まなび
Learning of the Lord
2・・・旧約聖書から学ぶ
(その2)モーセ 10篇
第 41 号 手を挙げて祈る ・・・エホバ世々アマレクと戦ひたまはん
第 91 号 血の夫・わが花婿 ・・汝はまことにわがためには血の夫なり
第128号 異言の祈り ・・・・・霊と真とをもて拝すべきなり
第167号 パロの女の子 ・・・・罪のはかなき歓楽を受けんよりは
第168号 運命の転換 ・・・・・40歳になったとき、モーセは
第169号 神と出会う ・・・・・エホバの使者棘の裏のほのほの中にて
第170号 使命ということ ・・・わたしはあなたをファラオのもとに遣わす
第267号 栄光に輝く教会 ・・・彼はわたしの家のすべてに信頼されている
第293号 わたしの鳩よ ・・・・我わが諸の善を汝の前に通らしめ
第320号 コラとその仲間 ・・・わたしは直ちに彼らを滅ぼす
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第41号 手を挙げて祈る 01/11/05
是(ここ)においてヨシュア 刃(やいば)をもて
アマレクとその民を敗(やぶ)れり
エホバ、モーセに言たまひけるは
之を書に筆(しる)して記念(おぼえ)となし
ヨシュアの耳にこれをいれよ
我必ずアマレクの名を塗抹(けしさり)て
天下にこれを誌(おぼ)ゆることなからしめんと
斯てモーセ 一座(ひとつ)の壇を築き
その名をエホバニシ(エホバ吾旗)と称(とな)ふ
モーセ云(いひ)けらく
エホバの宝位(くらひ)にむかひて 手を挙ることあり
エホバ世々アマレクと戦ひたまはん
(出エジプト記 17章13〜16節)
And Joshua discomfited Amalek and his people
with the edge of the sword.
And the LORD said unto Moses,
Write this for a memorial in a book,
and rehearse it in the ears of Joshua:
for I will utterly put out the remembrance of Amalek
from under heaven.
And Moses built an altar,
and called the name of it Jehovahnissi:
For he said, Because the LORD hath sworn
that the LORD will have war with Amalek
from generation to generation.
( EXODUS 17:13〜14 )
エホバニシ エホバわが旗
モーセは壇を築いた。その名がエホバ二シ。
アマレクとの戦いを経て、聖霊は壇を築くように導き給うた。
壇には献げものが捧げられ、祈りがなされる。
旗を見れば、この軍の所属が一目でわかる。
モーセが神の宝位にむかって手を上げて祈った時に、
神がこの戦いを自分の戦いとして引き受けて下さった。
手が重くなり、下ろしたときには、目に見えるところが逆転して、
アマレクが優勢となり、ヨシュアの率いるイスラエルが劣勢となる。
神はモーセに、そして、アロンとホルに無言でこの真理を教えた。
モーセが神の宝位にむかって手を上げて祈ることが、
どのような意味をもつのかを・・・
肉をもつ我らが人生の戦いを戦っているとみえるが、
霊の世界のつわものであるサタンは実に手強い相手だ。
いくら頑張っても、その強力な勢いに押され、おされてゆく。
どうした時に我らの軍ヨシュアの軍が優勢になったのであろうか。
モーセが神の宝位にむかって手を上げて祈った時であった。
神がこの戦いを自分の戦いとして引き受けて下さった時であった。
サタンに勝利する道は一つ、聖霊でおわしたまう神さまに戦っていただく事だ。
色々な問題が迫ってくるが、神の宝位にむかって手を上げて祈るこの姿勢。
われらの目に奇跡とも思え、不思議とも思える、逆転がなされてゆく。
そして、勝利の暁には、アーやっぱり、神さまだ。イエスさまだ。と・・・
神さまの聖名、イエスさまを崇めてゆく。
教会は壇である。祈りの家だ。
そこではイエスさまが自らを捧げていて下さる。
祈りが答えられ、問題が解決するのは、
イエスさまが立ち上がって戦ってくださるからに他ならない。
戦わん戦わん サタナ来たれども
エリシャの神なる イエスは先立ちぬ
ハレルヤ歌いて 進み行けば
天の軍勢万軍の主 我らを助く
勝鬨の声は 野辺にも山にも
はるかに響きて 栄光かがやく
証しの幕屋は 喜び満ちて
天の軍勢万軍の主 ハレルヤ歌う
(霊讃歌75番「霊の戦い」2, 4節)
☆ ☆ ☆
第91号 血の夫・わが花婿 01/12/26
モーセ途にある時エホバかれの宿所(やどり)にて
彼に遇(あひ)てころさんとしたまひければ
チッポラ利(するど)き石をとりて
その男子(むすこ)の陽(まへ)の皮を割(き)り
モーセの足下(あしもと)になげうちて言ふ
汝はまことにわがためには血の夫なりと
是においてエホバ、モーセをゆるしたまふ
此の時チッポラが血の夫といひしは割禮の故によりてなり
(出エジプト記 4章24〜26節)
And it came to pass by the way in the inn,
that the LORD met him, and sought to kill him.
