≪か≫




海江田信義<かいえだ のぶよし>(1832-1906)薩摩藩士

薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として生まれ、海江田伊三次の養子となる
江戸で藤田東湖に学ぶ
水戸家に肩入れし、一橋慶喜の将軍襲位を画策するが瓦解する
そして、安政の大獄で幕吏に追われ西郷隆盛らと鹿児島に逃れる
藩内で西郷、大久保らと誠忠組を組織し、幹部として国事に奔走する
1862年、寺田屋事件の事後処理を行うが、その帰り道で外国人を斬り殺し
生麦事件として日英間の国際問題となる
翌年、英国艦隊が鹿児島に襲来すると、抜刀隊を選抜し、敵艦に斬り込みを図るが失敗する
戊辰戦争では、東海道先鋒総督府参謀に任命され、江戸無血開城に尽力する
戦後は、刑法官判事、弾正大忠等を歴任し、奈良県知事となる
そして、さらに元老院議官となり、明治20年にはヨーロッパに遊学する
帰国後、枢密顧問官に任じられる
享年75歳




梶原平馬<かじわら へいま>(1842-1889)会津藩家老

会津藩家老・内藤介右衛門の次男として生まれる
1865年に若年寄、その翌年、家老に昇進し、京都で活躍する
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟を成立させる
会津戦争において、城中本丸で政務を掌握する
落城後、東京に幽閉されるが、その間、松平容保の助命嘆願をする
赦免後、青森県に移り、その後北海道に渡り、そこで死去する
享年48歳




春日左衛門<かすが さえもん>(1845-1869)幕臣・彰義隊

武蔵国で生まれる
戊辰戦争では、彰義隊頭並を務め、上野戦争に参加する
その後、蝦夷地に渡り、陸軍隊を結成し、隊長となる
遊撃隊と共に松前を守備するが、箱館総攻撃で負傷し、五稜郭内に運ばれる
そして、降伏が決まると、伊庭八郎と共にモルヒネを飲み自殺する
享年25歳




和宮<かずのみや>(1846-1877)内親王

仁孝天皇の皇女。孝明天皇の妹。
有栖川宮熾仁親王の許婚であったが、公武合体運動が起こると徳川家茂への降嫁が成立し江戸城に入る
大奥であった天璋院とはあまりうまくはいってなかったが、家茂との夫婦仲は良かった
鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が江戸に戻ると徳川家の存続を朝廷に願うなどした
徳川家の処分を見届けると、帰京するが、再び江戸に移り住む
その後、脚を患い、その療養のため訪れていた箱根塔之沢で亡くなる
享年32歳




勝海舟<かつ かいしゅう>(1823-1899)幕臣

江戸本所亀沢町に勝小吉の子として生まれる。幼名・麟太郎
7歳の時、勝甚三郎の養子となり、その娘のお信と許婚になる
また、従兄弟の男谷信友から剣術を習い、その弟子の島田虎之助を剣の師匠とする
そして、15歳で目録、21歳で免許皆伝となる
またこの間、島田虎之助に勧められ、蘭学と西洋式兵術を学ぶ
1850年、赤坂で蘭学塾を開き、蘭学を教える傍ら、佐久間象山の元で砲術を学ぶ
この時、佐久間が贈ってくれた「海舟書屋」という額を気に入り、「海舟」を名乗るようになる
また、後に佐久間象山の妹を妻とする
1853年、ペリーが来航すると阿部正弘が広く意見を求めたのに応じ、
海軍の創設を説き、人材登用・育成をすべきとの内容の上申書を提出する
1855年、長崎に海軍伝習所を開設し、伝習生監督の職に就く
1859年、江戸に戻り、講武所内に創設された軍艦教授所の教授方頭取となる
1860年、日米通商条約批准のため使節をアメリカに派遣することとなり
咸臨丸の艦長として、太平洋を横断する
無事任務を果たして帰還し、1862年、軍艦奉行に任じられる
また、この年、坂本龍馬が彼の家を訪ね門人となる
1864年、将軍家茂に直談判して神戸に海軍操練所を創設させる
その後、幕府の操練所を雄藩の子弟や浪人にまで開放したという理由で軍艦奉行を解雇させられ
翌年には神戸海軍操練所も閉鎖されてしまう
そして、約一年半の蟄居生活を送る
鳥羽伏見の戦いに幕府が敗れると、慶喜に陸軍総裁に任じられ、江戸での最高権力者となる
そして、西郷隆盛との薩摩屋敷での会談で江戸無血開城を成功させ、江戸を戦火から守る
維新後は徳川家と旧幕臣のために尽力する
享年77歳

