What is the Mandolin Music
・ 歴史的一考察 | ・ アメリカ大陸へ上陸 | ・ 今世紀初頭の大流行 |
・ 近代フラットマンドリン革命 | ・ ビル・モンローの影響 | ・ 今日のマンドリン |
・ 出典、その他特記事項 | ・ | ・ |
マンドリン−[音] 弦楽器のひとつ。胴は半球状で、四対の弦をセルロイドのつめで弾いて奏する。(角川書店国語辞典) まあおそらくマンドリンに関わっていない人の認識はこれくらいだと思います。諸外国でも、「小型の竿の短い8本弦のリュート」というような記述が中心だそうです。リュートは、弦の振動を音源とする楽器の総称で、ギターの前身などがこれに当たると考えられます。 遠く溯る事紀元前15000年から8500年頃描かれたフランスの洞窟壁画に、 一弦の楽器を弓で弾くヒトが認識されているそうですが、これが最古のヒトの楽器演奏ではないかとされていて、おそらくその過程には、まず弦を指で弾き、ついで棒のようなもので叩き、弓の出現を見たのではないかと想像されます。その後弦が複数になり、共鳴する胴の発達があったものでしょう。紀元前2000年にはメソポタミアで、リュートらしきものが出現しますが、これらはまだすべてフレットレスでした。調子を変えるには指盤を指で押え振幅を加減している事も顕著です。また、より大きく鋭い音を得るために、指よりも堅いものでかき鳴らすこと(撥音)が定着したようです。紀元7世紀頃には中近東、特にエジプトやアルメニアあたりで’Oud'という弦楽器が使われ始めたようです。(現在に至る。)’Oud'とはアラビア語で、「木」を意味し、現に木で作られた物が多く見られます。スペインのムーア人征服(711−1492)の間にスペインへもたらされ、沿岸貿易を通じてベニスへ渡り、また十字軍の凱旋(1099頃など)でヨーロッパ全土へもたらされたものでしょう。宗教画などに、マンドラと称される小型のリュートを持った天使がよく描かれたのも13世紀から14世紀頃の事です 。このミニチュアのリュートが考案された事から16世紀頃のリュートのアンサンブルの隆盛へと繋がっていくものと思われます。アッシリア人はこの新しい楽器をPanduraと呼び、アラブ人はDanbura、ラテン人はMandora、特にイタリアではMandolaと名を変えました。この伝統的Mandolaのもう一回り小さいサイズの楽器の事をイタリア人たちがMandolinaと呼んだ事が今日のマンドリンの始まりです。
そんなわけで、南ヨーロッパや東ヨーロッパの移民によって北アメリカ大陸へもたらされたマンドリンは、最初のアメリカ繁栄の時期と相俟って、エキゾチックな面を持ちあわせながら、独自のアメリカ文化の主流の中に、根を下ろして行きました。1850年代には中流階級の楽しみとしての流行の兆しが見えます。そして1880年代の爆発的なイタリア人移民の増加によって、ナポリタンの背板の丸い形状のマンドリンが新大陸全土を席巻しました。因みに1887年のエジソンのシリンダー蓄音機(蝋管)に録音された最初の楽器は、マンドリンでした。この頃のモンゴメリー・ワーズ(通販会社)のカタログにも「我が社のマンドリン取引は爆発的売れ行きを更新中」と驚嘆のコメントを掲載しています。
20世紀に入ると、ボードビリアン(軽喜劇または軽歌劇演芸)としてのマンドリン楽団があちこちツアーを始め、お茶の間で家族の楽しみに演奏されるに止まらず、学校や職場を中心として、マンドリンオーケストラも結成されるに至ります。このころリオン&ヒーリーというメーカーでは10000台を優に超える生産ラインを持つと豪語し、シアーズ・ローバックや前出モンゴメリー・ワーズのカタログからは、南部へのマンドリンの売り上げが急増している様子が読み取れます。初期のギブソン社でも、この市場参入の成功に意を強くし、自身のマンドリンオーケストラの結成をしています。このように今世紀初めから1940年台くらいの間に、バーナード・ダペイス、サミュエル・シーガル、デイヴ・アポロンなど、数多くの名演奏家が登場し、演奏活動、録音、作編曲に活躍しました。これら演奏家のジャンルは多岐に亘り、演芸、伝承、流行歌、クラシック、と、そのとどまるところを知りませんでした。ちょうどそれに呼応して、中流階級の若者達は特に南部地域を中心とした、学園や、町中において、バンジョー、マンドリン、ギターの同好会を爆発的な勢いで組織しています。また、演奏 スタイルも(特にギターからの大きな影響は否めないが)あらゆる物を取り込み、教則本やそれに類する録音も数多く発表されました。
