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会沢正志斎 <あいざわ せいしさい>(1782-1863)水戸藩士

藤田幽谷に学び、「新論」を著す。この本は、尊王攘夷派の志士達に大きな影響を与えた。
藤田東湖らと共に、徳川斉昭の藩主擁立に尽力した
徳川斉昭の隠居と同時に処罰されたが、斉昭が復帰すると許された。
郡奉行、通事、彰考館総裁等を歴任し、藩政改革に乗り出す。
当初、強烈な尊王攘夷思想を表していたが、晩年になると変化し、
急進派の動きを抑制しようとする方向へ進む
晩年に著した「時務策」においては、攘夷思想を捨て、開国をして通商を結ぶべきであるとしている
この思想の変化は、尊王攘夷の志士達には裏切りと受け取られ、
彼を暗殺しようとする動きもあった
しかし、その翌年、老衰によって死亡した
享年82歳




赤根武人<あかね たけと>(1838-1866)長州藩士・奇兵隊

周防国岩国領の桂島の医者・松崎三宅の子として産まれる。
15歳の時、赤根家の養子となる。そして、吉田松陰、梅田雲浜に学ぶ。
彼は高杉晋作と共に英国公使館を焼き討ちにし、1863年10月奇兵隊に参加する。
尊攘志士の中でも穏健派だった彼は、俗論党の説得に成功するが、
高杉晋作がクーデターを起こしたため、その努力が無となる
そして、1866年、かつての仲間達によって処刑される。
享年28歳
辞世の句:「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」




浅野右近<あさの うこん>(1829-1897)芸州藩家老

家老三原浅野家10代忠敬の5男として生まれる
1856年、28歳の時に家督を相続する
辻将曹らと協力して、西洋式軍制を積極的に採用する
第一次長州征伐では幕軍として出陣したが、
第二次長州征伐では長州の弁護にまわった
1868年、大坂から英国人ブラックモールを招き、
松浜に洋学館を設けて家臣に英学や銃法を習わせ、藩の近代化に努める
享年68歳




浅野斎粛<あさの なりたか>(1817-1868)芸州藩主

安芸広島藩8代藩主浅野斉賢の嫡子として生まれる
1831年に君主となる
地方支配機構の改革・軍制の改革などで、藩政改革の成果を挙げる
1862年、上洛して薩長と攘夷に当るよう勅命を受け、政局に関与し始める
第一次長州征伐では反対の意見を上申し、第二次長州征伐でも
長州に対する寛大の処置・停戦を建白するなどし、何度も長州のために斡旋した
病弱な身体でもあった。
享年51歳




朝比奈茂吉<あさひな もきち>(1851-?)郡上藩士・凌霜隊

郡上藩の江戸家老朝比奈藤兵衛の子として生まれる
1868年、岩倉具視からの出兵命令を受け、
これを快諾した郡上藩家老の鈴木兵左衛門が密かに編成した徳川救援部隊の隊長に抜擢される
この部隊は凌霜隊と名付けられ、江戸を出発し、会津に入城する
そこで、白虎隊隊長日向内記の指揮下に入って奮戦する。
20日の死闘の後、会津は陥落し、茂吉は「朝敵の主謀者」として郡上藩に送られ投獄される
1870年3月に放免される。




姉小路公知<あねこうじ きんとも>(1839-1863)公卿

急進尊攘派公卿の中心人物の1人
通商条約の勅許問題では、反対運動の先頭に立ち
和宮降嫁に尽力した岩倉具視らを弾劾排斥する
三条実美と共に攘夷別勅使となり、幕府に攘夷実行を促した
翌年、国事参政となり、さらに翌年、畿内の海岸の防備巡検を命ぜられ
勝海舟の接待により幕府軍艦に乗り、大坂湾岸を巡航した際、開国論にも関心を示した
この開国論に関心を示したことが、過激な尊攘志士達の反感を買い
1863年、暗殺される
後日、生前の功が追賞され、参議・左近衛権中将を贈られた
享年25歳




阿部杖策<あべ じょうさく>(生没年不詳)幕臣・彰義隊

一橋家の家臣で、蘭学を学び、幕府の蕃書調所・開成所の教授を務める
のちに砲術を修め、陸軍の砲兵士官になる
彰義隊の名付け親で、隊内では、記録掛組頭を務めた。
新政府になってからは、文部省に出仕している




阿部正弘<あべ まさひろ>(1819-1857)老中・福山藩主

福山藩主・阿部正精の六男として生まれる
1836年、福山藩主となる
寺社奉行を経て、25歳で老中に就任する
ペリー来航の際、海軍伝習所の設立や台場の建設、講武所の設立等の海防強化と軍備拡充の手を打ち
諸大名や幕臣等に広く意見を求めた。
翌年、ペリーと日米和親条約を結び、日本の鎖国を解く
革新的すぎる政策のため譜代大名たちの激しい反発を招き、老中主席の座を堀田正睦に譲る
その後は内政に専念し、幕政全般の改革をしようとしていたが
1857年6月病死する
享年39歳




