≪い≫




井伊直弼<いい なおすけ>(1815-1860)大老・彦根藩主

彦根藩主・井伊直中の14男として生まれる
藩主となって8年後、大老に就任する
将軍継嗣問題と日米通商条約勅許問題を抱えることとなる
通商条約では、ハリスの圧力に対し、
勅許を得ない罪は自分1人で受けるという覚悟の上で条約に調印する
その6日後、将軍継嗣が、井伊の推す南紀派の徳川慶福に決定したと発表する
強引な政策に抗議する徳川斉昭らを無視し、彼らを不時登城の罪で処分する
これらのことで朝廷や一橋派らは激怒し、
あらゆる階層の人々が反発し、不穏な動きをはじめる
そこで、井伊は「安政の大獄」という大粛正によっておさめようとする
これが元でその翌年、桜田門外にて水戸浪士により暗殺される
享年46歳




井伊直憲<いい なおのり>(1848-1904)彦根藩主

井伊直弼の次男として江戸で生まれる
井伊直弼の死後、彦根藩主となる
15歳で家茂の名代となり、孝明天皇と謁見する
尊王攘夷派が台頭すると京都守護職を免じられ減封される
天誅組の乱に出兵したり、禁門の変に出動したりしたことが認められ奥山島の旧領を復活させる
その後も長州征伐や京都大阪の警護等を務め、朝廷や幕府の信頼を回復する
戊辰戦争でも功を挙げ、朝廷から賞与を受ける
維新後は旧領で教育や産業の振興に貢献する
享年57歳




飯沼貞吉<いいぬま さだきち>(1854-1931)会津藩士・白虎隊

飯沼時衛の次男として生まれる
1868年、白虎隊士中二番隊に入隊する。
白虎隊は年齢制限があり、年齢をひとつ偽って入隊している
会津戦争が勃発し、白虎隊も出陣する
戸ノ口原での戦いにおいて、隊長の日向内記が食料調達を理由に離脱し、
指揮官ともはぐれ孤立する形になる
そして、同行の隊士37名中19名を失い飯盛山に退却する
そこで、炎上する会津若松城下と黒煙に包まれた天守閣を目撃する
それを見て会津が滅んだと思い込み少年達は自害していった
貞吉も脇差しで喉を突くが、骨に当って通らなかった
そのため、前に倒れてその重みで切ろうとするもそのまま気絶してしまう
そこを知り合いの婦人に助けられ一命を取り留める
維新後、貞雄と改名し、工部省技術教場に入所し、電信建築技師となる
その後、仙台において病死する
享年78歳




池内蔵太<いけ くらた>(1841-1866)土佐藩士・海援隊

江戸で遊学している時、安井息軒の門で学びながら勤王志士と交わる
帰国後、武市半平太の土佐勤王党に参加する
1864年、佐幕思想を貫く藩政に嫌気がさして脱藩し、長州に身を寄せる
下関での外国船砲撃事件の際には遊撃隊参謀として参加する
天誅組挙兵の際には洋銃隊隊長として参戦し、大和五条の代官所を襲撃
その後も大和内の山岳地帯を転戦する
禁門の変では、長州藩の忠勇隊に所属して戦う
敗北して長州に帰ると海軍の必要性を説くようになる
また、四国連合艦隊下関砲撃の報復の時にも参謀として奮戦する
そして、土佐勤王党が弾圧され、武市半平太が切腹した後、坂本龍馬を頼り、亀山社中に参加する
亀山社中では武器購入や物資輸送などを手がけながら薩長同盟締結にも尽力する
1866年、士官として乗り込んだ薩摩のワイルウェフ号が塩屋崎沖で暴風雨に遭い
沈没するワイルウェフ号と運命を共にし、溺死する
享年26歳




池田七三郎<いけだ しちさぶろう>(1850-1938)新選組

上総山辺郡田間村商人・稗田佐五七の三男として生まれる
江戸に出て、一刀流剣術を学び、旗本の永見貞之丞の家来となる
毛内有之助を慕って入隊し、局長附人数となる
鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸帰還後、甲陽鎮撫隊として出陣した時も銃傷を負う
粂部正親を隊長格とした負傷者のグループに加わり会津へ先発する
母成峠の戦いで敗れた後、斎藤一らと会津に残留する
そして、如来堂守備中を襲撃され戦死したとされるが、脱出し、銚子警備の高崎藩兵に降伏する
東京に護送され、一年間の謹慎後、放免となる
1938年、最後の新選組隊士として死去する
享年90歳




