灯った。リーダーが顎をしゃくった。後ろに控えていた連中が身を乗り出す。その手にはナイフが光る。
「ま、待ってください!」
そこへ、人垣をかきわけて壮年の男が一人飛びだしてきた。恰好からして、この店のマスターらしい。黒いベストと蝶ネクタイが似合う、フランス人風のいい男だ。その長身でシンをかばうように覆いながら、男たちに対峙した。
「この子が何をやったか存じませんが、ここまでやられても知らないと言っているんですから、本当に知らないんでしょう。どうかここは、私の顔を立てて、引き上げてはいただけませんか。あなた方のいう白粉のことは、情報が入ればすぐにお知らせしますから」
「こいつ、かばいだてする気か!?」
道理の通った説得だったが、チンピラたちには逆効果だったようだ。顔を怒りに染めて、乱暴にマスターを蹴った。マスターは体格のいい筋肉質な男だったが、彼らに抵抗はせず、シンを抱きかかえて男たちから救おうとした。それがさらに彼らの怒りを誘った。
「かまやしねえ、ぶっ刺しちまえ!」
男たちが一斉にナイフを振り上げた。店内の空気が凍りついた。 気の弱い者は、思わず目を覆った。
だが次に悲鳴を上げたのは他でもない、その男たちの方だった。
「ぐあっ!」
悲鳴と共に、まずはリーダー格の男の身体がふっ飛んだ。尻からカウンターに突っ込んで、グラスの山に埋もれてまた情けないわめき声を上げた。
「て、てめえ、何者だ!?」
目敏い一人が叫んだ。だが、その一人もすぐさま蹴りを食らって 悶絶する羽目になった。二人やられて、残りの連中はようやく自分たちの仲間を倒した相手を視界に捉えた。そして、血相を変えた。
「このクソガキ! どういうつもりだ!?」
「どういうつもり……って言われても困るんだけどな」
ラルフは残った三人の男たちに囲まれ、真剣に困った顔をした。
「ああ、なんてひどいことをしやがる、と思ったときには、もう身体の方が先に動いてたんだから、仕方ないじゃないか。……あんたたちがおとなしく退散してくれるんなら、俺もこれ以上、あんたたちに危害は加えないつもりだけど」
「ふっ、ふざけるなあ!」
より気の短かかった一人が、ナイフを水平に構えてラルフの胸元へ突っ込んできた。その攻撃を、ラルフはふいと身体をそらして難なくかわした。たたらを踏んだそいつの首筋に、鋭い手刀をたたきこんだ。きゅう、と唸って男は床に沈んだ。
わああ、と客の間から歓声が沸き起こった。このヒョロリとしたのほほん坊やが実は功夫の達人であることに、やっと周囲の人々も気づいたのだ。声援を受けて、ぴたりと構えを取りながらラルフは
ニヤリと笑った。お気楽青年が鋭い野獣の凄味をみせる瞬間だ。ラルフをナンパしようとしていた黒人青年は、すでに腰を抜かし果
てていた。籠絡しようとしていた可愛い猫が、とんでもない性悪の虎だったのだから、その驚きは理解できなくもない。
「ラルフ、かまうこたぁねえ!」
でかい外人客たちの間から、ローリィが物騒な声をかけた。
「こてんぱんにやっちまえ!」
親友の許可が降りたので、もはやラルフは手加減なし。ナイフを構えて、まだやる気のチンピラたちに向かって、容赦のない回し蹴りをお見舞いした----。
宴が果てて、人影もなくなった。
チンピラヤクザは完全に失神している兄貴分を担ぎ上げて、自分たちも腰くだけになりながら、覚えてろとお決まりの台詞を吐いて逃げ去っていった。戦勝パーティが始まりそうになった店内だったが、マスターは丁寧に詫びを述べて、客を店から追い出した。ここで勝ち誇っては黒社会から憎まれる、という説明に、客たちも仕方なく三々五々と散っていった。
ラルフとローリィは、その場のなりゆきでなんとなく店内に残っていた。シンを抱え起こすマスターを手伝って、手当てをした。全身がアザだらけで、ところどころにナイフの傷があった。どうやら店に逃げ込むまでにも、けっこう立ち回りがあったようだ。
「半分ぐらいは叩きのめしたんだぜ」
消毒薬に眉をしかめながら、それでもシンは偉そうなことを言っていた。ローリィはあからさまに不信の色を浮かべ、ラルフは肩をすくめた。
「そんなことより、シン」
てきぱきと手当てを進めながら、静かにマスターが言った。
「奴らの言っていたことは本当なのかい? 彼らの目をかすめて、白粉を売りさばいているっていうのは……もし本当なら、そんな危ない真似はやめた方がいい」
「とんでもない。誤解もはなはだしいぜ」
シンはフンと鼻を鳴らした。
「俺が白粉を持ってたら、人に売ったりするわきゃあねえ。全部、自分で楽しむのに使っちまうさ。あいつら幹部連中から何がなんでも犯人を探してこいって言われて、それで血迷って俺をつかまえやがったんだ。まったく、いい迷惑だ」
片目の周りは黒ずみ、口端も切れて腫れ上がっているというのにシンの皮肉な口調はいささかも精彩
を欠いていない。だがラルフは 彼のその不敵な態度よりも、まくりあげた腕に残った無数の注射跡を見て哀しい気持ちになった。ここにもまた、いずれ覚める夢にすがることでしか生きられない男がいる。
ラルフの視線に、マスターも気づいたようだ。ぐっとシンの腕のその部分を掴み、真剣な顔で首を振った。
「お前、まだやってるのか。もうやめろと言っておいただろう」
「気にいらねえんなら、いつでもクビにしてくんな。俺ぁ、こんなチンケな店のバーテン職なんざ、やりたくてやってるわけじゃねえんだからな。あんたが来いっていうから……」
「---ホンコン・ドリーム」
ローリィがさっき呟いたのと同じ単語を、マスターは口にした。
「この街では誰でも、夢を見ることができる。お前も、私も。だが夢を見るためには代価を支払わなければならない。白粉をやめてまじめに働くんだ。金を稼げ。そうすれば、いつかきっと……」
せつない口調が、ふと、夢見るような調子に変わった。ラルフは思わず、マスターの顔を見上げた。だが彼は言葉を続けなかった。ラルフの視線に気づいて、にこりと笑う。
「それで、勇敢で強い不思議な坊や。君はどうして、ここに残っているのかな?」
「それは……」
刑事だからさ、と言いかけたシンの口を、とっさにラルフは手のひらでふさいだ。気がつけば、大声でマスターに言っていた。
「俺……俺も夢をかなえるため金稼ぎたくて、でも仕事なくて。……お願いです、バーテンに雇っていただけませんか!?」
口をふさがれたシンが、目を白黒させた。
後ろで聞いていたローリィの目が飛びだしそうになった。
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