臨終の言葉:これでお終い



桂小五郎<かつら こごろう>(1833-1877)長州藩士

萩城下で、藩医・和田昌景の次男として生まれる
8歳の時、桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ
藩校・明倫館で吉田松陰の講義を受ける
その後、江戸に遊学し、江川太郎左衛門から西洋兵学と砲術を
中島三郎助から造船を、手塚律蔵から蘭学を、斎藤弥九郎に剣術を学ぶ
そして、25歳で藩の公職に就き、26歳で大検使・江戸番手に奉職
30歳で祐筆に取り立てられ政務役に進む
安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、高杉晋作、久坂玄瑞と並ぶ尊攘派のリーダーとなる
1862年、長州の藩論を公武合体から尊王攘夷に転向させるが
8月18日の政変で長州藩士は京から追放される
その後も池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐と事件が続く中
ずっと京に潜伏し、藩の信頼回復に尽力する
またこの間、大村益次郎以外に自分の居場所を伝えなかった
そして、追手がくると剣を抜くこともせず、真っ先に逃げていたので「逃げの小五郎」とあだ名される
坂本竜馬と中岡慎太郎から薩長講和を斡旋され、下関で西郷と会見しようとするがすっぽかされ
激怒するが、再び坂本竜馬らに説得され、1866年、薩摩屋敷にて薩長同盟を結ぶ
そして、薩長同盟の確認の裏書きを坂本竜馬に頼み、薩摩と長州の間を奔走し、
倒幕挙兵を協議していく
1867年、王政復古が宣言されると、その翌年、新政府の参与となる
五箇条の御誓文の起草に参画した後、版籍奉還、廃藩置県の断行にも大きく貢献する
1871年には、岩倉遣欧使節団の一員となり渡欧する
帰国すると、それまで賛成していた征韓論に反対するようになる
そして、西郷隆盛を下野させ、後に征台論を唱えた大久保利通とも対立し、辞職する
1877年、西南戦争の最中に、脳腫瘍により死去
享年54歳




金子孫二郎<かねこ まごじろう>(1804-1861)水戸藩士

郡奉行として徳川斉昭の藩政改革に協力する
一時、郡奉行の座を追われるも復帰して実績をあげる
水戸藩に戌午の密勅が下されるように尽力するが、そのために幕府から圧力を受け脱藩する
名を変えて江戸に潜伏していたが、桜田門外での井伊直弼襲撃に参加する
事件後、京に逃げるが、伏見で捕まり、江戸で斬罪に処せられる
享年58歳




加納道之助<かのう みちのすけ>(1839-1902)新選組

伊豆賀茂郡加納村で加納伴平の長男として生まれる
大島流槍術の使い手
伊東甲子太郎や篠原泰之進らと共に新選組に入隊する
新選組では8番隊に属していた
その後、伊東らとともに御陵衛士として新選組から分離する
油小路事件では襲撃されるが辛くも脱して薩摩藩邸に逃走する
その翌月、伏見街道で阿部十郎らと近藤勇を銃撃し、傷を負わせる
その後、江戸の探索方となり、赤報隊に参加するが、独走する相楽総三らと別れ帰京し、投獄される
出獄後、薩摩藩に属して戦い、流山で投降した大久保大和と名乗っていた人物を近藤勇と見破る
維新後は、開拓使などを務める
1902年、自宅で死亡
享年64歳




萱野権兵衛<かやの ごんべい>(1828-1869)会津藩家老

若松城下の家老の家に生まれる
戊辰戦争では、常に藩主の側にあり、政務を処理する
若松城の篭城戦では、城外の攻防戦に参加し、食糧を運び込む等、重要な作戦に従事する
開城後、藩主の助命と引き換えに戦争責任者として自ら名乗り出る
1869年、刎首の刑に処せられる
享年42歳




河井継之助<かわい つぐのすけ>(1827-1868)長岡藩家老

長岡藩士・河井代右衛門の長男として生まれる
27歳の時、江戸に出て、斎藤拙堂、佐久間象山に師事する
28歳で藩政に関与するようになり、31歳で家督を相続する
そして、長崎に留学し、砲術を学ぶ
1863年、牧野忠恭が老中になると、公用人となり頭角を現す
翌年の第一次長州征伐では長岡藩の参加をおしとどめる
1865年に郡奉行、66年に町奉行、67年に家老となる
そうして藩の実権を握ると、次々と改革を進めていく
その中でも兵制においては、西洋式にあらため、装備を西洋化し、北越一の武装国家に仕立て上げる
戊辰戦争が始まると、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と戦うことになる
長岡戦争では、自らガトリング砲を操って防戦するが、結局防ぎきる事ができなかった
長岡城も一旦奪われるが、これを奪回するのが精いっぱいであり、新政府軍の戦力の前に壊滅する
この戦争で、左膝下に被弾して倒れ、会津藩領の塩沢まで撤退するが
破傷風を併発して死亡する
享年42歳