生駒親敬<いこま ちかゆき>(1849-1880)矢島藩主

7歳の時、跡を継ぐ
戊辰戦争では、藩論をひとつにまとめ、秋田・亀田・本庄各藩と行動を共にし参戦する
しかし、庄内軍の鳥海越えの奇襲に遭い、矢島城は落城する
その後、薩長軍に従って、仙北軍の野戦に赴く
その戦功により、大内蔵から讃岐守に叙官される
その後、矢島藩知事となり、また廃藩置県で東京に移住する
享年32歳




伊地知正治<いじち まさはる>(1828-1886)薩摩藩士

鹿児島城下千石馬場に生まれる
3歳の時に文字を読み「千石の神童」と呼ばれる
しかし、熱病にかかり目と足に障害を負う
その後、薩摩御家流兵学「合伝流」を学び、その師範役になる
そして、藩校造士館の教官を経て軍奉行となる
薩英戦争や禁門の変で軍功を立て、戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀に任命される
土佐の参謀・板垣退助を援助し甲府城に入城し、甲陽鎮撫隊を追撃。近藤勇を捕殺する
薩摩の名軍師と呼ばれ、戊辰戦争ではいつも最前線に立って戦った
そして、会津若松城を落城させ、その武功によって永世賞典禄千石を与えられる
維新後、薩摩藩権大参事となり、故郷で善政をする
その翌年、教部省御用係となり上京する
1874年、参議兼議長となり、翌年、修史館総裁となる
西南戦争が起こり、西郷隆盛が自刃し、多くの薩摩人が倒れ、故郷が荒れるのを見て憂いを感じ
故郷に帰って鹿児島県民の救済にあたり、戦争孤児を義援したり、
復興のため殖産興業を推し進めるなどする
1886年、宮中顧問官を拝命するも、その年に死去する
享年59歳




板垣退助<いたがき たいすけ>(1837-1919)土佐藩士

高知城下で生まれる。後藤象二郎とは幼馴染であった
幼い頃から暴れ者であり、若手上士団の首領となり、同輩といさかいを起こし蟄居する
この時、吉田東洋に諭され、以後は東洋に師事するようになる
東洋が藩政に復職すると側用人に抜擢され、後藤象二郎と共に藩政を仕切る
1863年頃、土佐を脱藩した中岡慎太郎と会い、彼に感化され土佐藩倒幕派の急先鋒となる
その後、仕置役を経て大監察となり藩政の中核となるが、意見が聞き入れられず辞職する
1865年、江戸で遊学しながら洋式騎兵などの軍事技術を研究する
その後、京都に上り、中岡や西郷らと会談し、薩土連合による倒幕を密約する
戊辰戦争では、東山道先鋒総督府参謀となり、土佐藩兵を率いて東北へ進軍する
この時、「乾」という姓を「板垣」に変える
会津戦争では大殊勲を立て、永世賞典禄千石を授かる
戦後、帰国して大参事として土佐藩の改革に携わる
そして、士民平均の思想を説き地元で自由民権運動を指導する
1871年、参議となるが、1873年征韓論に敗れて下野する
翌年、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国党を組織し、民選議員設立建白書を政府に提出する
その後、高知に立志社を設立し、自由民権運動の先頭に立って活動する
1881年、自由党を結成し、初代党首に選ばれる
1882年4月6日、岐阜遊説中、暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と叫び、
民衆の喝采を浴びる
しかし、同年、三井財閥の資金提供により渡欧し、安易な行動を非難される
その後、帰国し、自由党を解散し、明治20年には伯爵になる
明治31年には隈板内閣の内相に就任。
内閣不統一で辞職し、政界を退いてからは社会改良運動に晩年を捧げる
享年83歳