Then Zipporah took a sharp stone,
and cut off the foreskin of her son,
and cast it at his feet, and said,
Surely a bloody husband art thou to me.
So he let him go:
then she said, A bloody husband thou art,
because of the circumcision.
( EXODUS 4:24〜26 )
この年、ずっと開催されていたアフリカ大聖会のことや監督・村井純基先生のこと
教会に連なる聖徒方の身辺におこっている諸問題などを、御霊は日々に祈らせたまう
常にさまざまの祈りと願ひとをなし、御霊によりて祈り
また目を覚まして凡ての聖徒のためにも願ひて倦まざれ
(エペソ書 6章18節)
ゆうべは夢の中でモーセのこの劇的な事件についてぼんやりと黙想していた
エホバ神がなさろうとしておられる神の民イスラエルの救済の事業に
モーセは実に適任者として選ばれ、神の杖を手に執りエジプトに帰ってゆく
その妻チッポラと息子ゲルショムを伴って、彼はその途にあった
使命を悟り前向きに進むこうした状況の中で
モーセ途にある時エホバ・・・
彼に遇(あひ)てころさんとしたまひければ
という不可解な驚きの話が、何故この物語の中に挿入されているのだろうか
至高神の深い洞察の世界、その「複眼思考」ということが頭をよぎる
つまり、エホバ神のひとつの眼は
このモーセを救済者として「よし」としたが
いまひとつの眼は「いな」とした
その「いな」とした理由として
血の要求が満たされていないということか・・・
おほよそ律法によれば、萬のもの血をもて潔めらる
もし血を流すことなくば、赦さるることなし
(ヘブル書 9章22節)
満たされた曉には転じて「よし」とされた
割禮がなされた時に流された血がモーセの体についた
そこに格別の意味があると推察する
割禮の要求は創世記17章の中にみられる
アブラムが99歳の時、エホバ神が顕れて彼と間に契約を立て給いし時
アブラムという名をアブラハム(衆多の人の父)と改名をなし給い
割禮を命じておられる
汝等其の陽の皮を割(きる)べし是我と汝等との間の契約の徴なり
(創世記 17章11節)
契約の徴という意味で割禮があるということは至極明瞭である
思うに主イエスさまも我らのために御血を流してくださった後
全人類に対する贖罪のご事業をおし進めて下さっている
願くは永遠の契約の血によりて
羊の大牧者となれる我らの主イエスを・・・
(ヘブル書 13章20節)
はたして、この場面のモーセとチッポラの場合はその意味なのか
ここでの文脈がとても唐突なので、いまは明確には答えられない
でも、夢の中で考えたことをつぎに記録してみる
聖書にみられる救いのご事業には必ず「血」が要求される
汝はまことにわがためには血の夫なり
とのチッポラの叫びが神のみこころにかなったことは事実である
わたしたちが妻チッポラの立場であり
主イエスさまが救済者モーセの立場であると観るならば
わたしたちはチッポラの如く叫ぶことが要求されているわけだ
「汝はまことにわがためには血の夫なり」と叫び
陽の皮を割(きる)ことが大切なのだ
思うに我らはこころの中にみな元来、堅い皮を持っている
まず、この世の富に執着するこころがある
汝ら神と富とに兼ね事(つか)ふること能はず
(マタイ伝 6章24節)
人の過ちを許せないというこころもある
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父も
あなたがたの過ちをお赦しになる
(マタイ伝 6章14節)
こうした堅いものを切り取れという御霊の声を夢の中で聴いたようだ
「我(が)」というものが切り取られることを主は望んでおられる
預言者イザヤは救い主のお姿を血に染んだ人として描いている
・・・かれらの血わが衣にそそぎ
わが服飾(よそほひ)をことごとく汚したり
そは刑罰の日わが心の中にあり
救贖(あがなひ)の歳すでにきたれり
(イザヤ書 63章3〜4節)
われらが主イエスさまを「血の夫・わが花婿」であると認識する時
主はきっとご満足なさるのであろう
☆ ☆ ☆
第128号 異言の祈り 02/02/04
神は霊なれば、
拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり
(ヨハネ伝 4章24節)
God is a Spirit:
and they that worship him must worship him
in spirit and in truth.
