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歓楽街の一日は、日没から始まって夜明けに終わる。
ラルフはゴミ袋を抱えて外に出て、大きく伸びをした。
汚れた香港の空気も、こんな朝にはすがすがしく感じる。朝の七時。人通
りは少なく、まるで別の街のようだ。林立する高層ビルの谷間から、かすかに朝日が差してきた。
「それにしても元気だなあ、てめえは」
店の入口ではシンが扉にもたれかかって、呆れ顔だ。ゴミ袋を集積場所に放り出して駆け戻ってくるラルフに、肩をすくめて背を向けた。
追いついたラルフは、その肩に強引に腕を回した。
「おい、よせよ」
嫌そうに眉をしかめるにも構わない。さらに身体を引き寄せ、背中に覆いかぶさるようにして店に入った。シンはクスンと鼻を鳴らしたが、それ以上の抵抗はしない。この人慣れぬ
若者が実はとてつもない淋しがりやで、こういうスキンシップが嫌いではないということを、数日の付き合いでラルフは気づいていた。
マスターは微笑みを浮かべて二人を待っていた。保温器から買い置きの粥を取り出し、二人に手渡す。香港の朝御飯の定番は粥だ。魚肉やピータンの入った栄養たっぷりのそれを、はふはふ言いながら二人はかっこんだ。シンが黙って牛肉をレバーをすくい上げ、ラルフの碗に放り込んだ。どうやらレバーは嫌いらしい。苦笑しながらラルフはレバーを引き受けた。
朝御飯を食べた後はベッドに一直線というのが、夜の闇に生きる者たちの生活パターンである。店の裏手に、狭いがきちんとした生活空間がしつらえてある。マスターは自分の部屋に引き取り、ラルフとシンも雇われ人用のベッドを使う。二段ベッドの上はラルフで下はシン。もう一人いたバーテンは、先日のラルフとチンピラの大立ち回りに恐れをなして逃げだしてしまった。
習慣で部屋の電気を消そうとして、ラルフは手を引っ込めた。シンは暗い部屋で眠るのが嫌いだ。口に出してそう言われたわけではないのだが、二人で眠った最初の日、シンはいつの間にかベッドを抜け出して、店の電灯の下で眠っていた。そんなところからラルフは気がついたのだった。
淋しがりやで暗闇を怖がる甘えん坊。気まぐれで頽廃的なこの若者に友情を感じているといったら、ローリィはさぞ腹を立てるだろう。誰にでも同情するな、心を許すな。お前は敵地にもぐりこんでいるも同然なんだぞ。連絡に来るたびにローリィは、ラルフの耳をつかんで、くどいほど繰り返す。反論したらさらに叱られるので、ラルフはへいへいと頷くことにしていた。
ラルフが“DREAM”に住み込んで、もう十日が過ぎようとしていた。
時間ばかりが経った割に、捜査は一向に進んでいなかった。殺された男たちの友人たちも、彼らが得体の知れない麻薬を使っていたことは知っていても、その出所を聞いた者はいなかった。ラルフは
店の常連という常連に探りを入れてみたのだが、誰もそれらしい素振りさえ見せなかった。
「“ホンコン97”は習慣性のない麻薬だって話だ」
突然、ベッドの下からシンが声をかけてきた。ぎょっとして、ラルフはベッドから身体を起こした。
「売りさばいてた誰かは、お前を疑ってるのさ。だからお前の正体 がはっきりわかるまで売り買いを凍結しちまった。しばらく供給をやめたところで、習慣性のない麻薬なら中毒者が騒ぎだすこともねえからな。それで手掛かりがなくなっちまったってわけだ……おっと、俺はお前の正体をバラしたりはしてねえからな」
“ホンコン97”というおそろしく高価な麻薬が安価で市中に出回っている。その薬を常用していたと思われる男たちが、次々と殺された。彼らは全てゲイであり、“DREAM”という名のバーに出入りしていた---そこまでわかっていながら、殺人犯の目星もつかなければ、麻薬を売っている者も特定できない。危険な潜入捜査だというのに成果
の上がらない日々。ラルフのそんな焦りをいつの間 に看破していたのだろうか。一見、他人に無関心にみえるというのに、シンの観察眼には驚かされる。そういえば、初対面
で彼はラルフを刑事だと見破っていた。
「ありがとうな、シン」
いきなり礼を言われて、シンも驚いたらしい。ベッドの底でゴツンと音がしたのは、起き上がった拍子に頭をぶつけたのだろう。笑いを噛み殺しながらラルフは続けた。
「だってお前、俺が刑事だって黙ってくれてるじゃないか」