1856年、オーヴィル H. ギブソンはニューヨークに生まれ、若くしてミシガン州カラマズーへ移り住みました。1880年代に入り、彼は楽器の設計と製造を始め、1898年には表板削り出しの新しい楽器製作法のパテント申請を行っています。彼の初期の作品群は豊富な経験に裏付けされ、華麗な飾り付けを施されたものが多かったようです。1902年にはある経営者のグループが彼の特許を買い取り、「Gibson Mandolin & Guitar Co.,」を設立しています。オービルもこの時点では共同経営者としてではなく、コンサルタントとして、1915年まで席を残していたようです。 1905年の Gibson A-4 の出現は、それまでのイタリア移民のもたらした伝統的なボウルバックスタイル{(テイターバグ=芋虫)とも称された}から文字通り急進的な変化を遂げ、革命的な楽器とまでの評価を得ました。全く平らか少し曲げの入った表板と、所謂、ボウルバックの変わりに、オービルの新しいデザインでは、バイオリン製作の原理に立脚して、単板から削り出した表板と裏板を用いました。それからの年月の間に些少のデザイン変更はありましたが、概ねこれ以降のアメリカの音楽シーンにあって、常にその標準と称されるデザインを確立しました。オービルはまるで何かに執り付かれたように、特にスクロール部分の装飾には凝っていました。また、機械部分の正確無比な製造にも、拘っていました。彼自身の初期の楽器のインレイを含めて、証明する印章は、神秘的な星と三日月のマークです。1910年には GibsonF-4は新しい渦巻きと3ポイントのデザインに加えて、細部まで贅沢に整えられたヘッドストックの螺鈿細工(フラワーポット)を取り入れられました。かくして、この改良により、マンドリンはまた今日見られるデザインへ向かって、新たな一歩を踏み出した事になります。音の響きも音質も格段に進展した事は言うまでもありません。1922年にも、ギブソン社は、新たにアコースティック部門の技師となったロイド・A・ロアーの影響の下、マンドリンの生産ラインの刷新を打ち出します。ネックの中には調節可能なトラスロッドを埋め込み、黒檀製の駒は2分割して弦高を調節できるようにしました。また特にA−5モデルではスネークヘッドと呼ばれる先細の輪郭を持つペグヘッドを開発しました。多分、いや絶対、少なくともブルーグラス音楽愛好家にとって、ロアーの偉業の中でも特筆すべきは、F−5 (マスターモデル・スタイル5)でしょう。ロイドロアー自身の手によって、約170本のF−5 に署名と日付が付けられましたが、これらの楽器は今日もなお多くのマンドリンプレイヤーの憧れの的であり、到底一般人には手の届かない、びっくりするような高価で取引されています。(1998年現在約 US$45000〜50000)
隆盛を極めたマンドリンオーケストラの数も、アメリカ独自の手軽なお茶の間楽器としての地位も次第に衰退の翳を見せるようになり、それに変わるほかの楽器に押され始めました。オールドタイムやカントリー音楽では、マンドリンそのものは用いられましたが、概して、添え物として或いはリズム楽器としての扱いしか受けていませんでした。ところが、ビル・モンローとモンローブラザースの出現によって、その状況は一変します。1930年代のほかの兄弟デュオ同様に、ビルとギタリストである兄チャーリーは宗教曲や哀愁を帯びた曲を美しい2部合唱で聴かせる演奏形態でした。が、他のバンドの甘く優しいトレモロを多用した演奏に加えて、それまでに少なくともマンドリンの奏法には無かった、火の出るような早弾きや、大変攻撃的な音使いをして、名声を博します。ビル・モンローはその生涯で二人の師から音楽の手ほどきと、影響を受けています。