( JOHN 4:24 )
「立春」
きょうは暦によればもう春です。
人生の冬の季節を通っておられる方にも、いまに春が巡ってきます。
この金曜日、2月1日の夕刻、わたしは東京教会の講壇の前に座っていました。
会堂の一番うしろの席には一人の青年と牧師先生が並んですわっておられ
ずいぶん前からお二人の祈り声が朗々と響いていました。
この青年の口からは滔々と溢れ流れる激流のように「異言」の祈りがほとばしり
止まる事を知らないようでした。
耳には、高らかに激しくまた穏やかにやさしく、その聖霊の祈りは波を打って
何かを訴えているのかとも思えるし、そうでもなく讃美しているようでもあり
牧師先生もこの青年の為に心を注ぎ出して、祈っておられるようでした。
講壇の正面には墨痕あざやかにどっしりとした筆致で、このヨハネ伝の聖句が掲げ
られてあり、わたしはじっと目をこらし長らくその意味をかみしめておりました。
お祈りが終わった気配がしたと思うと、その青年の大きな声が聞こえました。
「ああ不思議ですねーーー、この掲げられている聖句そのままの『霊と真』で
今日は充分にお祈り出来ました。
いろいろあったけどスッキリしました。感謝します。」
出エジプト記を見て参りますと
バアルゼボンの前のピハヒロテにて背後に迫り来るパロの軍勢の激しい
戦車と軍馬の響きに恐れをなした人々の姿がリアルに描かれてあります。
そして強い東風をもって海を退かせその海を真二つに分けた主さまはイスラエルの
人々に海の中の乾ける所を通らしめ、大なる神のみ救いを体験させています。
汝はその贖ひし民を恩恵(めぐみ)をもて導き
汝の力をもて彼等を汝の聖き居所(すみか)に引たまふ
(出エジプト記 15章13節)
主は彼らにマナというパンと鶉(うづら)という肉を与え
メリバにおいて磐より水を出させておられます。
このことをコリント前書10章1〜4節において
パウロ先生はこのように解説しています。
我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、
みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり
而して皆おなじく霊なる食物(くいもの)を食し、
みな同じく霊なる飲物を飲めり
これ彼らに随(したが)ひし霊なる岩より飲みたるなり
その岩は即ちキリストなりき
かれらはモーセに導かれてシナイ山の麓にまでやってまいりました。
エジプトで長らく奴隷であった人々を主がいかに養い、教育したもうたか・・・
それは実に興味の尽きないところです。
なぜならば、この人々こそ今を生きる「わたし自身」だからです。
「水と霊」によりてサタンの支配下を脱しキリスト・イエスさまのご支配を受けて
私どもは霊の食い物、飲み物で養われて導かれて参りますが
遂には、神を礼拝する民となるべく神の山にまでやってきます。
汝等は我に対して祭司の國となり聖き民となるべし
(出エジプト記 19章6節)
霊と真にて神を礼拝する。
主はまことの礼拝者を求めておられる。 ハレルヤ!
☆ ☆ ☆
第167号 パロの女の子 02/03/15
信仰によりてモーセは人と成りしとき
パロの女(むすめ)の子と稱へらるるを否み、
罪のはかなき歓楽(たのしみ)を受けんよりは、
寧(むし)ろ神の民とともの苦まんことを善とし、
キリストに因る謗(そしり)は
エジプトの財宝(たから)にまさる大なる富と思へり、
これ報(むくい)を望めばなり。
(ヘブル書 11章24〜26節)
By faith Moses, when he was come to years,
refused to be called the son of Pharaoh's daughter;
Choosing rather to suffer affliction with the people of God,
than to enjoy the pleasures of sin for a season;
Esteeming the reproach of Christ greater riches
than the treasures in Egypt:
for he had respect unto the recompense of the reward.