河上彦斎<かわかみ げんさい>(1834-1871)肥後藩士

小森貞助の次男として生まれる
小森彦治郎と名乗っていたが、河上源兵衛の養子となり、河上彦斎と改名する
文学を轟武兵衛に、兵学を宮部鼎蔵に、皇学を林桜園に学び、勤王思想を抱くようになる
尊攘の同志を募っていた清河八郎に共鳴し、轟武兵衛と藩主の上京を画策。これを実現し、同行する
その後、暫くの間、京に滞在する
30歳のとき、藩選抜新兵となり、攘夷監軍使として長州に出向くなどする
8月18日の政変で長州に下るが、池田屋事件の後、すぐに上京し、尊攘派の立て直しに奔走する
1864年、佐久間象山を暗殺し、この頃から「人斬り彦斎」と呼ばれるようになる
禁門の変では長州と共に戦うが、その後、肥後藩が長州征伐のために出兵すると聞き
説得するために帰国するが捕らえられ、鳥羽伏見の戦いまで獄中に繋がれる
その後、尊攘派に転じた肥後藩に軍事掛に任命されるが、新政府の方針に憤慨し辞職する
1869年、豊前鶴崎の警備隊長に志願し、有終館を設立。子弟に文武や操船術を学ばせる
明治の世になっても攘夷思想を持ち続け、不穏分子を匿ったり、反体制的発言をしたため、解職される
その後、捕らえられ東京小伝馬町の獄に入れられる
1871年、斬首の刑に処される
享年38歳

辞世の句:「君が為死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらむ」




川路聖謨<かわじ としあきら>(1801-1868)幕臣

豊後国日田代官所構内で内藤吉兵衛の次男として生まれる
1812年、川路三左衛門の養子となる
養父が病により隠居したことから家督を相続する
その後、奈良奉行、大坂町奉行、勘定奉行などを歴任する
1853年、プチャーチンの長崎来訪時、これに応対し、日露和親条約の締結に関わる
また、日米通商条約勅許申請のため堀田正睦が上洛に随伴し、公家の間を斡旋し、奔走するも失敗する
安政の大獄で処分された後、外国奉行として復職するが、5ヶ月ほどで辞職し、隠居する
1866年、中風で倒れ、半身不随となる
その後、病床に伏していたが、1868年、江戸開城を知ると、自宅で割腹し、ピストルで自殺する
享年68歳
辞世の句:「天津神に背くもよかり蕨つみ飢えにし人の昔思へは」




川路利良<かわじ としよし>(1834-1879)薩摩藩士

鹿児島吉野村比志島の与力の子として生まれる
薩英戦争や禁門の変での功績を西郷隆盛に認められ、その後、江戸に出て西洋式練兵と千葉周作に剣を学ぶ
維新後、司法省保助兼大警視に任じられる
これ以後、近代警察の基礎固めに尽力することになる
大警視に任じられた翌年、警察制度を学ぶため渡欧する
そして、日本にフランス式警察システムを導入し、日本警察制度の基礎を築く
西南戦争では陸軍少将となり、熊本城を守って鹿児島に入る
その後、再び渡欧するが、帰国後病に倒れ没する
享年46歳




河田佐久馬<かわだ さくま>(1828-1897)鳥取藩士

鳥取藩尊攘派の中心人物で藩内佐幕派の要人を京都で同志と襲撃し、謹慎の身となる
1866年、脱藩し、長州に身を投じ、のちに上京し、薩摩藩邸に潜伏する
戊辰戦争では、参謀として各地を転戦し、その功により300石を賜る
維新後は、鳥取県令、元老院議官等を務める
享年70歳




河田小龍<かわだ しょうりょう>(1824-1898)土佐藩士・画家

狩野派に絵を学ぶ
特に龍をよく描いたことから小龍と号するようになる
土佐に帰国した中浜万次郎を藩命で取調べ、「漂巽紀略」を著す
1854年には、自宅に訪ねてきた坂本竜馬に外国の知識を教えるなどしている
享年75歳




川村三郎<かわむら さぶろう>(1843-1922)新選組

近江国友村で生まれる。近藤芳助と名乗る
江戸市ヶ谷の天然理心流の門人で、早くから近藤勇らと親交があった
1864年新選組に入隊する
鳥羽伏見の戦いでは、千両松の戦いで銃撃を受け負傷する
そして、甲州鎮撫隊として出陣後、流山で近藤勇の投降現場に立ち会う
その後、会津でも戦い、母成峠ではぐれ、仙台で捕まる
維新後、川村三郎と改名し、横浜市議会議員、県議会議員等を歴任する
享年80歳




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