≪み≫




三浦啓之助<みうら けいのすけ>(1848-1877)新選組

佐久間象山の息子で、本名は佐久間恪次郎。
1864年、勝海舟の口添えで新選組に入隊する
平隊士でありながら、普通とは違った経緯で入隊したため
別格の扱いを受ける
しかし、性格が傲慢であり隊規を乱したため、粛正されそうになる
そして、同じ隊士の芦屋登と脱走し、故郷の信州に戻るが
罪がばれて松代藩の獄舎に繋がれる
明治に入ると、勝海舟の紹介で西郷隆盛に預けられ、2年後に上京する
そして、福沢諭吉の慶応義塾に入る
1877年、急死する
享年29歳




溝渕広之丞<みぞぶち ひろのじょう>(1828-1909)土佐藩士

1853年、坂本龍馬が江戸へ剣術修行のために出かける時に同行する
1866年、砲術遊学生、時勢探索の役目で長崎に滞在中に坂本龍馬と再会し、
後藤象二郎を紹介する。これが龍馬の脱藩罪赦免、海援隊結成へと繋がる
明治以降は官職に就かず、家督も養子に譲り、世俗を去って悠々自適の生活を送る
享年82歳




壬生基修<みぶ もとなが>(1835-1906)公家

8月18日の政変で追われた七卿の1人
和宮降嫁の際、公武合体派の公家を失脚させるなどの活動をする
1863年、国事奇人となる
8月18日の政変で失脚するが、王政復古により新政府に参与として加わる
会津戦争では、越後口総督となる
戦後は、東京府知事等を歴任し、晩年には貴族院議員を勤めた
享年72歳




宮川助五郎<みやがわ すけごろう>(1844-1870)土佐藩士

土佐藩上士の身分であったが早くから尊攘運動に奔走する
1862年、中岡慎太郎らと五十人組を結成し、総組頭となり江戸へ出る
1866年、三条小橋畔の幕府の制札を抜こうとして新選組に捕らえられる
後に釈放されて土佐藩に預けられる
戊辰戦争では軍曹として従軍するが、箱館に向けて出陣する前に東京で急死する
享年26歳




宮島誠一郎<みやじま せいいちろう>(1838-1911)米沢藩士

若くして藩校の助教となる。
そして、江戸藩邸に勤め、全国各地を遊歴して見聞を広める
戊辰戦争では、朝廷や長州にかけあって出兵の中止を求める
彼の奔走で戦争は回避できたかに見えたが、列藩同盟はこれを信じようとしなかった
また、官軍の参謀であった世良修蔵が暗殺されたことで彼の努力は無駄となる
明治になってからは政界入りする
享年74歳




宮部鼎蔵<みやべ ていぞう>(1820-1864)肥後藩士

上益城郡七滝村で、宮部春吾の長男として生まれる
山鹿流兵法を学び、1850年に藩の兵法師範役に任じられる
1851年、家老に従って上京し、吉田松陰らと交流する
帰国後、林桜園に入門して国典を学び、尊王攘夷思想に染まる
黒船来航時に再び出国し、吉田松陰の密航について幕府から尋問を受ける
1855年、実弟と弟子達が乱闘事件を起こし、責任を取って辞職し、七滝村に隠居する
1862年、肥後の尊王運動の興起に努める
8月18日の政変では、七卿とともに長州に逃れる
その後、すぐ上京し、池田屋で同志と会合中に新選組に襲われる
奮戦するも力及ばず自刃して果てる
享年45歳




三吉慎蔵<みよし しんぞう>(1831-1901)長府藩士

文武に優れており、宝蔵院流の槍の免許皆伝者でもあった
1866年、坂本龍馬に従い上京し、寺田屋で龍馬の危機を救う
その功で毛利敬親から新身刀の下賜、長府藩主から20石の加増を受け、
さらに目附役に任じられる
坂本龍馬が暗殺された後、彼の妻・おりょうを3ヶ月預かる
明治に入り、廃藩置県後、毛利家の家扶を勤める
明治10年から23年まで北白川宮家の家令を勤める
その後、帰郷し悠々自適の生活を送る
明治政府から従六位を賜る
享年71歳




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