≪ひ≫




東久世通禧<ひがしくぜ みちとみ>(1833-1912)公家

8月18日の政変で追われた七卿の1人。
長州兵に守られて周防三田尻に逃げ延びる
この際に官位を剥奪され、大藪竹斎という変名を用いるようになる
王政復古によって帰洛し、政界に復帰する
明治新政府の下では外交事務を掌握する
1871年、岩倉使節団に同行し、翌年帰国する
その後、元老院、貴族院、枢密院等で活躍する
享年79歳




東中務<ひがし なかつかさ>(1835-1912)盛岡藩家老

1849年、元服して14代藩主・南部利義に1年仕える
その後、次の藩主となった南部利剛に仕え、力をつけていく
一気の責任で楢山佐渡が罷免された後、藩政を牛耳るようになる
財政改革を行い、リストラなどを行った
この急激な改革を恐れた反対派は、楢山佐渡を立てて対抗するようになる
それは戊辰戦争が終わる頃まで続いた
戦後、藩政に復帰し、戦後処理などに奔走する
享年77歳




樋口眞吉<ひぐち しんきち>(1815-1870)土佐藩士・土佐勤王党

土佐西部(幡多)勤王党の首領格の人で、幕末の志士。
名は武。字は子文。号は彬齊、愚庵、南溟など。幼名平八郎。
文化12年11月8日、高知県幡多郡中村(中村市)に生れる。徒士・信四郎の長男。
幼少の頃から父の指導を受けて剣術を修める。
一方学問には19歳頃めざめ、遠近鶴鳴(とうちか・かくめい)に師事する。
天保8(1837)年、23歳のとき筑後三池の大石神影流の大石進の門下生となる。
鍛錬60余日で印加(免許)を受ける。
帰郷後、中村に家塾を開き、その門弟数は1,000人にも及んだ。
家格は初め組外であったが、嘉永末年には徒士格となり幡多、香美郡の郡下役を歴任した。
外国船の近海出没により生じた海防問題が起こると、須崎以西のお台場(砲台)の築造の設計管理を担当、
砲術家としての勇名を馳せた。
文久元(1861)年、土佐勤王党を結成して帰国した武市瑞山を訪うて時局を論じる。
以後勤王運動に関する日記「愚庵筆記=遣倦録」を残す。
同2年6月には藩主の上洛の供をし、9月には谷干城とともに西南筋探索を命じられ熊本、長崎を廻る。
この主目的は三条実美の親書(上洛督促)を熊本藩主に渡すことであった。
帰洛後、直ちに江戸行きを命じられる(中川侯異勅問題報告のため)。
江戸では「当分江戸方徒目付加役」を被命。
武市瑞山が高知で下獄した際には自重論を唱えた。
彼は徒党を組んでの主張強要は頑として認めなかった。
しかし主張すべきことは文書を以って堂々と藩中枢に伝えた。
幡多郡(土佐藩西部)の勤王家に脱藩者が少なかったのは彼の功績である。
慶應4(1868)年戊辰戦争、東征の際には徒目付小荷駄裁判役となる。
凱旋後御留守居組に昇進。明治2年11月大納言徳大寺家の公務人となる。
幕末維新に関する膨大な記録を残す。
また「日新録」「邊警雑記」の著者として、坂本龍馬の庇護者としても知られている。
明治3年6月14日病没。享年56歳



土方歳三<ひじかた としぞう>(1835-1869)新選組

1835年5月31日、武州多摩郡石田村で土方隼人の四男として誕生。
1863年、上洛浪士組に参じた土方は、
近藤勇、沖田総司と共に京に残留して新撰組発足の礎となった。
その後、芹沢鴨や新見錦の両局長を粛正して、
近藤一門の結束を固め、新撰組の副長として、手腕を発揮した。
新撰組を一夜にして有名にした池田屋騒動では、その導火線なった古高俊太郎への拷問で、
五寸釘を足の甲に打ち貫き、百目蝋燭を傷口に流れ込ませた。
五稜郭の総裁選で、榎本政権の陸軍奉行並となり、新撰組を離れて市中の警備に当たった。
1869年5月11日、箱舘戦争の激戦において、
わずかな手兵を率い、馬に乗って出陣し、
刀をかざして敵中に斬り込んだとき、銃弾が土方の胸を貫いた。
享年35歳




人見勝太郎<ひとみ かつたろう>(1843-1922)幕臣・幕府遊撃隊

1843年、京都同心・人見勝之丞の子として生まれる
1867年、幕府遊撃隊に入隊し、鳥羽伏見の戦いに参戦する
その後、江戸に戻り、榎本武揚の艦隊に合流するが、途中で木更津に上陸する
ここで請西藩主の説得に成功し、徳川義軍遊撃隊を結成。各地で兵を募りながら抗戦する
諸藩兵を吸収した遊撃隊は100人に膨れ上がり、館山に布陣する
その後、山岡鉄舟の説得に応じず、箱館の関所を占領する
本州での戦いに敗れた後、箱館へ脱走し、蝦夷共和国の松前奉行に就任する
その後、松前から木古内での激戦で負傷し、箱館五稜郭に篭城する
赦免後、内務省や茨城県知事を勤める
晩年には会社を設立する
享年80歳




平野国臣<ひらの くにおみ>(1828-1864)福岡藩士

筑前国福岡城下に生まれる
1858年、脱藩し、尊王攘夷運動に参加する
元々「巳之吉」という名だったが、「国の家臣」という意味で「国臣」と改名する
1862年、寺田屋事件に連座して投獄される
その翌年赦免されると、沢宣嘉を擁して但馬生野において挙兵する
しかし、敗れて京都の六角獄に入獄する
1864年、禁門の変の混乱の中、在獄の32人と共に斬首される
享年37歳




広沢真臣<ひろさわ さねおみ>(1833-1871)長州藩士

長門国萩十日市に生まれる
藩の蔵元役等を勤めたが、1864年に俗論党によって投獄される
翌年出獄して政務役となり、藩政の中心人物として活躍する
1866年の第二次長州征伐後、交渉に来た勝海舟と広島の厳島で会見し、終戦協定を結ぶ
1868年、新政府に入って参与となり、翌年には参議となる
1871年、麹町富士見町の広沢の屋敷に何者かが侵入
妾と寝ていた広沢は、全身を15ヵ所にわたり斬りつけられ
喉を突かれた傷が致命傷となり死亡する
享年39歳




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