板倉勝静<いたくら かつきよ>(1823-1889)老中・備中松山藩主

桑名藩主・松平定永の八男として生まれる
その後、備中松山藩主板倉勝職の養嗣子となる
安政の大獄で五手掛に任じられるが、弾圧に反対し、井伊直弼に罷免される
1862年、老中となり、徳川慶喜の宗家相続と将軍就任に尽力する
鳥羽伏見の戦いに敗れると慶喜に従い江戸に逃れ、老中を辞任する
その後、官軍によって日光に幽閉されるも大鳥圭介によって救出される
そして、戊辰戦争に身を投じることになる
維新後は、隠遁生活に入り、上野東照宮の神官となる
享年67歳




市川三左衛門<いちかわ さんざえもん>(1818-1869)水戸藩士・諸生党

水戸藩・市川家に生まれる
諸生党の党首として武田耕雲斎らの天狗党と対立する
天狗党の乱が起こると諸生党から追討軍を指揮し、これを弾圧する
1864年、執政として藩の実権を握るが王政復古によって藩政が逆転してしまう
戊辰戦争が起こると佐幕派を率いて水戸を脱出し、会津や北越を転戦する
そして、水戸に戻り水戸藩兵と戦うが敗れて逃走する
その翌年、東京で捕らえられ、極刑に処せられる
享年52歳




伊東甲子太郎<いとう かしたろう>(1835-1867)新選組

常陸志筑藩の郷目付・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる
同じ新選組の鈴木三樹三郎の兄。
水戸で神道無念流、江戸で北辰一刀流を学ぶ
この時、北辰一刀流の師である伊東誠一郎に気に入られ養子となる
1864年、藤堂平助の勧誘で入隊を決意し、弟や同志と共に近藤勇と入洛する
この時、名を甲子太郎に改名する
同年の編成では二番組長を務め、翌年の編成では参謀となる
1867年、孝明天皇の御陵衛士となって薩摩などの内情を探るとして、新選組から分離し
藤堂平助、鈴木三樹三郎ら十数名とともに高台寺月真院に本拠を構え、高台寺党を結成する
そして、倒幕志士と親交を深め、規模を拡大していく
しかし、同年11月、近藤勇の妾宅に招かれた帰りの途中
七条油小路で待ち伏せていた大石鍬次郎らによって暗殺される
享年33歳




伊藤軍兵衛<いとう ぐんべえ>(1840-1862)松本藩士

1861年、水戸浪士達による東禅寺襲撃事件が起こり、松本藩は寺の警護を行っていた
ここで、それまで外国人の横暴な態度や警備で藩の金が浪費されることや
外国人のために日本人同志が血を流すということを憂いていた彼は公使の暗殺を決意する
そして、1862年、単身で代理公使ニール中佐の寝室に近づくが発見される
しかし、そこで英国人水夫2人を斬って逃走する
そして、その翌日、松本藩邸で自刃する
享年23歳




伊藤博文<いとう ひろぶみ>(1841-1909)長州藩士

熊毛郡束荷村の林十蔵の子として生まれ、山下新兵衛組下の足軽・伊藤直右衛門の養子となる
1857年、奉公先の人物の紹介で吉田松陰の21番目の弟子となる
1858年、江戸・麻布の藩邸に到着し、刑死した吉田松陰の改葬を行う
その後しばらく桂小五郎と行動を共にするようになる
1852年、久坂玄瑞や高杉晋作が結成した御盾組に加盟し、英国公使館を焼き討ちにする
1863年、井上聞多と英国に留学し、英語の勉強をし、翌年帰国する
第一次長州征伐が本格化すると外国艦隊の脅威に備えるためと称し、
30名の力士隊を手兵とし、そのリーダーとなる
その後、長崎で武器の購入に立ち回り、戊辰戦争に参加はしてないが陰ながら援ける
維新後、新政府で外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事等を務める
1871年、岩倉使節団の一員として欧米を歴訪する
その後、大久保利通の後継者となり、工部卿から内務卿に就任する
1885年、初代内閣総理大臣に就任する
また、大日本帝国憲法の作成と発布等の功績を残す
1909年、ハルピンにおいて、韓国人の安重根によって暗殺される
享年69歳