「ケッ。そんなことで礼を言われる覚えはねえや。第一、なんで俺がそんなおせっかいをしなきゃなんねえんだよ」
そのままシンは布団をかぶってしまった。もしかしたら照れているのかもしれなかった。ラルフはクスリと笑いを漏らし、自分も毛布を身体に巻きつけた。
ここは街のどん底だけど、それなりの優しさに包まれている。
優しいのはシンだけではなかった。
「よく眠れたかい?」
夕方、目をこすりながら起きだしてくる二人に、食事の用意をして待っていてくれるマスターもまた、優しい瞳をした人だった。マスターは皆から、楽哥と呼ばれている。本名はわからない。見せてもらった身分証には、まるで違う名前が記録されていた。
「ほら、ここのところを見てごらん。香港の香という字の一番下の線。君たちの身分証のより、少し長いだろう?」
あるときルークは、ラルフとシンにその身分証を見せてくれた。 上環のある工房で有り金はたいて造ってもらったものなのだそうだ。香港に渡ってきてすぐだったので、あまり金がなくて、こんなお粗末なものしか買えなかったのだという。
「暗い、暗い夜だった。空には星ひとつ出ていなかった。波は荒れ狂う悪魔みたいに見えた……その中を、私は一人で泳いでいた。国境監視船に機銃で撃たれた。血が流れて、身体が冷たくなった。もうダメだと思ったとき、黒々とした大きなものが見えた。壊れた船の残骸だった。私は必死でそれにつかまった……」
后海弯を渡ってくる密入国者の話は、仕事柄ラルフも耳にしていた。しかし、その当人の体験談を聞いたのは、これが初めてのことだった。静かな語り口だったが、聞いているうちにラルフは自分がその恐ろしい海の中にいるような気分になってきた。隣でシンがぶ
るっと背筋を震わせたのは、きっとラルフと同じ理由だろう。なぜそんな危険なことを、という問いに対して、ルークはいつも同じ答えを返した。
「ホンコン・ドリーム---この国には、私の国にはない夢が満ちあふれている。私は夢を手に入れるためにやってきた」
「そんでもって、結局はゲイ野郎専門の店なんかやって、なんとか凌ぎを削ってるんじゃねえか。まさか、これがあんたの夢だって言うんじゃなかろう」
「おい、やめろよシン」
ラルフは慌ててシンを突っついたが、ルークは無遠慮な指摘に怒ったり悲しんだりする様子はなかった。ただ、いつもの静かな微笑を浮かべただけだ。
「シンは、昔の私の暮らしを知らないから、ここがどん底のような気がするんだろう。……いや、中国大陸は君たちが思っているほど貧しい国ではない。問題は経済的なことではないんだ。あの国では
夢を見ることが許されない---それが人間にとってどんなに辛いことか、わかるかい。私は夢を見たかった。だからここへ来た」
「わかるような、気がします」
ラルフはまじめな顔で頷いた。
「人間にとって夢を見ることは大事です。俺もそう思います」
「あーあ。似たもの同士がくだらねえことばっか言ってよ。夢だって? そんなもん、腹のタシにもなりゃしねえや」
シンがわざとらしく大声を出す。
「そんなこと言うけどさ、シンにだって夢はあるだろう?」
「そりゃあるぜ」
ニヤリとシンは皮肉に笑ってみせた。
「いつかドカっと大金を稼いでさ、黒社会の幹部にでもなって、そ の辺のチンピラたちからへこへこ頭を下げられるようになるのさ。気にいった女は手込めにして、気にいらねえ男はコンクリ詰め。んでもって、食いたいもの食ってやりたいことやって、バタンと大往生。最高の人生だろ」
「……サイテーだよ、それじゃ」
「じゃあラルフ、てめえの夢はなんなんだ?」
「そうだなあ……俺の夢は」
ラルフはにこりと笑った。
「みんなが夢を見られるように、この街を守ること、かな」
「けえっ! 正義のヒーローのつもりかよ。くだらねえ」
口ではそう言いながらも、シンはラルフのその真っ直ぐな瞳をまぶしそうに見ていた。お人好しで、前向きで。だからこそ人を魅きつけてやまない---こんな男に出会ったのは初めてだ、と言いたげな顔をして。
ルークもまた、いとおしそうにラルフを見つめていた。
「お前は本当にいい子だね。一緒にいるだけで、気持ちがホッとする。あきらめそうになっていた夢を、また追ってみたいという気持ちになる」
ではルークの夢はなんなんだとシンは聞きたそうだった。ラルフも聞いてみたかった。しかし彼は話をそこで打ち切ってしまった。
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