一人は叔父のアンクル・ペン・ヴァンディバーです。彼はフィドル奏者で、大変たくさんのレパートリーを持ち、モンロー自身の活躍中もその中から多くの曲を発掘しています。またそのフィドルの奏法も少なからずモンローのマンドリン奏法 に影響を与えました。二人目は黒人のカントリーブルース(おそらくはギター、マウスハープなど)奏者のアーノルド・シュルツでした。モンローがケンタッキー州ロジーンに立ち寄る時にはいつでも会っていたということです。彼の影響により、ブルーノートや、ブルースリックスを奏法のスパイスとして取り入れています。これらの影響の融合した形がユニークで紛れも無い彼独自のスタイルを生み出していったのです。ちょうどこの時期、全米をラジオのネットワークが覆い尽くす時にも合致しました。モンローのマンドリン演奏がラジオを通じて流れ、多くの人の耳にその迫力ある音が印象づけられます。そんな事で、マンドリン自体を見聞きした事の無い人にまでそのメロディーが植え付けられました。この当時の兄弟バンドの中でモンローブラザースは一世を風靡する事になります。この後、ビルモンローは (後のバンド The Bluegrass Boys に因んで命名する、)”BLUEGRASS” という新しいジャンルの音楽を創造する事になりますが、当然ステージ中央にはマンドリンを据えるという布陣でのパフォーマンスが確立します。
マンドリンは、今日もなおアメリカではポピュラーで、かつバイタリティーあふれる楽器としての評価を得ています。カントリー音楽界では60年、70年代のナッシュヴィルサウンド全盛期には隅へ追いやられた感がありましたが、80年代初頭以降、それまでのべたべた、どろどろとした弦と多重唱の音作りの傾向から、復興(新)伝統主義とでも訳される、力強いさっぱりとした音作りへと取って代わり、新たなカントリー音楽の聴衆へマンドリンは再度紹介される事となりました。また、ロック音楽界では60年代から一貫して地味に用いられています。英国のフォークロック、ロッド・ステュワートのアコースティック風のアルバム、レッドツエッペリンのバラッドに至るまで聴く事が出来ます。また最近の ”アンプラグド”音楽への興味は即マンドリンへの興味へも通じているようです。確かに、エリッククラプトンの手を経たというギブソンがMandoBros.から売りに出されていましたし、"Unpluged"のビデオの中でも(リッチな事に)ダキストか、ディーアンジェリコと認識できるマンドリンが使用されていました。クラシック音楽界でもマンドリンは復活の兆しを見せています。多くの若い演奏者がフラットマンドリンを手に新しいアルバムを録音し始めましたし、ニューヨーク市では、75周年のマンドリンオーケストラのコンサートが開催されたという情報もあります。もちろん脈々と受け継がれたアイルランド、スコットランド、イングランドのフォークミュージックにも、アメリカ南部の山間伝承音楽にも、そして更に洗練された BLUEGRASS 音楽にもマンドリン抜きでは語る事は出来ません。また、まだまだマイナーではありますが、Jazz の世界にも愛好者は着実に増えています。かく言う私も、隠れSwing Mandolin ファンであります。このお手軽な楽器、マンドリンが一家に一台、みんなが弾ける。という時代を目指して、さあいっしょに切磋琢磨しようではありませんか!
「ブルーグラス音楽」 三井 徹 1975 ブロンズ社、 「カントリー音楽の歴史」 三井 徹 1971 音楽之友社
「A Brief History of the Mandolin」 Dan Beimborn & Compiled by Rob Meador
[The discussion of Orville Gibson was drawn primarily from the liner notes to Tone Poems, a 1994 Acoustic Disk]
[History of the Mandolin] Charles Hunt Mandolin World News Vol. IV , No. 3 Autumn 1981