( HEBREWS 11:24〜26 )
ヨセフが兄達に売られてエジプトに奴隷となったことから始ったヤコブ家の歴史が
大きなうねりをもって、全家族のエジプト移住になり
ここに「ヨセフ物語」は一応の結末を迎えた。
その後のことは『出エジプト記』に書き継がれており、
その冒頭のことばは
イスラエルの子孫(ひとびと)饒(おほ)く子を生み
弥増(いやまし)殖(ふ)え甚だしく大に強くなりて
国に満るにいたれり。
(出エジプト記 1章7節)
エジプトに於いてイスラエルは「民族として誕生」したといえます。
エジプトをこの世とみるならば、神の民もこの世に於いて生まれ成長してゆきます。
しかし、いつまでも「エジプト・この世」ではありません。
神の時がやってきて「出エジプト」の時を迎えます。
さてイスラエルの子孫(ひとびと)のエジプトに住居(すまひ)し
その住居の間は430年なりき。430年の終りにいたる即ちその日に
エホバの軍隊みなエジプトの国を出たり。
(出エジプト記 12章40〜41節)
さて、レビの家系コラ人の族(やから)コハテがアムラムを生んだが・・・
アムラムの妻の名はヨケベデといひてレビの女子(むすめ)なり
是はエジプトにてレビに生まれし者なりしが
アムラムにそひてアロンとモーセおよびその姉妹ミリアムを生めり。
(民数紀略 26章59節)
このレビの家系のアムラム家の第三子の誕生のことが、出エジプト記 第2章の主題で
ある。ヨケベデが男子を出産、三月のあいだこれを匿(かく)して育てたが、
匿し続けられなくなって、遂に
パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、
その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
(出エジプト記 2章3節)
そこに登場したのが、パロの女(むすめ)であった。
何という出会いであろうか。運命の転換がここに見られる。
ヘブル人の子として生まれたこの男の子が、パロの女の子となって・・・
王女は彼をモーセと名付けて言った。
『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』
(出エジプト記 2章10節)
モーセの生い立ちとその後の成長は興味津々で、人々の心を魅了するものではあるが
その後のモーセのエジプトからミデアンへの逃亡を述べた新約のヘブル書のこの聖句が
パロの女の子と呼ばれた彼モーセの精神とその心を簡潔に表明している。
罪のはかなき歓楽(たのしみ)を受けんよりは、
寧(むし)ろ神の民とともの苦まんことを善とし
(ヘブル書 11章25節)
☆ ☆ ☆
第168号 運命の転換 02/03/16
40歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを
助けようと思い立ちました。
・・・
モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとして
おられることを、彼らが理解してくれると思いました。
しかし、理解してくれませんでした。
(使徒行伝 7章23節、25節)
And when he was full forty years old,
it came into his heart to visit his brethren the children of Israel.
. . . . .
For he supposed his brethren would have understood
how that God by his hand would deliver them:
but they understood not.
( ACTS 7:23, 25 )
モーセとは「引き上げる」という意味。
王女によって水から引き上げられたその瞬間に、ヘブル人として生まれたこの幼子は
エジプトの王家の一員となったのでした。全き「運命の転換」を経験したのでした。
わたしたちも同様です。主イエス・キリストさまの御血潮をくぐった瞬間に
この世に死に、神の国の人、主イエス家の家族の一員となったのです。
喜び 楽しみ
讃美せよ イエスを
古きは 過ぎ去り
新しき朝
(霊讃歌第161番「汝らは世のものならず」後唱)
王女の子として育てられ、エジプトの最高の学問を身に付けたことが、
測り知れぬ神の叡智によるものでありました。
斯くてモーセはエジプト人の凡ての学術を教えられ
言と業とに能力あり
(使徒行伝 7章22節)
彼にヘブル人としての『自覚』が生まれ、なすべき『使命』を感じたのが
「40歳の時」とステパノは言っています。
当時のパロ王家、最高のポストにあって、人の羨む王女の息子にも人知れぬ悩みが
ありました。地上の有限なものよりも神につく無限なものを求めて・・・
罪のはかなき歓楽(たのしみ)を受けんよりは、
寧(むし)ろ神の民とともに苦まんことを善とし、
キリストに因る謗(そしり)は
エジプトの財宝(たから)にまさる大なる富と思へり、
これ報(むくい)を望めばなり。
(ヘブル書 11章24〜26節)
天にあるお方からの語りかけがあったのでしょう。彼は大変な選択をしたのでした。
それはパロ王の怒りを買いました。そして・・・
彼は凡てを後に置いて、一人荒涼とした荒野を越えてミデアンの地へと逃げてゆく。
信仰によりて彼は王の憤りを畏れずしてエジプトを去れり。
これ見えざる者を見るがごとく耐ふる事をすればなり。
(ヘブル書 11章27節)
この神に向かう彼の姿勢に言い知れぬロマンを感じるではありませんか。
肉をもつ者として、若きモーセ青年の精一杯のトライをほろ苦く、
自分に当てはめて感慨にふけるわたしであります。みなさんはいかがですか?
さて、ミデアンの祭司リウエルは娘チッポラをモーセに与えました。見渡すかぎりの
荒涼としたミデアンの地でそれより40年間にわたる羊飼いの生活が始りました。
一切のエジプトの栄華を没却させる充分な厳しい自然がそこにありました。
彼男子を生みければモーセその名をゲルショム(客)と名づけて言ふ
我異邦(ことくに)に客となりをればなり
(出エジプト記 2章22節)
☆ ☆ ☆
第169号 神と出会う 02/03/17
モーセその妻の父なるミデアンの祭司エテロの群を牧ひをりしが
その群を曠野(あらの)の奥にみちびきて神の山ホレブに至るに
エホバの使者(つかひ)棘(しば)の裏(なか)のほのほの中にて
彼にあらはる彼見るに棘火に燃れどもその棘やけず
(出エジプト記 3章1〜2節)
Now Moses kept the flock of Jethro his father in law,
the priest of Midian:
and he led the flock to the backside of the desert,
and came to the mountain of God, even to Horeb.
