ホスピスケア・がん告知について


ホスピス(緩和)ケアとは

 自らの意思と選択にもとづいて、最後の時までを少しでも快適に生き、その結果として、安らかな尊厳に満ちた死を迎えたいと、自ら望む末期のがん患者さんをサポートする理念です。この理念にもとづき、患者さんには、主に麻薬を使用する“痛みのコントール”と、精神的・社会的な援助を行いながら、死が訪れるまで、生きていることに意味を見出せる“魂のケア”がなされます。また、家族が困難を抱えて対応しようとするときに、家族を支えることも重要です。
 ホスピスでなくてもホスピス(緩和)ケアはできますが、これが専門になされているのが、ホスピス病棟(病院)です。ホスピスは、病棟内に患者家族控え室、患者専用の台所・面談室・談話室などを備え、末期悪性腫瘍(がん)・エイズ患者さんに緩和ケアを行う病棟(病院)として、保険適応されています。一般病院の「患者を管理する」という発想ではなく、「患者さんが生活する最期の居住空間を提供する」というのがホスピスの発想ですから、起床や消灯時間の決まりもなく、回診も患者さんの都合にあわせて行われ、都合が悪ければ、スタッフは部屋に入るのも控えてくれます。アルコールだって自由なのです。入院の条件としては、治癒が望めないと判断された悪性腫瘍・エイズ患者さんが対象で、病名病状について本人が理解していることが望ましいとされています。キリスト教系のホスピスが多いのですが、特定の宗教を持たないと入院できないということはありません。

ホスピスケアが困難な一般病院での実態

 一般病院の医療システムは、癌で死に行く患者さんのためではなく、治療により病気と闘って治り退院していく患者さんのために整えられているのが現状です。入院を“闘病生活”と呼ぶゆえんでしょう。このため、多くの末期がん患者さんたちも、「治る見込みが少しでもあるように、少しでも延命が得られるように」と勧められた抗がん剤やその副作用と戦いながら、多忙な一般病院の医療システムの中で、しばしば取り残されることとなります。また、告知をされない末期のがん患者さんが一般病院で死んでいく場合、その人の最期は医療側と家族の間だけで話し合われるため、本人の意志や希望は無視され、医療システムの機械的な流れ作業の中で管理され埋もれてしまうのです。そのため、患者さんは“偽りの説明”と“現実に悪化しつつある病状”との落差の間で、不安・不信を抱きながら衰弱し死んでいくこととなってしまいます。これが、いまだにホスピスケアの困難な一般病院の現実でしょう。
 しかしながら、ホスピスでなくても、これらにできる限り取り組んできている医療スタッフや一般病院も少しずつ増えてきているのも事実です。私の病院も一般病院ですが、医師、看護スタッフとも勉強もし、ホスピスに少しでも近づけるケアができるよう取り組んでいます。

麻薬に対する間違った医学常識

 麻薬の多用は、病気の回復を遅らせ、死期を早めたり、麻薬中毒になると言う迷信があるため、末期のがん患者さんは痛みがあっても我慢させられてしまう。→その結果、患者さんは痛みで食欲も落ち、十分な睡眠も取れないため、衰弱が早まってしまうことになる。→麻薬は最期に使うものとの迷信もあるため、衰弱し死期が迫った頃に、本来は適切な使い方とはいえない筋肉注射で麻薬が使われる。→筋肉注射は血液の濃度が急に上がりやすいため、痛みはとれるが、呼吸抑制や意識低下が起こり、また衰弱もあるため、幻覚や不穏も出てしまうこととなる。→副作用が出るため、何度もうてないと回数を制限され、痛みを我慢させられる。→患者さんは繰り返し襲ってくる強い痛みのために、あたかも人格は荒廃し、痛みだけをやたら訴える面倒な中毒患者のようにみられてしまう。→やはり、麻薬は良くないものと医療スタッフ、家族ともに認識されてしまう。
 麻薬の適切な使用が行われなければ、この悪循環が繰り返されることとなります。麻薬は、血液中の濃度が急に上がらず一定の濃度になるように工夫し、吐き気や便秘の対策を十分に行うことなどの十分な管理のもとに、適切に使われれば本来はまったく問題はおこらないのです。