井上馨<いのうえ かおる>(1835-1915)長州藩士

萩藩地侍・井上五郎の次男として生まれる
11歳の時、山口講習堂に入学し、17歳の時、萩の明倫館に進学する
20歳の時、萩藩の志道慎平の養子となる
また、江戸に赴き、桜田藩邸内の有備館で文武を学び、
斎藤弥九郎の塾で剣術を、岩屋玄蔵に蘭学を、江川太郎左衛門に西洋砲術を学ぶ
1862年、御盾組の一員として、高杉晋作や伊藤博文らと英国公使館を焼き討ちにする
同年、伊藤博文とイギリスに留学する
1864年、禁門の変や第一次長州征伐などでは講和のために尽力する
そんな中、尊攘派に代わって藩政を握った門閥保守派と対立する
そして、山口藩庁での会議の帰途、讃井町袖解橋で反対派の刺客に襲われ瀕死の重傷を負う
運び込まれた自宅ですぐに手術を受けることができたため、奇跡的に一命を取り留める
1865年、高杉晋作が諸隊を率いて政権奪取の反乱を起こした時、鴻城軍総督として参戦する
第二次長州征伐では、芸州口の参謀として活躍し、勝海舟と休戦協定を話し合う
維新後、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣等を歴任する
退任後は元老として活躍する
また、財界に強い影響力を持っていた
1915年、興津の別邸において病死する
享年80歳




井上源三郎<いのうえ げんざぶろう>(1829-1868)新選組

武州多摩郡日野宿出身で、八王子千人同心井上藤左衛門の三男として生まれる
試衛館道場に出入りし、近藤勇に従って京に入る
新選組では副長助勤を務める
池田屋事件では土方歳三に属し、池田屋到着後、屋内で戦う
そして、金十両、別段金七両の恩賞金を受ける
鳥羽伏見の戦いにおいて、千本松で討死する
享年40歳




井上泰助<いのうえ たいすけ>(1859-1927)新選組

武州日野出身。井上松五郎の次男として生まれる
井上源三郎の甥
1867年、入隊し、両長召抱人となる
鳥羽伏見の戦いでは、戦死した井上源三郎の首級を持ち帰ろうとするが
重すぎて断念し、近くの寺の門前に埋める
江戸帰還後、甲陽鎮撫隊に同行として日野にやってきた時に離隊する
享年71歳




井上八郎左衛門<いのうえ はちろうさえもん>(生没年不詳)桑名藩士・彰義隊

上野戦争では砲隊頭として参加する
鳥羽伏見の戦いでは砲兵を率いて奮戦するが、
徳川慶喜が大阪城を脱出したことで江戸に敗走を余儀なくされる
藩主の松平定敬が抗戦を唱えて柏崎へ移った後始末のため江戸に残る
その後、彰義隊に参加し、上野寛永寺周辺で新政府軍と戦うが、
大村益次郎の軍略の前に敗れる





伊庭八郎<いば はちろう>(1844-1869)幕臣・幕府遊撃隊

心形刀流宗家の伊庭軍兵衛の子として江戸下谷御徒町に生まれる
若くして剣を極める
1864年、将軍の親衛隊である奥詰に選ばれる
1866年、奥詰と講武所詰の者が遊撃隊として編成されると、そのまま遊撃隊士となる
鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れて江戸に帰還後、遊撃隊の一部を率い箱根に転戦する
そして、三枚橋のたもとで敵兵の斬撃を左手に受け、皮一枚を残して手首が切断される重傷を負う
その後、榎本武揚軍に加わって北上しようとするが乗っていた船が座礁し、やむなく上陸、潜伏する
1868年、北海道に渡り、蝦夷共和国に参加するが木古内で負傷し、箱館に移される
五稜郭で療養中、劇薬であるモルヒネを飲み、眠るようにして死亡する
享年26歳




今井信郎<いまい のぶお>(1841-1918)幕臣・見廻組・衝鋒隊

幕臣の子として生まれ、湯島聖堂で学問を学ぶ
26歳の時、見廻組の一員となり上洛する
戊辰戦争では、衝鋒隊の副隊長を務める
箱館五稜郭まで戦うが敗れて降伏し、投獄される
出獄後は農耕生活を営む
晩年はクリスチャンになり村長などを務める
また、坂本龍馬の暗殺に関与したことを晩年告白する
享年78歳