And the angel of the LORD appeared unto him
in a flame of fire out of the midst of a bush:
and he looked, and, behold, the bush burned with fire,
and the bush was not consumed.
( EXODUS 3:1〜2 )
不思議な導きを感じて彼モーセは神の山に近づく。
そこは曠野、牧草も水も極度に乏しい静寂の世界である。
40年間という長きあいだ、この地で羊の群を飼っていた牧畜の人モーセが
幾度このホレブ山に来たであろうか 絶無とはいわぬまでも
決して羊の群を導ける場所ではない 牧草がないのだ。
しかし夕日に輝くこの溶岩の山並は引き付けてやまない魅力がある。
赤く、また蒼く、岩肌が陽光に照り映えて、
幻想の世界を現出していた。
夕闇が次第に迫り、高く空には一羽の鳥が旋回している。
モーセがふと目を上げ、遠方に不思議な光、ちらちらと燃えるような輝きを
その山裾にみつけた時に・・・
「あの光は何だろう。何が燃えているのか」と、とても好奇心がそそられた。
そしてゴロゴロとした溶岩のかけらとおぼしき石が一面に広がる世界を
モーセはその光に向かって足を進めた。
どうも柴のようなもの、とげとげした棘が燃えていると見える。
「何故だ、どうしてだ」・・・いままで一度も見た事のない現象であった。
いよいよ近づいてよく見ようとした。
いくら燃えても燃え尽きない『光』と『一塊の棘』が
くっきりとモーセの眼前に現れた。
さらに歩を進めてゆこうとした時である。
突、『モーセよ、モーセよ』との声がした。
「神の御声」であると彼は直感した。ここは神の山ホレブなのだ。
モーセは直ちに『ハイ』と答えた。
すると・・・
此処に近よるなかれ 汝の足より履(くつ)を脱ぐべし
汝が立つ処は聖き地なればなり
汝はいと聖き神の前にあるのである、肉なる者即ち「自己」を神の聖前に脱ぎ去れよ。
いわゆる『捨てよ!』である。
ルツ記には「足より履を脱ぐ」という行為についてこう解説している。
かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、
一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで
相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の
手続きであった。 (ルツ記 4章7節)
我らも神の聖前にある時は足より履を脱いで、そのお言葉に服する必要がある。
神は続けてこう言われた。
我はなんぢの父の神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神なり
モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。・・・
「神を見る」とは恐ろしい。しかしながら、こうとも言える。
人として最高の幸福は「神と出会う」事である、と。
☆
〈何烈摩西〉 ホレブ・モーセ
摩西引羊至野外 迄大神之山何烈 自荊棘中呼之曰
我乃自有自有者 生物之命在鮮血 我賜爾灑之於壇
以贖爾命蓋以血 因大悲永生在矣
ナイル河邊の葦の中、死を制御せし佳の揺籃、
生命鼓動のヘブル人嬰児モーセ、
水中よりファラオ王の娘によって援い出され、成人し、
妻の父ミデアンの祭司エテロの群を曠野の奥に導き、
神の山なるホレブ(何烈)に至る。
其處にて棘の裏の火焔中、
唯一の活ける神に遇ひ、
埃及文化を遠く離れ、
血による贖罪の救いを継承す。
「水輿霊福音」 《木村修三郎著》より
☆ ☆ ☆
第170号 使命ということ 02/03/18
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。
また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。
(出エジプト記 3章9〜10節)
Now therefore, behold,
the cry of the children of Israel is come unto me:
and I have also seen the oppression
wherewith the Egyptians oppress them.
Come now therefore, and I will send thee unto Pharaoh,
that thou mayest bring forth my people
the children of Israel out of Egypt.
