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星恂太郎<ほし じゅんたろう>(1840-1876)仙台藩士・額兵隊

陸奥仙台藩にある神社の家に生まれる
尊攘派と開国派による藩内抗争が激化した頃、家臣・但木土佐の暗殺を謀るが失敗し、脱藩する
その後、江戸や横浜で洋式兵学や砲術を学ぶ
1868年、額兵隊が組織されると帰藩し、その隊長となり訓練にあたる
そして、迫り来る新政府軍を前にし、藩から出撃命令が出ても
隊士の犬死にを避けるため、十分な装備を整えるまで出兵を拒み続けた
しかし、出撃準備が整った時に仙台藩が降伏してしまい、それに怒りをあらわにし、
雪辱をはらすために、単独で一戦を交えようとするが、細谷十太夫らの説得により断念する
その後、新選組、彰義隊、幕府遊撃隊らと共に蝦夷地に渡り、土方歳三の指揮下に入り
五稜郭降伏の日まで奮闘し続ける
戦後は、開拓史として出仕した後、北海道で製塩業を興す
享年36歳




細川斉護<ほそかわ なりもり>(1804-1860)肥後藩主

肥後支藩の宇土藩主・細川立之の子として生まれる
1818年、父の死によって家を継ぎ、立政と名乗る
1826年、宗家の肥後熊本藩に男子がいなかったため、藩主・細川斉樹の養子となり
家督を相続し、12代藩主となり、名を斉護に改める
藩政を担当している間、災害や凶作が続き、財政が困窮していた
そんな中、1847年に天草警備を命じられ、金のかかる海防を強いられる
さらに、1853年には本牧と相模の警備も任される
また、藩内部では、実学党と学校党との対立に苦しめられる
享年56歳




細谷十太夫<ほそや じゅうだゆう>(1845-1907)仙台藩士・衝撃隊(鴉組)

陸奥国仙台に生まれる。
下級武士であったが、20歳で郡役人になる
豪胆な性格で、あらゆる武器の使い方に精通していた
戊辰戦争勃発と同時に偵察方になる
1868年、江戸事情を探るために郡山まで出てきたが、
そこで、白河口で仙台藩が敗北したのを聞いて憤慨し、衝撃隊を組織するようになる
この衝撃隊は、当初、変装しての情報収集を主な任務としていたが
やがて様々なゲリラ活動をするようになる
衝撃隊の制服は、全て黒で統一し、もっぱら夜襲を行った
そのため、官軍からは「鴉組」という名で恐れられるようになる
仙台藩が全面降伏した後、加美郡に潜伏する
1869年、佐幕派狩りが行われると、仙台に潜入し、
民衆の保護を受けながら活動を続ける
1877年の西南戦争では、官軍として転戦し、日清戦争まで従軍した
後年は出家して、仙台市内の伊勢堂下龍雲院の住職となり、静かな余生を過ごす
享年68歳




堀田正睦<ほった まさよし>(1810-1864)老中・佐倉藩主

下総国佐倉藩主の子として江戸屋敷に生まれる
1825年、藩主となり、1841年に老中となる
一度辞任するが、1855年に復帰して老中首座を勤める
日米修好通商条約の勅許に尽くしたが、失敗し、井伊直弼と対立し、老中を罷免される
隠居後は、八丁堀の屋敷に移って悠々自適の日々を送る
享年55歳




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