入江九一<いりえ くいち>(1837-1864)長州藩士

長門国萩土村の足軽の家に生まれる
1858年、吉田松陰の松下村塾に入門し、松陰四天王の1人に数えられる
吉田松陰の間部詮勝暗殺計画に協力したため入獄させられる
松陰の死後尊王倒幕に尽力し、高杉晋作の奇兵隊創設にも協力する
1864年、禁門の変に出陣し、久坂玄瑞らとともに鷹司邸に篭って奮戦する
入江は久坂らと共に鷹司屋敷で自刃しようとするが久坂に後事を託され、脱出を決心する
しかし、屋敷を出たところで福井藩兵に出くわし、槍で顔面を貫かれ、その場で切腹して果てる
享年28歳




色部長門<いろべ ながと>(1825-1868)米沢藩家老

幼少の頃から藩校・興譲館で学ぶ
1853年、家督を継ぐ
1859年、侍組頭兼江戸家老を経て、1865年に京都警護を命じられた藩主に従い上洛する
そして、総奉行として、御所南門の警護にあたる
戊辰戦争では、米沢藩軍総督として越後に出陣し、新潟港の警備に従事する
官軍が新潟を攻撃すると戦場に赴くが、銃弾に当り、自刃して果てる
享年44歳




岩倉具視<いわくら ともみ>(1825-1883)公家

公家の堀河康親の次男として産まれる
14歳の時、岩倉家の養子となる
1853年、鷹司政通に接近し、和歌の門人となる
1854年、孝明天皇の侍従となり朝廷で発言の機会を与えられるようになる
日米修好通商条約の勅許に関し、幕府に委任するという勅許案に反対し、阻止すべく動く
そして、条約勅許に反対する88人の公家を集めて参朝し、九条尚忠の案を撤回させる
和宮降嫁では、これを成功させるが、佐幕派の烙印を押され、洛中から追放される
そして、政界に復帰するまでの数年間、岩倉村で不遇の生活を送る
やがて、坂本龍馬などの諸藩の志士と交流をはじめる
薩摩藩の大久保利通と連携して朝廷内の親幕派追放を画策。討幕の密勅降下に導く
新政府では、参与、議定などの要職を歴任する
右大臣になると、欧米諸国との条約改正を交渉する特命全権大使として、使節団を率いて渡航する
1874年、赤坂喰違で高知県の不平士族武市熊吉らに襲撃されるが、
負傷しながらもかろうじて身を守る
その後、自由民権運動を抑え、皇室を擁護する華族制度の確立に尽力する
1883年、病死する
享年59歳




岩崎弥太郎<いわさき やたろう>(1834-1885)土佐藩士

土佐安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれる
1854年、江戸で安積良斎に学ぶ
帰国後、吉田東洋の私塾・少林塾に入門する
開成館が設立されると、そこに出仕するが、小役人にしかなれず、井ノ口村に戻る
藩政改革に奔走する後藤象二郎に長崎勘定役に抜擢されると
軍艦や武器の購入等で活躍し、経営が傾いていた土佐商会の立て直しに努力する
維新後、土佐商会を基盤に九十九商会を興し、海運業を始める
その後、三川商会と改め、さらに三菱商会を興し、
日本郵船会社の元となる三菱汽船会社に発展させる
西南戦争では軍事物資の運搬を独占し、莫大な利益を上げる
そして、東洋の海運王と呼ばれる存在となり、大財閥・三菱の礎を築く
享年52歳




岩瀬忠震<いわせ ただなり>(1818-1861)幕臣

急進的な開国論者で、藤田東湖や徳川斉昭に開国を説く
阿部正弘に抜擢され、応接掛、海防掛を兼任する
日米修好通商条約等の対外条約調印にはほとんど参加する
しかし、将軍継嗣問題で一橋派を支持したため、安政の大獄で失脚。謹慎する
享年44歳




岩村高俊<いわむら たかとし>(1845-1906)土佐藩士・陸援隊

1867年、藩命により上京して国事に奔走する
坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されるのを知ると、陸奥宗光らと共に復讐のため天満屋に乗り込む
戊辰戦争では、東山道先鋒総督軍を率いて信越に出征する
そして、長岡藩家老・河井継之助と会談するが、河井が希望する中立国構想を一蹴する
このため、長岡藩は徹底抗戦を余儀なくされる
その後、岩村は奥羽まで転戦し、軍功を賞される
戦後、宇都宮、神奈川県等の権参事となる
1874年には、佐賀県令となり江藤新平による乱を鎮定する
その後、県令や知事を歴任し、貴族院議員となり男爵を授けられる
享年62歳




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