( EXODUS 3:9〜10 )
その時モーセはすでに80歳であった。
きっと若い時の力がすでに失せていた事を
充分に意識していたにちがいない。
エジプトを去ってすでに長い時間が経過して、
かつてのあの勢いはすでにない。
そのことを主なる神はなんにも問題にしておられない処に
『霊の世界』のすごさがあるといえる。
モーセは尻込みし、躊躇し、口下手だと言い、
何とか他の誰かに代わってもらいたいと
逃げている様子になんとも親しみを覚える。
また、語りかける神なる主さまに「お名前は?」と
尋ねている。
その御返事がとてもふるっている。
わたしはある。わたしはあるという者だ。
そして、イスラエルの人々にはこう言いなさい。
「わたしはある」という方が
わたしをあなたたちに遣わされたのだ。
使命ということは実に不思議なもの。
こころの中に確信が強く、次第に強く与えられてゆく。
神さまが喜んでおられるという響きが霊にコダマして、力を得てゆく。
信仰が与えられる、ということなのであろう。
色々の障害が横たわっているのだが、
踏み出すと不思議にひとつひとつ取り除かれて、
またその次の一歩が開かれているのを感じる。
そして強く思うことは、神さまが力強く進んでおられるのだから、
自分は神さまの後から従って行けばよいのだ。
永世に輝く 栄光の国を
我らは望みて 進みゆく
イエスの救い 喜びのおとずれ
天より降りて 贖いなりぬ
千年王国 早くもきたる
歌え新婦ら 新郎きたる
(霊讃歌 第70番「勝利の道」1節)
☆ ☆ ☆
第267号 栄光に輝く教会 02/07/11
わたしの僕モーセはそうではない。
彼はわたしの家のすべてに信頼されている。
口から口へ、わたしは彼と語り合う
あらわに、謎によらずに。
主の姿を彼は仰ぎ見る。
(民数記 12章7〜8節)
My servant Moses is not so,
who is faithful in all mine house.
With him will I speak mouth to mouth,
even apparently, and not in dark speeches;
and the similitude of the LORD shall he behold:
( NUNBERS 12:7〜8 )
モーセ。
神の御手の中にしっかりと握られた「僕(しもべ)」。
数奇な120年の彼の生涯を「聖書」を通して学ぶ。
神がわれらにご自身をお示しになる時には、
こうしてモーセのような存在をお造りになり、
彼を通してわれら一般に語りたまうのだと、わかる。
これが神の属性である「聖」というご性質に拠るのだと納得する。
彼が神の前に立ち、常に「忠実」な僕であることによって、
あたかもレンズのように、神の美しいご性質、ご品性などあらゆるものが、
彼を通してこの地上に投影され、新創造されてゆく。
こうして、イスラエル(神が支配する)民族の誕生となった。
しかしながら、かつてエジプトの奴隷であったこの肉なるイスラエルは常に偶像に迷い
目には見えない、霊なる、いと聖き、いと高き「真の神」を知ることがにぶい民であり
実に「うなじの強(こは)き民」であり、その教育は容易ならざるものであった。
モーセが神に出会うためにシナイ山にゆき留守をしている間に、
はやくも彼らは金でもって「若い雄牛の鋳像」を造り、
この偶像の前でイスラエルの民は「座って飲み食いし、立っては戯れた」。
この民の性質を神は見抜き給うてモーセにこのように言われている。
わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
今は、わたしを引き止めるな。
わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。
わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。
(出エジプト記 32章9〜10節)
この時、モーセの嘆願によって神は御心を翻してくださり
この民イスラエルを滅ぼしたまわなかった。
イスラエルを神の民として育てようと律法を与え、数々の訓戒を与え、
厳しい荒野において教育を施してくださった。
偉大なる天地の神とこのイスラエルの民の中に立つモーセには
深く悟るところがあった。
自分も、目の前にいるイスラエルの民もあくまでも過渡的な「たたき台」にすぎず、
本格的な神のご事業は「将来」においてきっと完備するに違いない・・・と。
かくして彼モーセは将来に目をむけて、この民にこう明言している。
あなたの神、主はあなたの中から、
あなたの同胞の中から、
わたしのような預言者を立てられる。
あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
(申命記 18章15節)
「わたしのような預言者」すなわち、神と人の中にたつ「中保者」。
われらの主イエスさまはそのまさに「中保者」であられる。
かつてモーセが出エジプトの過越の時に民に用意させた「贖いの羔羊」。
この羔羊なる主イエスさまが贖いの為に十字架に架かり、流したまいし「血と水」。
裂きたまいし御肉、これらによって新しく創造された「教会」が今ここにある。
この「教会」こそは霊のイスラエル(神が支配する)であり、主の御体。
主イエスさまの新婦となるべく「いいなずけ」せられた存在である。
神の持っておられる全てのものが、主イエスさまを通して「教会」に与えられ
注ぎ込まれる。その永遠の生命、無限無量のご愛、その慈しみ、その赦し・・・
聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、
キリストの体を造り上げてゆき、
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において
一つのものとなり、成熟した人間になり、
キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
(エフェソの信徒への手紙 4章12〜13節)
モーセはこの末の世に至り、美しい「教会」が全世界に興されていく姿を見て、
神の御旨の広大さ、その豊かさに感涙し、天にありて神を称えていることであろう。
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、
教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは
何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に
立たせるためでした。
(エフェソの信徒への手紙 5章26〜27節)
☆ ☆ ☆
第293号 わたしの鳩よ 02/08/16
エホバ言ひたまはく
我わが諸(もろもろ)の善を汝の前に通らしめ
エホバの名を汝の前に宣べん
我は恵まんとする者を恵み、憐れまんとする者を憐れむなり。
(出エジプト記 33章19節)
And he said, I will make all my goodness pass before thee,
and I will proclaim the name of the LORD before thee;
and will be gracious to whom I will be gracious,
and will show mercy on whom I will show mercy.
