ホンコン・ドリーム
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作:星野ケイ
1996/10/18発行『香港超常現象捜査官』番外編 ホンコン・ドリーム』収録

 和誠興の非公式の事務所で、シンはごくりと唾を呑んでいた。
「ほら、お望みのヘロインだ。それと、金」
「ふざけんなよ。目先のものだけでごまかそうってのか?」
 目の前に積まれたそれらにもの欲しげな視線を向けながらも、シンはさらに欲張ってみせる。欲張り相手には、こっちも要求を突きつけるのが礼儀。そんなことはシンも知っている。
「これは失礼した。無論、うちの組織の一員として迎え入れる準備はできている。入会式は来週の金曜。お前は形式的には西区を取り仕切っている飛全の部下になる。だが、仁義さえ通 せば好きにふるまっていい。なんといっても、我が和誠興に“ホンコン97”をもたらしてくれた英雄だ」
 そいつの皮肉な口調にも、もうシンは構わなかった。夢に見ていた勝手きままな生活が、これからは約束されるのだ。そのためにラルフをわざと“DREAM”へおびき寄せ、和誠興に襲われるという狂言も繰り広げてみた。頬のナイフの傷は一生消えないが、安楽な生活の代償と思えば安いものだ。
「思い知ったか。ええ、甘ちゃんラルフ。これが俺の夢さ。お前は人の夢をかなえるために身を犠牲にしたかったんだろ。だからきっと今頃、幸せだよな。なんたって、俺の夢を叶えてくれたんだ」
 シンは唾と共に、なぜか沸いてくる苦い思いを吐き捨てようとした。望みがかなうというこのときになって、ラルフのあの真っ直ぐな瞳がちらついて離れない。シンの肩に腕を回し、ありがとうと言って微笑んだ、お人好しのバカな刑事。彼は今頃、廃屋の隅で冷たくなっているはずだ。
 気を取り直して、シンが金をつかもうとしたときだ。
 いきなり、扉の向こうで大きな物音がした。何人かが吠えた。ドタンバタンと取っ組み合うような音も聞こえてくる。シンにつきそっていた男が、眉をひそめて扉を開けた。そのとたん、扉の隙間から突き出された拳を食らって、彼は後ろざまにふっ飛んだ。シンはぎょっとして立ち上がった。その眼前に銃口が突きつけられた。
「動くなよ。動けばどてっ腹、撃ち抜くぜ」
 押さえた口調の向こうに、押さえきれぬ怒りが透けてみえた。怒りと憤りに紅潮した、天使のような美しい顔---こいつは確か、ラルフの親友と紹介された。ローリィとか言ったっけ。
 ローリィはあちこちから血を流していたが、彼のお相手をしたチンピラたちの方が、もっと哀れなことになっていた。かたや腕を折られ、一方では頭を壁にぶつけられ。少女のような容貌に舐めてかかったのが彼らの失敗。功夫の達人であるラルフにはかなわなくても、ローリィとて一騎当千の強者である。しかも今のローリィは、 怒りに普段の落ち着きを失っていた。後ずさるシンを、ローリィはずかずかと奥の壁まで追い詰めた。
「ど、どうしてお前がここにいる!?」
 罵声は悲鳴に似ていた。
「ラルフと仲間の刑事は、もう殺されたはずだ! 俺が和誠興のために芝居をしてたことは、誰も知らなかった! なのに……」
「気に食わないその仲間の刑事が、教えてくれたのさ。大怪我して.病院に運ばれながら、どうしても俺に伝えなきゃならねえと麻酔を拒んでな。ラルフの居所を知っているとしたら、それはお前だけだと奴は言ったよ。だから俺は真っ直ぐこの事務所に来た。仕事を終えたお前が、報酬をもらってる頃だろうと思ってな」
「ラルフの……居所?」
 訝しげな顔をしたシンに向かって、ぴたりと銃を構えてローリィ は言う。
「ラルフは……お前のことを友達だと思ってた」
 ぴくりとシンが頬を震わせた。
「甘いと思うだろ? 俺だってそう思うよ。あいつは甘い。とてつもない甘ちゃんだ。……けど、だからこそあいつは誰よりも強いんだ。あいつがああやっていつも前を向いているから、俺たちは救われる。お前もそうだろ? あいつのことが、まぶしく見えただろ」
「俺は……」
 シンはちらりとテーブルを見た。そこにはいみじくも彼が自分の夢だと豪語したものが積まれていた。それは今、なんと惨めなものに見えるのだろう。みんなの夢を守りたいと語る、あのラルフの瞳と比べると。
 ローリィも、シンのその視線に気づいた。片足でテーブルを蹴飛ばした。紙幣と麻薬の包みが飛び散った。それをぼんやりと見つめるシンの、胸ぐらをつかまえて怒鳴った。
「お前みたいな---夢を見ることも忘れちまった奴に、ラルフのことをバカにする資格はないんだ!!」
 思いのたけが爆発したような叫びだった。ローリィはシンの襟元をつかんだまま、俯いてはあはあと息をついた。整理できない感情を持て余しているようにも見えた。シンは黙って、それを見下ろしていた。沈黙が続いた。
 やがて、シンが口を開いた。
「さっき、ラルフの行方って言ったな。それって、もしかして…… ラルフが誰かに連れ去られたってことか」 「ああ、そうだよ!」
 俯いたまま、ローリィは叫んだ。
「機関銃をもった狂人が、連れていっちまったんだと。狂人の素性もわかってる。ルークっていうあのマスターだ。……頼む、教えてくれ! そうしたら……土下座してもいい! だから……」
 誇り高いこの男がそこまで言うには、どんな心理的葛藤があったことだろう。しかしローリィは、言っただけのことをやるつもりだった。たった今人間以下のものとして罵った男の前で、膝をついて土下座しようとした。
 その肩を、シンはとっさに掴んだ。ローリィが顔を上げた。
「その男がルークなら……確かに、俺に心当たりがある」
 シンの顔色は蒼白になっていた。
「聞いてくれ。“ホンコン97”を売りさばいていた黒幕は、実はあのルークだったんだ」
「な……なんだとお!?」
 まさに、寝耳に水。ローリィは唖然として口を開けた。
 そんなローリィの驚愕に構わず、シンはさらに言葉を続けた。
「ルークは香港に密入国したとき、廃船を見つけた。それが伝説の ファウストの---“ホンコン97”を満載したクルーザーだったんだ。奴はそれを持ち出しては売っていた。店の客に偽装した売人を使ってな。けど、奴は突然、売人を殺し始めた。それで、俺は奴の秘密に気づいて、和誠興に話を持ちかけて……ルークが麻薬を移動 するように刑事を引き入れたり周囲で騒ぎを起こしたりして、奴を監視して隠し場所を突き止めるっていう計画で……」
「----そうか! そういうことか!」
 ローリィはぎりりと唇を噛みしめた。
「どこにある!」
 問いは短かった。
「屯門埠頭! 旧倉庫街の外れの入江だ!」
 返答もまた、短かった。
 ローリィはそれ以上、聞き返すこともしなかった。身を翻し、転がって呻いている男たちを蹴飛ばしながら事務所を駆け抜け、階段の手すりを掴む。手のひらが焦げるも構わず、一気に滑り降りた。 ビルの下に泊めてあったバイクに飛び乗る。無線機でロイ警部を呼び、船の位 置を知らせた。後ろからシンが駆けてきた。

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