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久坂玄瑞<くさか げんずい>(1840-1864)長州藩士

長州藩藩医の次男として萩城下に生まれる
15歳の時、家族を失い孤独の身となる
松下村塾最初の入門者となり、後に四天王の筆頭と呼ばれるようになる
また、吉田松陰の実妹の文と結婚する
早くから尊攘思想を持ち、諸国の志士と交わり、
謹慎中で動けない松陰のために情報収集活動を行う
そして、藩論を公武合体から尊王攘夷に変える
1863年、久坂の呼びかけで集まった志士による光明寺党を結成し、
下関で外国船砲撃に加わる
この光明寺党は後の奇兵隊の元となる
8月18日の政変や池田屋事件などで京都は長州の手から離れ
もう一度天皇を抱き込もうとする急進派の動きが激しくなる
それを止めようとするが止められず、禁門の変によって戦うことを余儀なくされる
禁門の変は幕府側の圧倒的勝利に終わり、久坂は寺島忠三郎と共に鷹司邸に立てこもり
切腹し、自分で首を掻き切って果てる
享年25歳




九条尚忠<くじょう ひさただ>(1798-1871)公家

1856年、鷹司政通の後任として関白内覧に任ぜられる
日米通商条約勅許問題では幕府との協調路線を取り
将軍継嗣問題では、徳川慶福を推す南紀派を支持する
この態度が尊攘派公卿の反感を買い辞任するが、幕府の支持で復職する
和宮降嫁では、それを積極的に進め、幕府と折衝し、実現させ、公武合体に尽力する
しかし、攘夷派が朝廷内で実力を握ると激しく糾弾される
1862年、辞職し、落飾謹慎となる
享年74歳




久世広周<くぜ ひろちか>(1819-1864)老中・関宿藩主

阿部正弘の義弟。
1849年、老中に就任し、同じ老中の阿波正弘を補佐する
阿部正弘が亡くなり、井伊直弼が大老になると老中を辞職する
桜田門外の変後、復職し、安藤信正とともに幕政を執る
公武合体による幕府権力の回復を画策し、和宮降嫁に尽力し、これを実現させる
老中首座として、プロシアとの国交、ヒュースケン殺害事件、東禅寺事件などの対処に追われる
そこで、長州藩士・長井雅楽の「航海遠略論」という積極的開国論を事態解決の最善の方法とし
長井を支持するが、失敗する
そして、安藤信正が坂下門外の変で失脚すると、久世も辞職に追い込まれ辞職する
辞職後、朝廷に対して姑息な手段を講じたことを理由に処罰され、永蟄居となる
享年46歳




国司信濃<くにし しなの>(1842-1864)長州藩家老

1842年、長州藩士・高州元忠の6男として生まれる
1848年、万倉領主・国司廸徳の跡を継ぐ
長州3家老の1人となり、尊王攘夷派として藩政を担うようになる
8月18日の政変で失脚した藩主の陳情を伝えるため京に上り、これにより禁門の変が始まる
善戦するも薩摩藩の援軍に囲まれ惨敗する
やむなく兵を連れて長州に戻るが、事態が長州征伐にまで発展したため
藩の恭順の証として、福原越後、益田右衛門介とともに切腹させられる
享年23歳
辞世の句:「よしやよし世をさるとても我が心皇国のために猶つくばさや」




粂部正親<くめべ まさちか>(1841-1910)新選組

大坂天満与力の子として生まれる
1865年の隊士募集に応じて入隊する
幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受け、後に伍長となる
翌年、鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、甲陽鎮撫隊として出陣し勝沼の戦いに敗れる
江戸今戸から負傷者を会津に移送するため本隊に先発する
会津では軍目を務める
母成峠敗走後は、斎藤一らとともに会津に残留する
そして。如来堂守備中に襲われ死亡とされるが、会津を脱出し、
銚子で池田七三郎らと共に捕らえられる
東京に護送され、謹慎し、謹慎が解かれた後は陸軍に出仕し、中尉にまでなる
1910年、自宅において死去
享年70歳




雲井龍雄<くもい たつお>(1844-1870)米沢藩士

15歳の時、藩校・興譲館付設の有于堂で学ぶが校風に馴染めず辞める
18歳の時、小島才助の養子となり、20歳の時、家督を継ぐ
1865年、江戸に派遣され、多くの俊秀と交わる
帰国後、藩から探索方に任じられ、京都に潜行する
戊辰戦争では、戦争が薩長の野望によるものと批判する
また官軍の東北進撃を阻止するため反薩長の同志を集める
そして、諜報やゲリラ活動を行う
奥羽列藩が降伏した後も上京して同志を集め密議を行い、政府転覆計画を画策する
しかし、計画が実行前に発覚してしまい、捕らえられ梟首となる
享年35歳




栗本鋤雲<くりもと じょうん>(1822-1897)幕臣

幕府医師・喜多村家の3男として生まれる
その後、栗本家に養子に入る
将軍家侍医となるが、問題を起こし、蝦夷地に左遷される
そして、そこでフランス人宣教師からフランス語を教わる
また、箱館で病院を開き北海道開拓に貢献する
1862年、士籍を得て江戸に戻り軍艦奉行、外国奉行等を歴任する
1867年、渡仏し、フランス政府と借款交渉等を行う
維新後は新聞記者として活躍する
享年76歳




黒駒勝蔵<くろこま かつぞう>(1831-1871)赤報隊

甲斐八代郡上黒駒若宮の小池嘉兵衛の次男として生まれる
1858年、隣村の吃安の子分となる
1862年、吃安捕縛に絡み甲斐を追われるが1862年に甲斐に戻り親分の仇を討つ
その後、博徒の親分となり、清水次郎長と勢力を二分する
戊辰戦争では赤報隊に加わるが、すぐに徴兵七番隊に組み替えとなり
そこの隊長として東征軍に加わる
1871年、親分の仇として討った、犬上群次郎殺害という過去の罪を問われ斬首される
享年41歳




黒田清隆<くろだ きよたか>(1840-1900)薩摩藩士

鹿児島城下の新屋敷町に黒田清行の長男として生まれる
1863年、薩英戦争において初めて実戦を経験する
翌年、大山巌とともに江戸の江川太郎左衛門の塾に入り、砲術を学ぶ
禁門の変に参加し、また1865年、西郷の使者として長州に赴き、桂小五郎の上京のため奔走し
翌年の薩長同盟の成立に尽力する
戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いのあと、北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀となる
長岡城攻撃において、同じ参謀の長州の山県有朋と共に苦戦する
この時、山県と対立し、以後和解することはなかった
奥羽平定が終わり、帰国するが、その翌年、箱館追討軍の陸軍参謀に任ぜられ宮古沖に侵攻する
箱館五稜郭において、榎本武揚軍を攻め、降伏勧告をする
しかし、榎本軍は徹底抗戦を返答し、戦火のため失われたくないとして「海律全書」を贈る
そして、返礼として、マグロ5尾と酒5樽を贈り、わざと包囲の一部を解き脱走者の流出を促す
そうして、五稜郭を降伏させる努力を続けた
降伏後は、榎本助命に奔走し、榎本の救出に成功する
箱館戦争後、開拓次官となり、北海道開拓の礎を築く
西南戦争では熊本城を救援し、西郷を敗北に追いやる
その後、内閣総理大臣や枢密院議長等を務めるが、次第に孤立していく
1900年、「今夜は熟睡しよう」と言って亡くなったという
享年61歳




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