( EXODUS 33:19 )
そもそも人間とは何か。
人間存在の根源を問いつつ、聖書を繙く。
はたして、ほんとうに人間は空しい存在なのだろうか?
モーセという人。
彼が辿った道のりはわたしたちを「霊の高嶺」に導き、
大宇宙の創造者と親しく交わり語り合うその現場まで私たちを案内してくれる。
そこには「透き通る青玉のごとき」世界が広がっていて、
神のみ光があたりを包んでいる。
そこは限りなく豊かな、満足度の高い「霊の空間」である。
この充実した祝福に満ちた「神の臨在」は人間をして、
その本来の霊的存在の高貴さをしっかりと把握せしめるものだ。
そこでは肉に属するあらゆる欲望は遥かなる下界のもの。
神の聖きに触れると、その豊かな充足感は一切の物の見方を変えてしまうほどだ。
モーセに引率されたイスラエルの七十人の長老たちにとって
シナイ山の山頂でのこの偉大なる創造の神との直接的な交わりのその経験は、
きっと人々にまとわりつく低次元のまどいを払拭するのに充分であったに違いない。
斯くてモーセ、アロン、ナダブ、アビウおよび
イスラエルの七十人の長老(としより)のぼりゆきて
イスラエルの神を見るにその足の下(もと)には透明(すきとほ)れる
青玉をもて作れるごとき物ありて輝ける天空(そら)にさも似たり。
神はイスラエルの此の頭人等(かしらたち)にその手をかけたまはざりき
彼等は神を見、また食飲(くひのみ)をなせり。
(出エジプト記 24章9〜11節)
シナイ山の頂上にあったモーセは「神の十誡」をいただくべく
ひとり神との交わりの中にいた。
その時の様子を聖書記者はこう書き残している。
彼はエホバとともに四十日四十夜其処に居りしが
食物をも食(くは)ず水も飲まざりき。
エホバその契約の詞(ことば)なる十誡を
かの板の上に書(しる)したまへり。
(出エジプト記 34章28節)
かのモーセ本人にどのような変化が起こっていたであろうか。
神と親しく交わる「被造物・人間」の一人として、神の前にいたモーセ先生。
彼はある意味で我ら全人類の代表であった。
モーセがシナイ山を下ったとき、
その手には二枚の掟(おきて)の板があった。
モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、
自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、
なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。
(出エジプト記 34章29〜30節)
「その面(かほ)の皮の光を発(はな)つ」(文語訳聖書)という現象・・・
これは確かに神による人間創造の根源に起因する。
神その像(かたち)の如くに人を創造(つくり)たまへり。
(創世記 1章27節)
であるからこそ、人が神に向く時に、神の持っておられるあらゆる属性が
われらに「こだま」し、反響してくる。
子が親に似るのは当然のこと。
我らは実に驚くべき存在なのである。
神と交わる・・・その時にわれらの霊性が高められ、
隠れている「神性」、その本来の高貴な人間性が現出する。
冒頭の聖言が物語っているように「わが諸(もろもろ)の善を汝の前に通らしめ」
すなわち神性が麗しく現れ出でて、われらは「恵みと憐れみ」を享受しつつ
最高の幸福を味わい知る者となってゆく。その約束の世界。
これがキリストに属く者、真のキリスト者である。
若し、われらが神に知られる者になりたい。
神と親しく交わる者になりたいと心より願うならば、
この創造の神を讃美することだ。
われ山にむかひて 目をあぐ
わがたすけはいずくより 来たるや
扶助は天地 すべ給うイエスの
恵と真の 御座より来る
讃美せよイエスを 天地の主
(霊讃歌128番1節)
たいへん有難いことには・・・
いまも天地創造の神がこのように、「わたしの鳩よ」と呼びかけ
私たち一人ひとりを求めていてくださるのだ。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。
お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。
(雅歌 2章14節)
☆ ☆ ☆
第320号 コラとその仲間 02/10/11
コラは共同体全体を集め、
臨在の幕屋の入口でモーセとアロンに相対した。
主の栄光はそのとき、共同体全体に現れた。
主はモーセとアロンに仰せになった。
「この共同体と分かれて立ちなさい。
わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」
彼らはひれ伏して言った。
「神よ、すべて肉なるものに霊を与えられる神よ。
あなたは、一人が罪を犯すと、
共同体全体に怒りを下されるのですか。」
(民数記 16章19〜22節)
And Korah gathered all the congregation against them
unto the door of the tabernacle of the congregation:
and the glory of the LORD appeared unto all the congregation.