甘粕継成<あまかす つぐなり>(1832-1869)米沢藩士

10歳の時、藩校・興譲館に学ぶ
1862年には、学館典籍となる。
この年の末、藩主に従って京都と江戸を往来し、
1865年には、34歳で記録頭取に任ぜられる
藩籍に精通し、史学にも優れていた
「西洋通記」「亜米利加国史」など多くの著作を発表し、歴史書編纂に功績を挙げた
戊辰戦争では軍務参謀を務めたが、軍略や戦闘に関してはあまりよい評価は受けてはいない
戊辰戦争終了後、謹慎した後に許される
1869年、待詔院下局出仕となるが、まもなく病死する
享年38歳




天野八郎<あまの はちろう>(1831-1868)幕臣・彰義隊

上野国甘楽郡磐戸村の豪農・吉五郎の次男として生まれる
幼少より文武を好み、直心影流の使い手となる
将軍徳川家茂の第三次上洛の時に郷士に取り立てられる
鳥羽伏見の戦いの後、謹慎した徳川慶喜の警護と幕府の再興を目的とした戦闘集団・彰義隊に参加する
彰義隊結成当時は副頭取であったが、思想の違いから頭取の渋沢喜作が離反した後は頭取となる
上野戦争で彰義隊が壊滅した後、再起を図って単身で江戸に潜伏するも
ほどなく捕らえられて獄死する
享年37歳




有栖川宮熾仁<ありすがわのみや たるひと>(1835-1895)皇族

有栖川宮家の長男として生まれる。和宮の元許婚。
父と共に国事御用掛として朝政に関わるが、禁門の変をきっかけに免職され、参内を禁止される
1867年、新政府が樹立すると、総裁という新政府の最高職に就く
戊辰戦争では、東征大総督として全軍の指揮を執り、江戸城を接収して大総督府を置く
1870年、兵部卿として陸海軍の創設に尽力する
西南戦争では征討総督に任じられ陸軍大将になる
その後も、左大臣、参謀本部長等を歴任する
また、日清戦争では、総参謀長となる
しかし、その日清戦争の渦中に病気により死亡する
享年60歳




有馬新七<ありま しんしち>(1825-1862)薩摩藩士

薩摩藩士の子として生まれ、元服後、神影流を学び、独学で崎門学という朱子学を学ぶ
1855年、江戸に遊学し、崎門学の山口管山の門人となり、
翌年には、江戸藩邸内学問所教授になる
その後、梅田雲浜らと交わり、尊王攘夷運動に奔走する
1862年、島津久光が兵を率いて鹿児島を出発したことを倒幕の兵を挙げたものと解釈し
有馬新七ら尊王攘夷派は、蜂起して朝廷に討幕の詔勅の発行を迫ろうとしていた
島津久光は、これに薩摩藩士を参加させまいと、有馬ら志士の集まる寺田屋に使いを送った
しかし、彼らは納得せず、同士討ちとなった
有馬はここで闘ううちに刀の刃が折れたため、相手にしがみつき
助太刀に入ろうとした橋口吉之丞に「おいごと刺せ」と命じ、串刺しにされた
享年38歳




有馬藤太<ありま とうた>(1837-1924)薩摩藩士

1868年、東山道先鋒総督府副参謀として彦根藩兵を率いて千住に至り
甲府で敗走した甲陽鎮撫隊の近藤勇を流山にて捕縛する
近藤を一軍の将と認めていた彼は、上司に
自分が戻るまで近藤の処分を保留し相応の待遇を頼むという内容の手紙を送る
しかし、強硬派によって近藤は処刑されたため、これを悔やむ
その後、宇都宮戦で負傷したが、明治以降は功績を認められ政庁入りする
1873年、西郷隆盛の下野に従って野に下る
西南戦争の際に大阪で呼応して挙兵を企てるが事前に捕まり投獄される
出獄後は満州に渡り、1924年、死亡する
享年87歳




有村治左衛門<ありむら じざえもん>(1838-1860)薩摩藩士

鹿児島城下高麗町にて生まれる
1858年、江戸へ出て、千葉道場で北辰一刀流を学ぶ
大老・井伊直弼による安政の大獄に憤激し、1860年、水戸藩士17人と共に
桜田門外で井伊を討ち、首を獲る
しかし、警護の兵との斬り合いで重傷を負ったため、近くの辻番所の門前で喉を突いて自殺を図るが死にきれなかった
番所の役人に尋ねられても、喉の傷から空気が漏れて声にならないため
傷口を手で押さえながら、姓名だけはなんとか名乗るが、間もなく息を引き取る
享年23歳




安藤信正<あんどう のぶまさ>(1819-1871)老中・磐城平藩主

磐城平藩主の子として江戸に生まれる
1847年に家督を継ぎ、寺社奉行、若年寄等を歴任する
1860年、老中となり、井伊直弼死後、久世広周とともに幕閣の中心人物となる
開国、公武合体策を推し進めた。
また、諸外国との条約締結やヒュースケン殺害事件など外交問題の処理でも活躍する
1862年、坂下門外で水戸浪士に襲われて負傷し、この事で批判を浴び
やむなく老中を辞任、政治的に失脚する
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟側について戦う
享年53歳




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