がんの告知について

 “本音の出せぬ偽りの説明”と“むなしい希望”は、避けられない病態の悪化により衰弱していく末期がんの患者さんたちにとって、医療や家族に対し不信を抱かせ、ストレスを高めて精神的に荒廃させてしまうことになります。また、このような状況下では、周囲がなんといって励ましたとしても、確実に迫りくる死を意識したとき、告知されていなくても、死が迫れば自分がこれまで“偽りの世界”におかれていたことに必ず気づき、深く絶望するはずです。その結果、たった1人で死の恐怖と闘わなくてはならないことになってしまいます。
 真実を伝えることは、直後は衝撃を受け、精神的にも混乱に陥るかもしれないし、本人が容認できるのかの判断も難しいのかもしれません。しかしながら、病態はどん底であっても、少なくとも偽りの不信からは開放されることとなり、例外なく立ちなおれるものなのです。何も知らされずに衰弱していく人たちと比べれば、つらい別れを家族や医療スタッフも一緒になって感じ合え、最期の時に、患者さんや家族にとって意味のある時間を過ごせるのではないでしょうか。また、告知すれば、患者さんと医療スタッフ間に偽りがなくなるため、患者さんは医師に遠慮なく質問ができ、患者さん本人の希望にそった対応ができるといえます。
 がんを告知する時には、単に「告知するかどうか」ではなく、「どのように告知するか」の注意が必要です。この「どのように告知すするか」に関しては、「どんな状況になっても見放されないこと」、「まだまだ、いろいろな治療法があること」、「病状が進んだ場合もかすかな希望があること」などと、患者さんに希望をもたせる言い方でなくてはなりません。“死”とか“癌”とかのタブーの言葉もできる限り控えてあげる心遣いも大切です。患者さん本人の時間も少しとはいえ、まだ残され、希望をもつこともできる、できるだけ早い時期の告知を逃さないようにしなくてはなりません。家族にとってもつらい選択であり、それなりの覚悟も必要でしょうし、患者さんと医師の信頼関係のもとで行われなければいけないことは言うまでもありません。
 なお、告知を行った場合、患者さんは次のような心理的な反応を見せます。そんな病気のはずがないという「否認」→不平不満をいいちらし、注目を集めることで、自分が周りから見捨てられないように行動してしまう「怒り」→何とかしてほしいという「取り引き」→絶望感を味わう「抑うつ」→自分の運命を受け入れる「容認」、患者さんのこの心のゆれを、家族も十分に理解しておかなければなりません。
 医師は、揺れ動く患者さんや家族を、中心となって支えていかなくてはいけないという重い責任を担わなくてはならないのですが、私自身もまだまだできていないような気がします。

最期の時に

 末期のがんで助かる見込みがなくなり、患者さん本人が希望を口にするのを止めた時は、最期の時と悟った時です。無理やり希望をもたせるような励ましは、「もうすぐ死ぬことなど考えるな」といっているようなものです。黙って、そばにいてあげるだけで、患者さんは最期まで自分が忘れられていないと気づくのです。
 また、患者さんが亡くなるその時は、心臓マッサージや延命処置をしてもらうのではなく、患者さんと家族に残された最期の時間を大切に静かにすごしてください。延命処置はむなしいものでしかありません。心臓が止まるのを確認するための心電図も感心しません。この最期の大切な時間は、意識がなくなったように見えても、聴覚だけは最後の時まで残っているのだそうです。最期には、患者さんに対するさまざまな思いや、いたわりをぜひ話しかけてあげ、見取ってあげてください。臨終時は、患者さんと家族の大切な尊厳で静かな別れの時なのです。告知をきちんとしているからこそ、これができるのではないでしょうか。

(E.キューブラー ロス氏著書、山崎章郎氏著書他参照)