And the LORD spake unto Moses and unto Aaron, saying,
Separate yourselves from among this congregation,
that I may consume them in a moment.
And they fell upon their faces, and said,
O God, the God of the spirits of all flesh, shall one man sin,
and wilt thou be wroth with all the congregation?
( NUMBERS 16:19〜22 )
コラという人、この世を知っている人。
どうすれば世が動き、事が成るか。
彼はレビの子ケハトの孫でイツハルの子。神に仕える貴き一族。
出エジプトがB.C.1370年であるから、今から3370年ほどの昔。
モーセに対する反逆。
実に「現代人」を思わせる彼の言辞と行動に驚く。
彼は己れの周辺に漲ってくる「力」をしっかりとその手に握りしめた。
まさに「民主主義」の精神である。
「世論」の力である。
神の存在を無視しその導きを悟らない。
モーセ、神のみ手の内の「奴隷」のごとき存在。
「神の人」といえば聞こえはよいが、自己の意志は皆無とせられ、
神のご指示のままに民イスラエルを導くという「預言者」の勤め。
順調にいっている時はそれでもよかった。
外なる敵に向かっている、その時は鮮やかな「神のみ手」が民に悟りを与える。
パロ王との戦いの後、紅海をよこぎり、メラの水を通過し、アマレクとの戦い。
神の山シナイの麓。契約の石の板を手に山頂より下る。
しかしいよいよ、カナンの地を目ざすべき時になって、
信仰の試みに負けた神を信じない人々のつぶやきが
神のみ心に打撃を与え、大きな転機を迎えさせてしまった。
「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。
どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。
妻子は奪われてしまうだろう。
それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」
(出エジプト記 14章2〜3節)
とんでもない呟きが天に在す神のみもとに届いた。
こうした「不信仰の罪」が神の逆鱗にふれてしまった。
彼らに「神を信ずる」という大切な信仰がないことが白昼のもとに曝された時に、
神はみ心を変えて「カナンの地」への道を塞いでしまわれた。
モーセとアロンは唯主なる神のご意志のままに動く「預言者」である。
民の不満が目の前の立っている「神の人たち」に向かう。
250万人ともいわれるイスラエルの民のこころに漲る「不満」を、
その時にコラは絶好の機会到来とキャッチした。
彼は「天の時」を待っていたといえる。
遂に、民を導く主導権をモーセの手から奪う時が来た。
彼はまず、ダタンとアビラムと徒党を組む。
さらに民の指導者たち250人に声をかける。
モーセとアロンに語る言葉は実に適切な・・・と誰しもが思える言葉であった。
あなたたちは分を越えている。
共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、
主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは
主の会衆の上に立とうとするのか。
(民数記 16章3節)
モーセはこれを聞くと、面(おもて)を伏せた。
神がこれに答えて下さるという「光」が彼には来ていた。
彼のこころを打ち割っていうならば、全てが「主の御業」なのだということだ。
主がわたしを遣わして、これらすべてにことをさせられたので、
わたしが自分勝手にしたのではない。
(民数記 16章28節)
コラは色々とモーセに不満を投げつけるが、一言に要約すれば・・・
我々の上に君臨したいのか。
(民数記 16章13節)
そうだ。コラは「民の声」という武器を手にモーセに立ち向かった。
神のご指導とはいっても現実に目の前に見えるのは「神ご自身」ではなく、
モーセとアロンである。
神の民イスラエルなのだから、
実際には神ご自身が「君臨」しておられるのだがそれがわからない。
霊の眼が閉ざされている。
霊の眼が開かれたらどうなるだろうか。
目の前のモーセもアロンも唯主なる神を見上げて、聖声を聞き、
謙って神に従っているのがわかる。
このことによって、天地の主なる神の「聖」が保たれ、
イスラエルは聖なる神の民として、
天來の薫淘にあずかる者として成長するのである。
このイスラエルが「花嫁なる教会」の雛形というわけである。
サタンのねらいは、神の「聖」を破ることであり「教会」を汚すことである。
霊界においては、神とサタンの一騎討ちなのだが、
モーセにたいする「コラとその仲間たち」という図式になった。
モーセは言った。
「・・・だが、もし主が新しいことを創始されて、
大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込み、
彼らが生きたまま陰府(よみ)に落ちるならば、
この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは
知るであろう。」
こう語り終えるやいなや、彼らの足もとの大地が裂けた。
地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、
家もろとも呑み込んだ。
(民数記 16章30〜32節)
了