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福岡孝弟<ふくおか たかちか>(1835-1919)土佐藩士

土佐藩家老・福岡家の分家に生まれる
咎めを受けて蟄居していた吉田東洋の塾に入門し、
後藤象二郎や板垣退助らと共に師事する
吉田東洋が藩政に復帰すると大監察として登用される
東洋が暗殺されると、後藤や板垣らと同様に辞職をする
しかし、1863年に行われた藩論一新で藩主の御側役になっている
藩の重臣として江戸や京都で活躍しているうちに
中岡慎太郎に感化され藩の行く末を考えるようになる
その後、坂本龍馬とも親交を深める
また、後藤と共に江戸に行き、大政奉還の建白書を幕府に提出する
維新後、新政府に出仕し、議事制度の確立に尽力し
由利公正と五箇条の御誓文の原案を起草する
享年85歳




福沢諭吉<ふくざわ ゆきち>(1834-1901)幕臣

中津藩士福沢百助の子として生まれる
14、5歳の時に漢学を学ぶ
1854年、蘭学を学ぶため長崎に遊学する。
翌年、緒方洪庵の適塾に入り、やがて塾長となる
1858年、藩命で江戸に出て中津藩中屋敷の長屋で、
現在の慶応義塾大学の前身となる蘭学塾を開く
ある時、横浜で西欧諸国の先進ぶりを目にし、蘭学が時代遅れである事を悟り
英語を独習しはじめる
1860年、幕府の遣米使節派遣に志願して渡米する
1861年、遣欧使節に参加
1866年、幕府の軍艦受取委員として2度目の渡米
1868年、幕臣を辞し、塾の名前を慶応義塾と改める
この頃から著作に専念しはじめる
その時期に書かれた「西洋事情」は、25万部のベストセラーとなる
維新後、新政府から何度も出仕を求められるが、これを固辞し続ける
塾の経営に専心し、啓蒙思想の普及に尽力した
「学問のすすめ」「文明論之概略」等を著す
享年67歳




福地源一郎<ふくち げんいちろう>(1841-1906)幕臣

長崎の医者・福地荀庵の長男として生まれる
福地桜痴(おうち)とも呼ばれる
名村八右衛門に蘭学を学ぶ
その後、江戸に出て幕府に仕え、文久、慶応の2回、幕府使節に従い渡欧する
明治元年に「江湖新聞」を発行したが、内容が佐幕的だったため、新政府に逮捕される
その後、大蔵省に出仕し、伊藤博文・岩倉具視に随行して渡欧する
帰国後、辞任し、東京日日新聞の主宰となる
西南戦争では山県参軍に従い、戦地で従軍記者として戦況報道をする
享年60歳




福原越後<ふくはら えちご>(1815-1864)長州藩家老

長州の支藩・周防徳山藩主・毛利広鎮の子として生まれる
毛利宗家の永代家老・福原家を継いだ後は名を越後と改める
長州3家老の1人
1864年、兵を率いて上洛し、禁門の変を起こす
しかし、途中で負傷してしまう
その年の11月、出兵の責任を問われて切腹する
享年50歳




藤田小四郎<ふじた こしろう>(1842-1865)水戸藩士・天狗党

藤田東湖の妾の子として生まれる
東湖の徒弟の原市之進の塾に学ぶ
1863年、藩主・徳川慶篤に随従して上洛し、桂小五郎や久坂玄瑞らと交わる
帰国後、水戸藩尊攘過激派の首領格となる
1864年、同志と共に筑波山で水戸天狗党を決起挙兵する
天狗党は日光に進軍するが、これを契機に藩内の佐幕派が台頭し
水戸城内は佐幕派に占拠された状態となり、天狗党は帰る場所を失う
水戸城奪還のために攻撃をするが、救援に訪れた幕府軍に敗れる
藩主・慶篤の弟である一橋慶喜を頼って京都へ向かうが
慶喜に受け入れられるどころか捕縛されてしまう
1865年、斬罪に処せられる
享年24歳




古屋佐久左衛門<ふるや さくざえもん>(1833-1869)幕臣・衝鋒隊

筑後国御原郡古飯村の庄屋の家に生まれる
19歳の時に脱藩。その後、江戸に出て幕臣の古屋家の養子となる
英語に堪能で、イギリスの「歩兵操練図解」を翻訳する
1868年、衝鋒隊を組織して会津戦争に参戦する
敗北後は、榎本武揚らとともに箱館に渡航する
箱館戦争で五稜郭の本営に砲撃を受けて重傷を負い、1ヶ月後死亡
享年37歳




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